2020年8月28日金曜日
関昭典の研究室 私の履歴書 #21 ネパール大地震発生
2020年8月22日土曜日
関昭典の研究室#20(国外居住 ② ネパール)
タイの歴史に刻む大洪水が収まってネパールからバンコクへ帰国したものの、洪水の爪痕が色濃く残り教育機関も大混乱の真っ最中。とても教育調査のお願いなどをできる雰囲気ではなかった。逆の立場になってみたらもし自分の家が水没しかけて混乱しているところに、ノコノコと外国人が「教育の調査が・・・」などと押し掛けてきたら迷惑千万どころの心象ではない。「何を呑気な!」と、人によってはビンタを食らわす衝動にすら駆られるかもしれない。
だが僕は教育調査を目的に日本を飛び立った、研究の進捗を生まずに帰国するわけには行かない。まさか研究成果の代わりにお土産のお菓子をたっぷりスーツケースに詰め込んで日本に帰っても歓迎されるはずがないことは火を見るより明らかだった。頭を抱え悩んだ末に決意したのがネパールへの拠点移動である。「拠点移動」わずか4文字だが、経験者には周知のとおり引越しは国内でも一苦労だ。外国からさらに外国への家族を伴う引っ越しは想像以上の大きな作業だった。しかし、このままバンコクに居続けた場合のビジョンが、まるで山頂で濃霧に遭遇したかの如く見えなくなってしまっていたのだ。
東京の本務校には正直に事情を話し、許可はいただいたが家族でのネパール引っ越しはさほど単純ではなかった。ドイツ人妻は驚異的全世界対応型グローバル人材(7か国語話者)。食べるだけで世界中の人と言葉が通じる秘密道具として、ドラえもんの「翻訳こんにゃく」があるが、妻は「翻訳こんにゃく」を食べずして地球上のほとんどの国で言葉が通じるのだ。言葉の問題は考慮しなくても良いと思い、どこでも大丈夫だと思っていたが、「カトマンズ(首都)だけはやめてほしい」と言われてしまった。理由を聞くと深刻な大気汚染。彼女の理屈はよく理解できたがカトマンズ大学客員教授のポジションが得る目途が立っていた僕はかなり戸惑った。さらにネパールでは高等教育はカトマンズに集中している。さらに頭を悩ませたのが小4の二男の学校。
考えに考えたあげく出した結論は、カトマンズからバスで8時間程度の場所に位置し、ヒマラヤの玄関口とも呼ばれる“ポカラ”という小さな町(といってもネパール第二の都市)に住む方法だ。ここならば空気も悪くないし知り合いにも恵まれている。妻は納得した。しかし、二男にはやや酷な経験をさせざるを得なかった。僕自身が当時関わっていた貧困児童救済のための学校に“留学生”として受け入れてもらったのだ。狭い一部屋に8人がひしめく全寮制。担任の先生は17歳。教師の平均年齢18歳。洗濯は川で、水は井戸水。これほどの劣悪な環境で小学時代を過ごした日本人(&ドイツ人)は彼の他にはいないと断言できる。ただし、僕はそこまで無責任ではない。彼の学校のすぐ隣の高層階に暮らし、毎日学校を観察した。それどころかアドバイザーとしてほぼ毎日学校に通い、高校生教師たちに“教え方の指導”までした。ちなみに、そこの生徒たちは農村部の極貧家庭の子どもがほとんどであったが、頭はキレる子たちだったので、教え方を工夫すれば力はついた。息子には、ほぼ毎朝2時間、僕自身が日本の教科書で‟ホームスクーリング“して補った。ちなみに二男のネパールでの暮らしの集大成は:
➡https://www.fujitv.co.jp/charity/event/2013_1206zenbun.html
当時のネパールは政治的にかなり不安定で、新憲法もなかなか制定することができずストライキが頻発していた。1日に18時間もの停電にはさすがに度肝を抜かれてしまった。18時間といえば1日の4分の3にも相当する。もはや電気製品はほぼ意味をなさない世界であった。そんな中ポカラのネパール観光大学に客員教授として籍を置かせていただきながら、教育の中心地であるカトマンズにもよく足を運んだが、物事が順調に進むことはほとんどなかったと言ってよい。教育省や高等教育機関では、深刻な“汚職”を眼前にして何度も絶句した。僕自身、非常に大事な場面で「包み」を渡さなかったばかりに大変大きな犠牲を払った(詳細は退職後に話す笑)。
この窮地を救ってくれたのはネパールの学生たちであった。特に、僕の活動を知って手伝いたいと申し出てくれたMahimaという女子学生は、その後家族ぐるみで僕の活動を支え、持ち得るすべてのネットワークを駆使して最大限の努力をしてくれた。彼女を通じて知り合う人たちは善人ばかり。協力者が一気に増えていった。ポカラだけでなくカトマンズの善人たちとも急速に繋がっていった。
現在でも僕は多くの時間を学生と過ごし、「学生パワーで世の中に変革を!」という活動をしているが、その原点がMahima。そして、彼女を中心とした数名の学生と9か月間もかけて作り上げたのが、2013年2月に開催した「ネパール ― 日本学生交流プログラム2013」現在の国際学生交流プログラムの原型だ。僕の日本での前任校(新潟県立大学)の学生たちからの依頼を受けて実現したものだ。熱中したらトコトン突き詰めるところのある僕はまるで重箱の隅をつつくように、側から見たらあまりに細かいところまで突き詰めて準備したので、彼らは正直“ウザい”と思っていたかもしれない。でもMahimaは辛抱強く彼らのモチベーションを維持してくれた。結果このプログラムは大成功。僕の心に新たな世界が広がった。
ちなみに、僕が代表を務めるAAEE, アジア教育交流研究機構のフェイスブックのページを立ち上げてくれたのも彼らだ。10人ぐらいの学生で一生懸命にAAEEの活動を宣伝くれた。
帰国数か月前のある日、一人の学生が「プロフェッサーが帰国する前にお礼として何かプレゼントしたい・・・しかし僕たちにはお金がない」と嘆いた。僕は冗談で「AAEEのフェイスブックで1,000人を達成したら僕は天にも登る心地だ」と答えた。その冗談を真に受けたネパールメンバーは本気で集客を始めた。
そして僕がネパールから日本に帰国する数日前。パーティーが開かれ、そこで彼らの友人が押して見事1,000人を達成。クラッカーで祝った。超感動した。今や20000人を超すフォロアー皆に、あの時の感動伝えることが出来たらいいのにとよく思う。(1000人を達成した瞬間の映像は:
➡https://www.facebook.com/
フォロアー20000人に達したAAEEのページは:
➡ https://www.facebook.com/AsiaAssociationOfEducationExchange/)
最後に余談となるが2年間の海外在住中、ある出版社と契約してある雑誌で「アジアの国の学校」という刊頭特集を執筆させていただいていた。調査のために短期滞在した8カ国で高校や大学などの教育機関を観察させていただき、その様子を12回に亘り執筆して記事にしていただいた。そのおかげで東南アジア、南アジアで多くの善良な方々と知り合うことができ、今でも交流を続けている。
苦難の二年間であったが、同時に多くの「心豊かな」親切な方々に支えられて満足のいく国外研究生活を終えることができた。何よりもこの二年間で得た最強のネットワークがその後の僕の活動を飛躍させることとなった。
関昭典の研究室#19(国外居住①タイ)
2011年~2012年度、二年間外国に居住した。東京経済大学に籍を置きながら「国外研究」という制度を利用した。居住地はタイのバンコク(だけのはずだった・・・)。ここでは細かい研究の話は抜きにして、これまでに語ってきたことの流れで記す。
本題に入る前にどうしても触れておかねばならないことがある。2011年3月11日、東日本大震災。あの地震の瞬間は大学の7階の会議室で教授会の最中だった。あまりにも揺れが激しくて「これ、建物崩れるのでは」と同僚が思わずつぶやいたほどだ。まるで巨人の手で建物を掴まれてゆさゆさと揺さぶられているかのような激しい揺れだったのだ。その夜は帰宅難民となってしまい、大先輩同僚のお宅にお世話になった。家族に連絡が着いたのはよく朝のこと。昼すぎに電車が動き、帰宅すると・・・ドイツ人の妻が大騒ぎしていた。「早く逃げないと。被ばくする!」福島第一原発が電源喪失していた件は知っていたが、テレビニュースを見る限り何とか制御されているようだった。僕が「落ち着いて。大丈夫」と答えると、彼女はドイツに住む原発専門家の友人との通話をスピーカーオンにして、僕がより理解できるように英語で話し始めた。「どう見てもメルトダウンしているとしか考えられない。」彼の見解は当時の官房長官枝野氏の会見とは全く異なるものだった(結局ドイツ情報が正しかった)。そして間もなくドイツ外務省から妻宛てに避難勧告メールが届いた。そう言われても、既に4月5日のバンコク行きのフライトを予約してあったし、引っ越しの準備なども何もしていない。困り果ててしまった。相反する意見の違いの間に挟まれることをことわざで「板挟みになる」というが、妻と大学という二枚の板に挟まれた。決断する前は、割れつつあるクレバスの裂け目に両足をそれぞれ乗せて体が引き裂かれるような葛藤に苛まれた。しかし時間は待ってくれない。まるで足元の氷の割れ目が広がっていくように、決断の時は迫ってくる。
結局、大学に特別に許可を得て、大慌てで準備をして家族でタイに旅立った。
地震発生から出国までの5日間はもう滅茶苦茶。周囲の人々が妻のメルトダウン・パニックを「何ておおげさな」と冷ややかに見ていた。海外への引っ越しには様々な手続きを伴うが、彼女の立場に立って急遽出発する事情を話す僕への視線も概して冷ややかだった。日本に暮らす外国人の気持ちが少しわかった。
タイでは、バンコクのチュラロンコン大学教育学部の客員教授 (Guest Professor)としてお世話になった。チュラロンコン大学はタイ最古の大学であり最高学府として名高い。別名 Pillar of Kingdom(国王の柱)とも言われ、卒業式は国王自らから学生一人一人に卒業証明証を手渡しされるほど期待を受ける、まさにエリートたちの学び舎だ。彼らとの交流は思い出深い(英語だけで事足りた)。
学部長室の隣に研究室を準備していただき、秘書の方々からもタイの事情を様々教えていただいた。教授陣はまさに「教授」らしい振る舞いをされていて近づきがたかったが、秘書さんや学生さんたちは、最初の緊張がとけてくると親しく接してくれて嬉しかった。まるで氷の壁が溶けるように、赴任当初に感じていた目に見えない壁が薄くなっていくのを感じた。「ここに2年いれば、結構まとまった教育調査ができる。」と確信めいた手応えがあった。
僕はバンコクにネットワークもないままに赴任したので、2年間を半年ずつ4分割し、①ネットワーキング ②予備調査 ③本調査 ④まとめと計画した。
ネットワーキングは予想以上に手間取った。チュラロンコン大学客員教授の肩書きは、信頼を得るにはとても有利だったがそれだけでは足りなかった。タイは日本以上に「人の紹介」が重視されるネットワーク社会。新しく人と会うときには、紹介やツテの有無が重視され、そのツテを僕は備えていなかった。
さらに僕は最初、タイ文化に無知であった。それまでにネパールやインドで調査を行った際には、事前に電話をして直接訪問すれば大概何とかなった。しかし、そのやり方が通用しなかった。「なぜだろう」と思い悩んでいる内に早くも数か月が過ぎていた。正直イライラしていた(カルチャーショック状態)。ある時親切な同僚が見かねてアポの取り方の見本を示してくれた。そのやり方は僕が思うよりずっとフォーマルだった。タイ式のアポの取り方を知らずに訪問を繰り返した僕の行動は、タイの人からはまるでビザを持たずに入国検査を突破しようとする旅行客並みに無謀な挑戦にみえていたのかもしれない。
さらに、「トップ大学教育学部の教授に調査されることへの警戒心が強い」とも教えてくれた。言われてみればその通りだ。そこでチュラ大の学生の出身校を学生と一緒に訪ね、学生が作ってくれた文書を提示すると難なくOKが出た。それ以来僕はいつも学生を連れて廻るようになった。彼らはタイのことについて惜しみなく情報提供してくれたので、もはやどちらが「先生」かわからない状態であった。
彼らのおかげでようやく調査のネットワークができて、「さあ、下準備は終わった。本格的に調査をはじめよう!」と思った頃に悲劇が起こった。
タイ史上に残る大洪水がバンコクに襲い掛かったのだ。約230万人以上の生活に影響を与え、4,000億円弱の経済的ダメージを与えたと言われる凄まじい洪水。アフリカの小国1カ国の資産価値が約4,000億円であることを鑑みると、被害の甚大さは分かりやすい。
このせいで、タイの教育機関は3~4か月完全休校となり、教育調査どころではなくなってしまった。そもそも暮らした地区のすぐ近くまで洪水が押し寄せ生活自体が危うくなってきた。日本のテレビニュースでも甚大な被害が連日トップニュースで報道された。息子たちの通う学校も休校。
東京経済大学の関係者からも「近隣国への避難」を薦められ、向かったのが、知り合いの多いネパールであった。あくまでも洪水が落ち着くまでの一時避難の予定だったが、洪水が長引いて結局2か月ほど滞在した。当時長男は中3で二男は小4。遊び惚けさせるわけにはいかず、知り合いの学校に体験入学させていただいた。僕は友人を通じていろんな方を紹介していただきひたすらネパール事情に耳を傾けた。日本から学生を引率してくるときには聞けない貴重な情報を豊富に得ることができネパールの面白さにさらに魅了されてしまった。
バンコクの状況は年末には落ち着き、一時避難は終了。家族で帰国・・・のはずが。
ここでさらなる大事件が発生した。一家の一大事。
中三の長男がバンコクへの「帰国」を拒否したのだ!
「僕はネパールがいい。ここに残る!」
これには我が家族のみならずネパールの方々やバンコクの学校の先生を巻き込んだ騒動に発展した。ただ、よく考えてみると彼の気持ちも理解できた。そこで僕は彼の味方となりバンコクの担任の先生やネパールの学校の先生と必死の交渉を試みた。しかし結論として、「このままネパールに残ると在籍するバンコクの学校での出席日数が足らず義務教育を修了できないまま終わる。」と告げられた。長男には「中卒の資格が取れなくなるみたいだよ。形式的にでもいいから帰国しよう。卒業資格を得たらまた戻ってくればいい」と説得すると最後は素直に応じた。そして文字通り形式的に帰国し卒業資格を得た途端に一人ネパールに戻って暮らし始めた。彼の脳内で何かが破裂してしまったことは明らかであった。思えば夏休みにネパールに旅をさせた頃から予兆はあったのであるが。
彼の夏休みネパール旅➡http://yoshikinepal.blogspot.com/2011/11/blog-post_2159.html
妻は、あまりにも早く訪れた長男との別れに、見送りの空港で泣き崩れた。ドイツ人として日本で産み育てた我が子を、タイの空港でネパールに見送る。これほど奇妙な別れを素直に受け入れろと言う方が無理であろう。しかし当時の写真を見返すと、空港で彼と肩を組む僕はなぜか満面の笑顔であった。
この時には、その数か月後に、まさか僕までもが妻や二男を連れてネパールに暮らすことになるなどとは夢にも思わなかった。
(続く)
2020年8月15日土曜日
関昭典の研究室#18 (異文化間学生交流プログラム)
関昭典の研究室#18(異文化交流プログラム)
以前(4~5年前)、JICA地球ひろばの公式ブログに「人生における心の支え」と題して寄稿し、以下のように書いた。
人は困難に遭遇し身動きが取れなくなったとき、過去に積み重ねた感動を心の拠り所に生き抜いていけるのだと私は考えている。私は教育者として、出会った若者たちに人生を生き抜く支えになる感動を与えたいと常に考えている。ではこの私に何ができるのか。その答えがAAEE,アジア教育交流研究機構にあり、これこそが私のできる社会貢献、国際協力なのである。
(https://partner.jica.go.jp/ColumnListView?cat=ColumnList2017¶m=news_483)
ここに「感動」という文字が繰り返し使われている。
読者の皆様には知っている方もいるしれないが、僕はある時期から言語教育から転換して「学生主体の異文化間交流活動」に力を注ぐようになる。
なぜ僕は今このような活動をしているか。
一言で言うと「学習者に感動を与えたい」からだ。
今回の内容は企業秘密をバラすことになってしまうかもしれない。なぜなら、これから記す内容は、僕が代表を務めるアジア教育交流研究機構(略称AAEE、非営利型一般社団法人)で構築したメソッド(AAEEメソッド)に基づいているからだ。この活動を一つの「商品」に喩えたとしたら、今回のメインテーマである「感動」は商品価値を生み出す心臓に当たるようなものだからだ。
だが、もはやこのメソッドを使って他者と競う気もないし、むしろAAEEメソッドを使ってもらうことで人生が変わる人が出ればいいかなという境地に至っている昨今である。
AAEEの活動内容については➡https://note.com/multiculturalism/n/n36bec34d0aa0
勤務校での経験を例に取って記す。
東京経済大学に赴任して2年目からリベラルアーツ教育を担う「21世紀教養プログラム」を担当し、ネパールなどに学生を連れて行いくも、学生と僕で見ているものが違ったことについては前回の記事で触れた。僕は学生に「貧困」などを知ってもらいたいという意図だったが、学生は食事や水に熱中するなど僕の意図からは外れて多様だった。まるで馬の乗り手の意図している方向と、馬の駆ける方角が異なるようなほどの「意図はずれ」だった。しかしまるで突然馬が乗り手の期待を超えて全速力で目的地に疾走を始めるが如く、帰国後の学生たちはなぜかほぼ全員が「言語学習」に傾倒し始めた。そして、そのモチベーションに当たる「にんじん」は何かというと、学習開始の動機が現地の人々との交流を通じた「感動」にあることが推測できた。
そのことをしっかりと確かめた上で、「感動を引き起こす」仕組みを考えれば、“交流を通じた学びの構築”理論として成立させることができるのではないかと漠然とながら考え始めた。少なくとも僕が引率した学生の「感動➡その後の言動の変化」は、ほぼ100%の確率の想定する通りに推移していた。
ところで、そもそも「感動」とは何か?
実際に取り組んだ過程を詳細に辿ると助長になってしまうので、ここでは結論から書く。
辞書などで概念的な理解をする事はあまり役に立たなかった。脳みそに汗をかくほど自分の頭で考えて思いついた内容が役に立った。僕の性格的におそらくそうなのだろう。
僕にとって感動とは「人のそれまでの経験値に新しい要素がくっつくこと」だった。新しいものがくっついたその瞬間に、その人は心が大きく揺れ動かされる。それが僕の考える感動である。
くっつくという言葉が弱ければ小惑星同士の衝突に例えても良いかもしれない。恐竜の生息した太古の地球に隕石が衝突して(くっついて)、地球環境がガラリと変わって新たな生命が生まれたという。まるでそのような隕石の衝突に相当するかのような、「新たな時代の開始点」になり得る変化のきっかけ。それが「感動」の正体だ。
いったん話は逸れるが学習の基本に「notice(気付き)」というものがある。何か新しい概念を言葉で伝えられても、学習者は本当の意味で理解できていないことがある。知識として知っていたことがある時「はっ」と腑に落ちる瞬間がある。その「notice(気付き)」が学習者にとっての成長の一歩である。「感動」とは「notice(気付き)」がより強力な形で現れたものだと考えている。
「notice(気付き)」は一つ気がついたら終わりという事はない。「チリも積もれば山となる」「雨だれ石を穿つ」という諺もあるように、10つ100つと山のように積もった小さな気づきの積み重ねが学習者を成長させる。
一方感動とはもっとダイナミックなものだ。「感動」をきっかけに学習者の世界の見方が大きく変わる。
「交流を通じた」感動体験➡動機づけアップという仕組みができればいい。
この仕組みを構築するためにまず手を付けたのは、「異文化コミュニケーション」について真剣に検討ですることであった。この分野に関しては興味本位でいろいろと調べてはいたが、腰を落ち着けて考えることまではしていなかった。そこで今から12年ほど前からじっくりと考え始めた。異文化間交流活動という独特な場面の目に見えない心の動きを探る作業。難しいが探るだけの価値はあると思った。
僕が目を付けたのは「深層文化(Deep Culture)」という考え方(Shaules, 2007)。異文化環境に身を置いた人間が数年(数十年)に亘って辿る心の変容過程を詳細に説明した理論だ。1950年代に提唱された有名なカルチャーショックの「Uカーブ」曲線を進化させたものである。
ここで「Uカーブ曲線」(Lysgaard,
1955)をとりあげよう。相手文化に適応するには数年間をかけて「ハネムーン期→カルチャーショック期→適応期」の三段階を経るという仮説だ。
この理論をネパールプログラムに当てはめたら、何かしっくりくる説明ができた。そして、カルチャーショック➡受け入れる、という心の動きの中に「感動」を絡めることはできないものか、超真剣に考え始めた。
それ以来、異文化交流活動の度に、計画段階からプロジェクトの全体像をイメージしてノートに書くようになった。目の前に全体像を視覚化するため、デザイナー用の、1ページがA3の大きさの大きなノートに見開きをひろびろ使って書き込んだ。
プログラム中も、早朝や深夜、密かにスーツケースから取り出した「巨大ノート」から誰にも見られないよう取り出し、思いついたことをすべて必死に書き込むときの集中力は、好きなことに没頭する正に「フロー」状態であった。書く内容は時系列に沿った滞在期間中のイベント、そこで何が起こったのか、参加者それぞれの性格、発言、表情すべて。更には、過去に参加した学生の状態とも照らし合わせる。
一晩で何億ドルも儲ける百戦錬磨のギャンブラーはわずかな筋肉のこわばりや表情の変化から、対戦相手の心理を(相手以上に)掌握するという。プログラム期間中の僕もまるで数億ドルのチップをかけたギャンブラーの如く、(笑顔で学生と雑談しながら)学生の僅かな感情の変化に学生以上に敏感に感じ取れるように集中力の刃を研ぎ澄ましている。
緻密な分析から一つ分かった事は「感動した瞬間に、本人はそれを自覚していることばかりではない。」ということだ。
ただ客観的な観察者である僕は、まるで世界トップレベルのポーカープレイヤーが相手の手札を透視するが如く、学生の感情の機微を「この学生はそろそろ感動する」と高い精度で予測することができるようになった。後で①直接聞いてみる、②事後報告書(帰国後に学生に書いてもらうレポート)を読むことによって、どのタイミングで学生が感動していたのかをさらに確認することができた。
その頃までには、(少し神がかっていると思うかもしれないが)学生が感動する予兆を体感するようになった。具体的には・・・鳥肌がたち、“ブルブル”と震えがくるのである。この震えがくると、その後まもなく「感動」の瞬間が訪れた。
ということで、鳥肌が立つための仕掛けを戦略的に検討し始めた。その戦略は1つ2つではいけない。僕はこの道の素人なのだから、10個以上の大量の仕掛けを投入して当たるのを待つ。高校教諭だった頃の「動機づけ」戦略と同じ考え方。すると、10個の仕掛けの内、1つだけではなく、2つ3つと同時にハマったときに鳥肌が立つことが経験則となった。日本の夏の風物詩とも言える大花火大会では、クライマックスに何個もの花火を連鎖的に打ち上げることで来場者の心に激しい感動を与えるが、「連鎖させることで感動のボルテージをあげる」行為はそれとイメージは似ているかもしれない。単発で仕掛けという花火を「バン・・・」と爆発させるのではなく、学生の心を夜空に喩えるとしたら、夜空を埋め尽くすほどに「バン!バン!バン!」と連鎖させることが大切なのだ。これ以上ここでかくと、もはや読者が“不気味”だとドン引きしてしまうかもしれないので、一旦流れを切る。
仕掛けの例を一つだけ。
交流中の食事は、基本としてネパール人と日本人で隣り合って座るような座席配置にしておく。これは仕掛けの準備段階。その状態で何度か食事を繰り返すと学生がいろんな“症状”を示すようになる。その症状に合わせて、いくつもの仕掛けを調合した“クスリ”を投入し、また結果を観察。その繰り返しだ。集団力学(グループダイナミクス)を活用させてもらっていることも一言加えておく。集団力学とは「集団における、人の行動や考えは、その集団の影響を受け、集団に対しても影響を与える」という理論でレヴィンという学者が提唱した。
ここまで記したようなことはすべて、僕自身の心の奥から湧き出て来る興味に関すること。さらに目の前にいる自分の知っている学生たちが変容していくのは嬉しい。だから、これに関する活動に従事している限りにおいてはどれだけ作業量が増えても全く疲れを感じない。寝る間も惜しいくらいだ。オリンピックに出るマラソンランナーはゴール直前になってもドーパミンがドバドバ出て「(つらいはずなのに)もっと走りたい!」と驚嘆すべきやる気を発揮するが、交流プログラムで(辛いはずなのに)全く疲労を感じない僕の脳味噌も、まるでフルマラソンを走っているオリンピック選手のような状態なのかもしれない。
「私の履歴書#3(インドネシアでの原体験)」
(https://akinoriseki.blogspot.com/2020/04/blog-post_17.html)にて僕が高校生のときに、自分自身がインドネシアで異文化交流をして感動をした経験を書いた。あの時の気持ちが本物だからこそ、「感動」の仕組みを暴いてみんなと共有したいという現在のモチベーションにつながっているのだろう。
2020年8月10日月曜日
関昭典の研究室 私の履歴書#17(世紀の大発見)
東京経済大学に来てからの僕の1年間は腰を落ち着けるまもなくあっという間に過ぎ去っていった。例えば、家族を新潟から東京に呼び寄せるための引越し、新しい大学での人間関係、東京へ適応など。次から次へと新しいイベントが舞い込み、まるで暴風雨に直撃されたような慌ただしさに文字どおり生きているだけで精一杯な1年間だった。
当時30代だったが、もし10代・20代の僕だったらキャパシティの堤防は決壊していただろう。
環境の変化にも戸惑った1年間だった。
直前までの勤務大学は新潟県民が大半を占める女子大学の英文科。一方、東京経済大学は男子学生が7割以上を占め、外国語学習に興味を持って入学した学生ではない。両者の雰囲気は明らかに違った。また、それまでに上手くいき自信を持って学生に課した学習課題に全く手ごたえを感じなかったのは誤算であった。。
東京経済大学という今年(2020年)で120周年の伝統を背負っているような、歴史ある大学で働くことにも気後れしていた。創設者の大倉喜八郎は日本経済史の立役者。「進一層」の精神など重いものを背負っている大学。相も変わらず運任せの、衝動的な僕は、そのようなことも露知らずに新潟から出てきたのである。「企業分析ゼロ」東京の大学というだけで応募した。
同僚にも圧倒された。
例えば就任の挨拶をおこなった同期は、戦前から日本に存在しているエリート大学である旧帝大で裁判員制度導入の立役者や、東京高等裁判所の元裁判官など。驚きながら研究室に向かったら、隣の研究室は芥川賞作家。驚きに追い討ちをかけられた。「なんだここは!」と東京のスケールの大きさに圧倒された。
元々僕は自分に自信がない人間だ。同僚たちの経歴にも打ちひしがれてすっかり参ってしまった。「私の履歴書#1」でも書いたが、優秀な兄への劣等感を感じて育ったし、悲観的・内向的な性格だった。心理学的に分析するなら自己効力感がとても低い性格。物事を悲観的に捉えがちだし、そうなるに考えるに足る苦い思い出が多い。元々の性格が内向的だから、自分の内側に籠もってしまった。学生の前では内向的になれないのでそれ以外の時間はひたすら内に籠った。例えば、大人の親睦会などはほぼ欠席。
同僚がいい人たちなのは分かっているのに、自分の歓迎会でさえも内に篭り早めに帰ってしまった。おそらく、難解な話題を笑顔で話し合う教養人を前に心をシャットダウンしてしまっていたのだろう。必要な仕事はこなすが、内面を見せず非社交的な僕、同じ職場内でも、僕の人となりを知る同僚はごく一握りであった。
勤務当初から現代法学部所属で10年以上過ごしたが、同僚は当たり前のように弁護士資格を持っている人たちが何人もいた。
新潟にいた頃、知り合いの優秀な人が弁護士資格を何年も目指しても合格の切符をつかめずに諦めて家業を継ぐような人を何人も知っていた。そんな難関試験に軽々受かる同僚たちに囲まれていたのだ。
僕は2年目から「21世紀教養プログラム」というリベラルアーツコースを担当者することとなった。現在所属する「全学共通教育センター」の一部教員によって運営されていた。キーワードは「貧困」「共生」「多様性」「他者」「差別」など。大変著名で優秀な先生方ばかりであったが、門外漢である私が何とかついていけたのは、以前から関心があったテーマとかぶっていた要素が大きいからだろう。例えば僕は国際結婚していたので「外国人」の存在や「差別」は身近なこととしてすっと理解できた。生徒、学生、教師として一貫して公立学校で過ごしたことにより、“相対的貧困”問題も身近に感じていた。
一方で、“本来の”任務であるべき言語教育については、“最悪だった”というのが正直なところ。気丈に振る舞ってはいたものの、うまくいかないことばかりでお手上げ状態だった。
「生徒たちを外国に連れて行ってください」。21世紀プログラムにて、そのような業務を担当するように言われたのはその頃だった。そこからはさすが東経大。「ひろく深く」をキーワードとした自由な校風。教員に大きな自由裁量が与えられているのだ。
僕が選んだのはネパール(ネパールには独自のネットワークがあった)。「なぜネパール?」と心配してくれる人たちもいたが、21世紀教養プログラムの同僚たちは面白そうと賛成してくれた。そしてこのネパール研修が、思いがけぬ形で私の教育観に巨大な影響を与えることとなる。
それまでには外国への研修を数多く引率していたが、それは英語学習が目的であった。しかし、この研修では「言語学習」という枷から初めて開放され、学生たちを自由な観点で観察することができた。とても新鮮な気分であった。
まず見えたのは「同じ景色も学生によって見え方が異なるということである。」例えば貧困をテーマにネパールの山岳農村地帯に滞在しても、個々の学生の関心事は、水、自然、食料、色合い、民族など様々であった。我々の世界観や認識が話す言語に強く影響されるという「サピア・ウォーフの仮説」には興味を持っていたが、同じ大学の同じコース生(母語も同じ)でもここまで視点が異なると驚いた。そして何度かネパール研修を引率していく中で、ある時、「人間の興味関心は人それぞれだ。みんなちがう。ちがっていい。」とストンと腑に落ちた。
考えてみれば、例えば新潟の高校の教員をしていた時、生徒たちは当初英語に全く興味を示さなかったが、きっとそれぞれ英語以外の別のものに興味を持っていたのだろう。山岳部の顧問だった時、月に一度の山登りでも花や岩や、一人一人の興味関心はそれぞれに異なっていた。
ネパール研修では、“交流を通じた学び”を重視した。せっかく外の世界に飛び出したのだから、そこに暮らす人々から情報を得るのが確実、私の経験則から得た知恵であった。現地の人々の中には英語を話せる人も話せない人もいる。しかし、細かいことは気にせずに現地コミュニティに彼らを「突っ込んだ」。すると、外国語学習などには興味を示さない彼らであっても、多くの場合大変積極的に交流した。そして、非日常の生活空間での価値観の異なる人々との交流を通じて心動かされたことはほぼ違いなかった。そのことに僕も手ごたえを感じていた。
意図せぬことが起こった。帰国後に彼らの多くがなぜか英語学習に本気になり始めたのだ。事後報告書には「現地の人々と上手く交流ができなくて悔しかった」「言葉が通じればもっとわかり合うことができたのに」と並んだ。英語を学ぶことを目的にしない研修であるにも関わらず、その後英語学習に自発的に取り組む彼らを見て不思議に思い、これまでに読んで来た動機づけ関連文献を何となく読み返していた。そしてある時「はっと」した。人生最大の発見をしたのである。と言っても動機づけの基本理論の解釈違いに気付いただけなのだが。
「自己決定理論」というものがある。この理論によれば、動機付けには下記の3つの要素が大切である。
1. 効力感(できる!という自信)
2. 自立感(自分でコントロールできている感覚)
3. 関係性
既に述べた通り、そもそも私が動機づけの研究を始めた目的は高校教師として自分の授業力を改善させるためであった。このコンテキストで読む文献においては、「関係」とは教室の中での人間関係であった。しかし、そうではなく、学習者と外国語話者との間の「関係」と捉えるとネパール研修を通じた学生の変容を上手く説明することができた。
言語を使って、その言語を使っている人のことをもっと知りたいと思えば、学びのモチベーションが高まる。外国語を使って外国語話者との交流を通して、異文化の人と交流をしたいと思えば外国語学習のモチベーションも激増することがわかったのだ。
これが分かってから僕の教育方針はパラダイムシフトと言って良いくらい大きく変わった。一気に変わった。まるでコロナでオンライン化したくらいの大きな変化だ。
それまで経験則に基づいた「趣味」としか捉えていなかった「異文化交流」が僕の脳内で「言語教育」と見事に融合し、独特の新たな学問領域、というか教育実践領域を見出したのだ。教育実践者として、また研究者の端くれとしてはこれほど「ハッピー」な出来事はない。以来、僕は一転、いきいきと活動するようになる。
スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式スピーチで以下のように語っている。
もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。
しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。
このジョブズの言葉が僕の今までの軌跡をまさに言い表していた。きっと僕に限らず多くに人の人生の「ふっと地平が開けるような瞬間」は同様の感覚になるのだろう。歩んでいる時は分からないのだ。ある時に全部今までのことが繋がったとわかる瞬間が来るのだ。
僕について言えば、育った環境からして内向的であるが故に「このままじゃいけない」と外に向かって新しいことに挑戦を続けてきた。まるで夜空に散らばった星座を繋いで美しい星座をつくるかのように、いままで格闘してきた人生の行動が全て線で結ばれた感覚は爽快だった。既に40歳を過ぎてのことだった。
「今までの人生が一筆書きで繋がった」後に何が変わったか。良い意味で、もう人生これでいいやと思った。この気持ちを20歳の目の前にいる学生たちはわかるはずがない。自分にできることは、学生たちが後に「点と点をつなぎあわせる」作業をするときに「点」の一つに数えてもらえるような影響を与えてあげることかな、と考えるようになった。その学生の数は多ければ多いほどいいが、別に1人でも2人でもいい。サッカーと一緒。わずか1点でも勝てる。結果として何点取れるのかわかるのはずっと先のことだろう。教育投資は地道な作業だが、とてもやりがいがある。
関昭典の研究室#16(東京へ転職)
県立新潟女子短期大学での仕事は、よき学生たちに囲まれて楽しかった。日本海から徒歩5分、最高の立地に広い中古物件も購入し、僕の人生はもう一生新潟で暮らすだろうなと目処が立った。
まるで自宅前の凪の時間の日本海のように、僕の人生は安定し始めていた。毎年の授業内容も確立してきたし、研究活動にも手ごたえを感じていた。大学内での居場所も確保しつつあった。周囲の人々から見たらその安住地を抜け出して何処かに移動する理由は何も見つけられなかっただろう。
しかしその頃、まるで台風が襲来する前兆のように僕の心はざわつき始めていた。「何かマンネリ化してきたな」と感じていたのだ。
成果が見えてくると作業化してくる。生徒が変わるだけで毎年同じようなことをすれば、例年通りの成果が出ることが見えてきてしまうからだ。最初は大きな感動を伴っていた成果も、繰り返している内に作業化し始めていた。「何か新たな視点が必要だ」と若干の行き詰まり感をぬぐい得なかった。
さらに在職年数が進むに連れて、任せられる作業が等比級数的に増加していたことも理由の一端にあるのかもしれない。
それまでの僕の人生は「新しい世界をみてみたい」というモチベーションに突き動かされてきた。自分自身の進路選択によって、まるでたまごの殻を破るように少しずつ”自分の周りの世界”を拡大してきた。その拡大劇が、安定を得たことで「ここで終わりなのか」と漠然とした寂しさを感じていた。
春に咲くたんぽぽの綿毛が横切るように、「東京経済大学の教員募集」がふわっと僕の視界に入ったのはそんな時だった。インターネットだったか人づてだか今となってはもう思い出せない。大変失礼な物言いになるが「魔が差した」としか言いようがない。
ふと「応募してみよう」と何となく思い立ったのだ。普段だったら目の前を通り過ぎるものを見送っていただろう。それまで僕は大学教員の職についてから一度も他の大学に応募したことがなかったし考えたこともなかった。
もちろん東京の大学の教員になるのはとてつもなく難しい。とてつもない実力と運が要求される。しかし募集要項をみて僕の脳味噌に電流が流れた。募集項目に踊る応募条件と記載されていたリンクの先にあった情報は、「呼ばれている」そう勘違いしたくなるほど僕の今までやってきた活動とぴったりと合致していたのだ。
高校・浪人時代、「東京に出たい」という恋い焦がれる思いで勉強した情熱が蘇ってきた。東京の大学に合格しつつも母の涙で状況を断念した後も、東京への憧れは僕の胸中で燠火のように燻っていたようだ。その思いに一気に火がついた(詳細は、「関昭典教授 私の履歴書#5 浪人生」https://akinoriseki.blogspot.com/2020/04/blog-post_28.htmlを参照)。
しかし僕には家族がいた。もう1人で好き勝手に”冒険”をするべきではない。
長男は小学4年生、次男は小学校に入学する頃だった。長男が小学校は試験で国立大学付属の小学校に努力して入学して充実していることをよく知っていた。「子供たちにも中学校まで一貫の新潟の学校を辞めさせて、東京にいくぞとは言い出せない!」もう1人の僕はそう叫び続けていたが、なぜか振り切って東京経済大学の募集にエントリーしてしまった。一回だけだと言い聞かせた。
今だから告白するが(といいつつ以前の履歴書でも少し触れたが)新潟生まれ新潟育ちの田舎者の僕は東京のことをほとんど知らなかった。文字通りほとんど。
MARCHという大学群の名称も知らなかったし、山手線以外の電車のラインは知らなかった。そんなことも知らないままの、「東京に出たい」という情熱に突っ走った応募だった。
そんな軽いノリで始めたが、いざ書く段になると真剣だった(結構な量の書類を作成した覚えがある)。提出するものを適当に書き散らすことは失礼にあたる。応募して一息ついた頃に一次選考通過の連絡を受け取った。
一次選考後に待ち受けるのは、東京経済大学に直接行っての面接だ。東京まで呼ばれるということはチャンスがあるのではないか、と俄然やる気になった。
「やるからには真剣。中途半端は今までの自分にも相手にも失礼」が僕のモットーだ。本気で取り組んだ。
英語での発表は丸暗記。アプリに音声を入れたものを、約2週間ウォーキングをしながらひたすら聞いて完璧に覚えた。今から14年も前の話だ、英語の読み上げアプリは当時まだ珍しかった。これで僕自身が英語の暗記をやり切った経験があるから、英語プレゼンテーションコンテストなど、学生が英語の暗記に「無理だー」と泣き言を上げる時も、本当にやる気ならできないわけがない冷静に見ている。
面接なら質問が出るだろうと予測して、想定されうるQ&Aを作成してそれも丸暗記した。今振り返ると当時の情熱には脱帽する。
面接当日、かなり早めに大学の最寄駅についた。喫茶店に入り、目を閉じてひたすら時間まで音楽を聞き続けて集中力を極限まで高めた。まるで試合直前のオリンピック選手さながらだ。あの時何度もリピートした「栄光の架け橋」は今でも口ずさめる。
ついに面接本番。緊張のあまり内容が一箇所飛んでしまってその一箇所だけ原稿をみた。だが「人事を尽くして天命を待つ」という慣用句があれほど当てはまる瞬間はない、そう言えるほどベストを尽くした。やり切って新潟に帰った。
ちなみに家族には面接が終わったこの時もまだ言い出せず、「大事な学会の発表」と偽っていた気がする。つまり、この時点でもまだ家族は東京に行く可能性などつゆ知らなかったのだ。
事態が進展したのは10月ごろ。東京経済大学から「採用に向けて」と連絡がきたのだ。 家族はさっぱりと単身赴任だね、と告げた。この時点では僕と一緒に東京に来るつもりは1mmもなかった。
そして年の瀬に内定通知。当時勤務していた新潟の大学には次年度の教員を探す関係で、すぐに伝えなければならない。大学からもびっくりされてしまった。
東京の国分寺駅前にアパートを借りて、新潟と東京の往復生活が始まった。
しかし、東京に来て実際に仕事を始めてみて、国際結婚家庭なりの新潟での家庭生活と東京での仕事の両立は厳しいことがわかってきた。入ってみなければ分からない想定外業務がいくつも出ていたのだ。調査不足の行き当たりばったり決断が祟った。
実は一年で辞職するかどうか本気で悩んだ。おそらく家族以外誰も知らないことであるが、東京の大学に内定するかどうかの頃、家族の様子を見て一気に不安が高まったタイミングで、自宅近くの大学で教員公募を見つけた。迷った末にこの大学にも応募書類を提出していたのである。そしたら、東京赴任後に一次選考合格、最終選考通知が届いた。両親に話したら、特に母親は興奮し、面接に行くべきだと何度も連絡してきた。私自身も、面接に行って合格した方が家族のためだと思った。この時ほど迷ったのは人生初であった。単身赴任先のアパートで、迷いすぎて夜中に一人くじを作った。引いたくじは、母親の助言と同じであった。しかし、考え抜いた結果、先方に面接辞退のメールをお送りした。母親は大変落胆した。
そんなこんなで東京に単身赴任を続けることにした。70歳とかまで新潟と東京の家を往復する単身赴任生活が続くのかとクラクラしていた。このままだとダメだ・・・。詳しいことは伏せるが、息子の学校のことも重なって僕は「東京に家族を呼び寄せる作戦」を決行。
もちろん家族からするといい迷惑だ。何しろ相談すらされることなく、まるで夕飯のメニューを告げるかのように突然「東京の大学に受かったから来年から東京で勤務する」と振り回されている側である。
拍車をかけるように、家族は新潟ラブだった。奥さんも子供たちも新潟が超大好きで、わざわざ離れるなんて大反対の合唱だった。
大反対の声をかき消すべく、僕は東京の素晴らしさと、新潟の世間の狭さをひたすら伝え続けた。しかし、妻は僕のプロパガンダにも洗脳されることなく冷静(冷酷?)だった。国際結婚のネットワークを通じて「東京の学校に行ったらいじめられる」「東京の家は狭い」と東京ネガティブ情報カード次から次へと切ってきたのだ。
それでも根気よく説得するうちに「インターナショナルスクールならいいわよ」「家は150平米以上なら」・・・。そのような強硬な条件をいくつも提案しつつ、妻が条件付きで歩み寄ってくれた。
だがこの条件はかなり厳しい。インタナショナルスクールの授業料は目玉が飛び出すほど高額だし、150平米以上という広い家は東京で家賃を払うには難しいのだ。それでもせっかく妥協して新潟から出る決断をしてくれたのだ。まるでかぐや姫に命じられて蓬莱の玉の枝や火鼠の皮衣を探す男たちの気持ちになって必死になって探した。
この条件をクリアしさえすれば家族と東京に住めるんだ。僕は真剣だった。
横浜国立大学附属横浜小学校なら国立附属間転校ができるという話を持ちかけられて横浜(根岸)に住むことを決定しかけた。物件を探して家族で見に行った(家族は旅行気分)。しかし、いざ横浜で契約直前まで行った物件を行くと、人が長らく住んでいなくて、猫が大量発生していた。その猫屋敷の帰り道、電車で東経大に行こうと向かったらいつまで経っても大学のある国分寺につかない。遠すぎたのだ。電車の中で妻の口から「さすがにこの距離の通勤は厳しいのでは?」と言う言葉が出てきた。頷くしかなかった。結果、せっかく学校間でお膳立てしていただいた転校話を辞退して大変なご迷惑をおかけした。
その後も調査を続ける中で、無理に無理を重ねれば支払い不可能ではないインターナショナルスクールを見つけ、その近くに物件も見つけることができた。家族を必死に説得し、ようやく東京に連れ出し作戦は終了した、かに思えた。しかし、息子が新しい学校に通って数か月後のある日、勤務中に彼から電話がかかってきて思いつめた声で告げられた。「さすがにこの学校はやばいよ。」事情を聞き調査すると彼の言う通りであった。奈落の底に突き落とされた気分だった。
さらに調査を進めた結果、海外の帰国生を中心に受け入れる学校を発見し、二人の息子ともども編入させていただけることになった。今も暮らす自宅から車で10分の場所に位置する学校だ。これでようやく家族東京大移動が一区切りついた。
以上のように、子どもの頃から夢見た憧れの東京での暮らしのスタートはは、決して輝かしいものではなかった。身から出た錆。家族に相談もなく気分に任せて東京の大学に応募した付は、二度と繰り返したくないほどおぞましい経験として跳ね返ってきてしまったのである。
2020年8月9日日曜日
関昭典教授 私の履歴書#15「アナザーヒストリー」<異文化コミュニケーション>
これまで、僕の大学生活並びにその後の新潟での職業人生を数回に亘って振り返ってきたが、これは私の履歴書の一面に過ぎない。今回は、現在の私を形成することとなった重要な人生経験を取り上げる。キーワードは「国際交流」「異文化コミュニケーション」
新潟大学の学生時代、インドやネパール、モロッコ、ヨーロッパを旅した私は、さらなる「新たな刺激」を欲していたが、しかし一方で「モロッコ・カーペット事件」で追った110万円の借金を背負って手も足も出なかった。海外旅行はもう無理。バイトで貯金を貯め、一方で勉学の成果も残すという学生にとっては大変酷な状況に身を置くことになった。当時の僕は、冗談抜きで「人生崖っぷちだ!」と頭を抱え込んでいた。一方で、外国や「外の世界」への憧れの気持ちがやむことはなく、「何とかしなければ」という気持ちが次第に強くなってきた。
一旦大学一年次に時を戻す。私が大学に入学後間もなくして、マレーシアからの留学生と友達になった。英語の授業でたまたま席が隣になったのだ。どちらから話しかけたのかは覚えていないが、私は彼と仲良くなった。学校内に外国人がいるのは田舎育ちの私にとっては大事件。彼の一言一言が新鮮であった。大学の学業にはまったく興味が湧かなかったが、彼から得られる情報は何にも代えがたかった。だから僕は彼にくっ付いて回った。彼の存在は、焦燥感一杯の私の学生生活(前半)の唯一の救いだったかもしれない。が一方で彼にとっては迷惑な存在だったかもしれない。というのも彼は当時マレーシア首相、マハティールのLook East(東を見よ)政策の一環で国費留学してきた超エリートだったからだ。私のような一般学生とは格が違うのだ(ということも気が付かなかった)。
彼との親交を通じて、「物事の多面的解釈」の手法を学んだ。親しくなって来るにつれて話す内容も深くなっていくと同時に、これまでには経験することの出来なかった「価値観の相違」のようなものを感じるようになったのである。彼と一緒に肩を並べて歩きながら「同じ景色をみているのに、なぜ『見え方』が違うのだろう」と思ったことが何度もあった。(ちなみに彼とは今も親交がある。彼は日本人のように日本語を使いこなす。)
モロッコから帰国した頃になると、工学部の彼は実験などで忙して交流の機会は減った。しかし、私は彼をきっかけとして、新潟大学内の留学生と交流を始めるようになった。ちょうどその頃、大学のすぐ近く「国際交流会館」が完成し、留学生の多くがそこに暮らすことになった。私の足は自然とそこに向いた。そこで多くの留学生と知り合ったのであるが、何よりも驚いたのは、彼らは皆祖国を代表するエリートばかりであったということだ。普通に会話をしているとただの「いい人」だが、友情を深めて生活背景に話が及ぶと、一人一人壮絶な経験を得て日本への留学切符を掴んだ”逸材“ばかりだった。彼らの口から出てくる彼らの祖国の話は僕の知らないことばかりで学びの宝庫であった。
文化、宗教、貧困、差別。彼らとの交流のおかげで、これらの観点に全体的に興味を持つようになった。「アパルトヘイト」「南京大虐殺」「在日韓国・朝鮮人差別」「日系ブラジル人」「食の多様性」などなど、彼らがいなければ見向きもしなかったであろう話題に目を向けることができた。
その延長線上に、今の私の妻(ドイツ人)がいる。私は留学生との交流の一環で参加したイベントで現妻と出会い、現在に至る(プライバシーに関わるので詳細は省くが、テレビ東京系列「私が日本に住む理由」に詳しく取り上げられている)。彼女との暮らしは、それだけで数冊の本になるくらい、『ひろく、深い』「異文化」コミュニケーションであった。結婚式の際、仲人をしてくださった米山師匠がスピーチで、「現代の国際結婚は、昔の広島と新潟の人の結婚と同じようなものだ」と述べ、結婚に反対する僕の両親の気持ちを和らげてくれたが、その後実際に私が経験した文化差は、私の想像を絶していた。時には「これが同じ地球上の人間か」と思うような果てしない文化差を感じることさえあった(相手も同じように思っていたことであろう)。
暮らしを共にする中で次第に顕在化する大きな文化差。この差を埋めるためには当時の私の知識が経験は不十分であった。二人の息子に恵まれてさらに状況は複雑化した(笑)。二人の関係は二人だけの問題であるが、子育ては息子たち本人や彼らを取り巻く社会を含めて考えねばならず非常に難解なタスクであった。この難しい課題に取り組むためには新たな分野に立ち入ることとなった。それが「異文化コミュニケーション」や「多文化共生」である。この分野に関して素人だった僕は、多忙な中でも少しの隙間時間を使って関連文献に目を通したり、人々の体験談に耳を傾けたりした。
調査を進めるに連れて、当時の日本において(今もそうかもしれないが)国際結婚が如何に「リスキー」な選択であったかを思い知らされることとなる。国際結婚の先輩たちが語る現実は、”夢物語”とはかけ離れ”苦労と修行”ばかりが目に付いた。案の定、私たちもその例外から外れず多種多様な苦労を強いられた。”外国人が日本で生きていく苦労”、”外国籍配偶者を持つ日本人の苦労”、そして”深層文化の異なるもの同士が醸し出す(目に見えない)独特の雰囲気を日本社会と調和させる苦労”。これが日本社会にいるからこその苦労なのか、世界中どこでも同じなのか分からないが、どこに「地雷」が埋まっているかわからないような道を歩き続けているようなものだった(具体例はブログでは完全非公開)。一歩間違えば”The end”.
二人の子育て中、周囲の皆様には大変なご心配をおかけした。というのも、当時の私は「墜落寸前の飛行機」の墜落を阻止すべく必死に操縦桿を握っている状態だった。墜落を阻止するためにはいかなる”奇策”にも打って出た。しかし、その奇策をいちいち周囲に説明する余裕などない(というよりも説明するのが面倒臭くなってしまっていた)。ジェットコースターのようにアップダウンの激しい展開に心配した多くの方々に助言には、耳は傾けたもののこちらの事情を説明することは一切なかった言ってよい。結果として今、子どもたちも成長し家族全員がそれぞれの道をしっかりと歩んでいる。当時ご心配をおかけした皆様も「ホっと」胸をなでおろしていることだろう。
学生時代の経験や家庭事情を通じて“ソトの世界”への興味が益々深めた私は、生徒・学生の海外研修等の引率や国際理解イベントなどにも積極的に関与した。高校教諭二年目の夏季休暇中は、全国から選抜された高校生を引率してバンクーバーに一ヵ月滞在した。その後もイギリス、オーストラリアなどでの海外研修を進んで引率し、学生たちの行動観察に明け暮れた。僕が引率してやることは一つだけ。とにかくずっと生徒学生にくっ付いて回り、彼らの「気持ち」に入り込むこと。生徒、学生からすればいい迷惑なのかもしれないが、他文化に接触したときの人の心の変容過程を追うことは、もはや僕の趣味と化していた。
2020年8月7日金曜日
関昭典教授 私の履歴書#14(高校教諭時代補足 授業外での生徒との交流が授業を充実させる)
前回と前々回で、高校教員時代と短大教員時代のことを振り返ってきた。ただし、特に高校教諭時代について文章校正上書き切れなかった部分があるので、補足記事を追加する。
あの時代の活動実践を一言で記すならば「動機づけストラテジーを用いた指導実践」となるが、実践の鍵となったのは、実は英語指導とはほぼ関係のない授業外での生徒、学生との様々な課外活動であった。
私は新潟大学の学部及び大学院、英語教育について多角的に学ばせていただいた。その前提条件として、「英語学習は重要である」という認識があった。当時は中曽根康弘首相の下で「教育の国際化」が推し進められとりわけ英語教育はその柱であった。ALT(英語ネィティブの指導助手)制度が導入されたのもこの頃である。
しかし、高校教師となり私の前提条件は見事に覆された。目の前の生徒たちの多くは明らかに英語学習を欲してはいなかった。この現実を最初は受け入れることが出来なかったのだと思う。「英語はこれほど大事なのになぜ、彼らが真面目にやらないのか。」と嘆いていた。この時に僕に圧倒的に欠如したのは、「他者の視点」であった。自分が得たちっぽけな知識が、あたかも普遍的事実のように捉え、それに外れる人々を問題視していたことが今ではよくわかる。実は彼らの多くは「英語学習を欲していなかった」のだ。真面目に取り組むはずがない。
期待価値理論というものがある。その学習に期待を持てるか、その学習に価値を見出しているかが、学習行動を左右するというものである。彼らの多くは英語学習に対してさほど期待もしていなかったし、価値などほぼ見出していなかったのだと思う。それ以上に彼らは“学習性無力感”(失敗経験を重ねる度に自分が無力である言う気持ちを学習し強化されてしまった状態)に満たされていたと考えている。実際彼らの中学時代の成績は低迷しており、高校1年生の英語教科書の難易度は中学校2年生の教科書のレベルだった。
授業崩壊状態から脱したいと学び始めた“学習動機づけ”だった。そして人の心に関する分野である以上、関わる人の心に「思いを馳せる」ことが求められた。しかし、私は当時その分野の知識が圧倒的に不足していたので、“素人”なりに地道に生徒に接し、何とか彼らの気持ちを理解しようと努力するしか他になかった。
一年くらいかけて生徒の話を聞き取った結果、私は英語を学ぼうとしない彼らの状態を、“無目標という懲役を与えられた囚人”に例えるようになった。その囚人は、荒野の中地平線まで続くまっすぐな一本道に立たされ、独りぼっち。来る日も来る日もひたすら歩かされる。与えられるのは簡素な食事と睡眠だけ。来る日も来る日も歩き続けるが、ゴールまいつまでたっても見えてこない。古代ギリシア神話の中の挿話であるエフェソスの神話では、罪の償いに大岩を山頂まで一生運び続ける苦行を課される巨人が登場するが、それと同じ気持ちかもしれない。恐らく、“発狂状態”に陥るのではないか。
彼らの多くは、中学1年後半段階で既に英語の授業内容が訳がわからなくなっていた。とすると、それ以降の2年間は、さっぱりわからないのに50分間、週4時間も“授業”という名の“懲役刑”に付され、訳も分からぬまま“歩かされていた”のだ。
ゴールも見えないし、成長も実感できないし、意味も感じられない作業。結果点数によって「できない人」と宣告される。その繰り返しはボディーブローのように少しずつ精神に苦痛を与えていく。
こんな彼らの心を開くために私はありとあらゆる手段をとった。その多くが授業外でのアプローチである。
1.接触の機会を増やす
ひたすら彼らの見えるところに居続けて、話しをした。昼休み、放課後など少しでも時間があれば生徒たちがたまる場所にいて話した。「立ち話の関」と呼ばれたことさえある。
今だからこそ打ち明けるが、当時この戦略を実行するのに邪魔となったのはバスケットボール部の副顧問であった。毎日練習、週末はすべてリーグ戦。全校生徒のわずか一部に過ぎない部員生徒たちとの交流に限られた時間のほとんどを吸い取られてしまう。バスケットボールは好きであったが、その時の自身の目標に向けては、申し訳ないが“時間の無駄”にしか思えなかった。そこで移籍希望を出して2年目からは山岳部顧問となった。楽ではなかったが、月に一回数日間山を回るだけで、日々の活動は軽減されたために、接触したい生徒たちと接触する時間を確保することができた。
2.山岳部顧問の副産物
山岳部の顧問には予想外のメリットも付属した。改めて言うまでもないことだが、山に登ることはかなりきつい。生徒にとっても僕にとってもだ。頂上まで無事に登ってテントを張る頃には、山岳部と僕の間に妙な一体感が成立していた。山登りの苦楽を分かち合いながら膨大な時間のコミュニケーションを通して、まるで山の濃霧が一気に晴れるように、僕は今まで掴みかねていた生徒の内面を理解するようになった。
一言で言えば彼らは「いい奴ら」だった。ただ、勉強は嫌いなのはビシビシ伝わってきた。大自然の中で彼らとコミュニケーションを重ねるうちに、勉強が苦手な人の気持ちがわかるようになってきた。もう一つ分かったことは、学校教育の教科は、人間の能力のごく一部しか見ていないということだった。山で共同生活をするためには日常とは異なる様々なスキルを要するが、多くの場面において生徒たちは私より長けていた。例えば、火の起こし方、時間のないときに食事を素早く作る手法などなど。山での活動を通じて、生徒と互いに学び合う視点を見出してからというもの、学校内での生徒たちとのコミュニケーションもみるみる円滑になっていくのが手にとるように実感した。
3.褒める
彼らがあまり褒められた経験が少ないことに着目した(褒めることは動機づけの基本)。保護者やこれまでの学校生活でも褒められた経験の少なかったのだ。教員なりたての頃の僕は、彼らのやる気のなさを嘆くことは多くても、褒めることを意識していなかった。そこで、戦略的に褒めることにした。僕は表情が怖いと言われていたので、教室に行く前に毎回鏡で笑顔のチェックをした。褒めるためのニコッと笑った顔を確認してから気負いを入れて教室を出る僕は、さながら出陣前に鎧の紐を締め直す武士のようだった。
ただし、生徒が何もしていないのにやみくもに褒めたわけではない。生徒の努力を褒めることにした。一人一人を呼んでその生徒ができる課題を個別に出して、達成したら惜しみなく褒めた。褒めちぎった。
毎回全力で褒めていたものの、多くの場合生徒はさほど強い反応を示さなかった。しかし、あるとき褒められた生徒が号泣した。10点満点の英単語で満点を取ったのだ。いきなり泣き出した彼女に困惑したが、「こんなに褒められたのは初めてのことだったからつい」と聞いて、強力な手応えを感じた。
努力をさせて成果を褒める作業は大変地道なもので、褒めることができるのは多くても1日に3人程度。しかし「学習性無力感は短期間で抜け出せるものではない」と心理学の本で読んだので、根気よく褒め続けた。
半年経つ頃から彼らは学習行動に変化が見られた。僕が「すごいよ!すごいよ!」攻撃に彼らが“洗脳”されだしたのである。
それと並行して“英語の大切さ”を、彼らの日常生活や将来に照らして、まるでお経を唱えるように繰り返した。半年も経つ頃にはまるで霊が成仏するかのように、生徒たちも根をあげて「英語が大切だ」と納得し始めた。
英語で話しているかっこいい姿を見せるために外国人の先生を担当でもないのに呼んできて、僕が英語で会話を行った。また、僕は国際結婚していたので国際結婚の幸せについて語った。さらには英語習得と「頭のよさ」は関係ないことを証明する逸話を話しまくった。英語自体を教えるよりも、このモチベーションを上げるためのトークの時間の方が長かったくらいかもしれない。
4.「あなたたちのためならなんでもやります」オーラ
とにかく、生徒のためになることであれば何でも全力投球した。例えば体育祭。担任をするクラスの生徒たちは、英語の勉強をしっかりやらなくても体育祭で優勝することには熱意を燃やしていた。その目標に僕は加担し、優勝するための戦略を生徒たちと細かなところまで入念に話し合い、実行した。その結果、作戦が見事功を奏し2位以下の遥かに引き離しての歴史的大圧勝。このような英語教育とは無関係な場所での共同作業が英語学習に良い形で跳ね返ってきた。
5.動機づけの維持
上記の過程を経て、英語学習に取り組み意欲を喚起することには成功したが、次の問題は「やる気を維持させること」であった。
勉強を始めたものの、わからなければ、結局前の繰り返しで学習性無力が強化されてしまう。褒める戦略は「動機付けの喚起」に功を奏しても「動機付けの維持」にはそれだけでは不十分。やはり実力をつけてあげなければいけない。
そこで、褒めながらもかなりの量の授業外課題を課した。手取り足取りの具体的指示が記された課題で、英語が苦手な生徒でも自宅にて一人で取り組めるものを意識した。作るのに相当な時間を費やしたが、“洗脳された”彼らは真剣に食らいついてやってきてくれた。それについて褒めまくった。また、教室内に意見箱を設け、そこに出された意見は生徒が驚くほど派手な形で実現した。僕の“なんでもやりますオーラ”の成果の本領発揮だった。宿題をやってくると必然的にテストの点数も上がる。そして褒められる。出した意見が採用される。生徒たちの学習時間が半端なく増大して良いループが始まった。
6.目に見える成果
調子にのった僕は「これからの時代、英語の資格は大事だ」「全員受けろ」と叫び続けるようになった(今思い返すとぞっとするが)。
もちろん受験料もかかるし生徒の中には乗り気でない人たちもいる。そこで用いた動機づけストラテジーは「親を味方につけろ」。学級通信をいきなり起ち上げ、親に直接訴えかけた。学級通信を親に確実に呼んでもらうために、「親に学級通信を渡して印鑑をもらってきて」と強制した(今思い返すとぞっとするが)。そして英語の話題と資格試験の大切さを訴え続けた。
英検を生徒たちが受ける流れを作ることに成功すると、次になすべきことは成功体験。つまり合格させること。これは僕にとって相当なプレッシャーだった。「絶対に受からせなければいけない」この強い気持ちから始業前時間の早朝補習が始まった。「僕は7時50分に待っているから来たい人は来てね、」誰も来ないのではないかと心配したが、生徒が集まらない日は一度もなかった。
結果、英検を受けたこともない生徒たちから英検4級~英検2級まで多くの合格者が出た。「高校生が英検4級や3級に受かったから何?」と思う人もいるかもしれないが、「成功体験」の乏しい人にとってはどんな小さなことであれ、認められる経験は大きな自信につながるのだ。
動機づけ成功例の一部を記したが、実際には数多くの挑戦をしてその多くが失敗に終わったというのが事実である。当時の僕は心理学関連の専門書を読み、「これは使えそう!」と思った理論をとにかく次から次へと試した。サッカーのシュートと同じで、挑戦してもうまくいくのは一部。いくつかはうまくいって、いくつかは全くの的外れで終わった。苦労の末の得点の積み重ねが彼らの学習行動の変容をさせていった。
2020年8月4日火曜日
関昭典教授 私の履歴書#13(新潟の短期大学教員)
新潟県立の高校から、目と鼻の先にある新潟県立の大学に採用が決まったのは5月下旬のことだった。
4月採用が多い日本社会において、僕が短大教員に採用されたのは夏休みの最中だった。本当は7月1日採用の人事。しかし、7月は高校の定期試験の最中。流石に、高校側に失礼だとの判断で、8月1日付の流れになったのだ。
余談になるが、私は春にJICA主催の「夏季、高校教師ザンビア派遣プログラム」に合格しており楽しみにしていたが、高校教師を退職したことで参加資格を失ってしまったのは残念だった。
その短大での僕の当初の担当はLL教室管理だった。ちなみにLL教室とはランゲージ・ラボラトリーの略語で、オーディオ、ビデオ、コンピュータなどの機器を使って外国語を学ぶ教室のことだ。のちにコンピュータが導入されてCALL(コンピューター・アシステッド・ランゲージ・ラボラトリー)へと名称が変更された。
ヘッドセットをつけて英語のネイティブの発音を聞いたり、自分が発音したものを録音したりできる当時の英語学習では最新鋭の設備だった。僕の前任者はLL教室を管理する事務職だった。しかしその業務は専門知識を有するものであると判断され新しくできた教員ポストであった。
8月という中途半端な時期に採用されたことで、その年に受け持つ授業は一コマもなかった。せっかく半年も時間ができたのだ。無為に時間を浪費するのではなく、次年度からの学習指導の一助となるような準備をしよう。そんな決意から僕は、在籍する英文学科の生徒たちに意識調査を実施した(アンケート調査とインタビュー調査)。何よりも現場の生の声を知りたかった。調査を始める前のワクワク感は今でも覚えている。この短期大学はとても優秀な生徒が集まることで有名な学校だったからだ。
しかし、インタビューが終わる頃には「予想外」に直面していた。まだ学生たちの「お兄さん」と言っても通用するほど若かった僕は、学生の本音を引き出せるように笑顔と最強の人当りのよさでインタビューとアンケート調査を敢行。
「何か英語学習で困っていることはない?」「なんでも言ってね」
その結果、集まってきたのは文句、文句、文句。生徒たちは口を揃えて文句の言いまくりだった。なぜ自分たちが英語を話せないのかという言い訳に、先生や授業を槍玉にあげて異口同音に批判した。
「面白くない」「実践的でない」「一クラスの人数が多すぎる」というのが典型的な意見だった。「私たちは英語が話せるようになりたくて英文科に入ったのに」と恨みがましい声すらあった。(ちなみに、先生方は大変素晴らしい方々ばかりでした。誤解なきよう。)
僕はそこで耳にした学生たちの生の声を「学習者の視点」というタイトルで研究紀要論文にまとめた。
そして、あっという間に半年が過ぎ、新年度を迎えた。僕がの赴任と共に新たに開設された「資格英語」と言う科目。授業内容は完全に僕に任されていた。
その頃まで長らくの間、英検が英語教育界を支配してきたが、その頃からTOEICが激しい宣伝攻勢により勢いを増してきた。その流れを察知し、授業では表向きTOEICのスコアアップを目指した。と言っても学生はTOEICのことを誰も知らない時代だった。そこで、同僚の先生に支えられながら東京のTOEIC本部と連絡を取り、様々交渉の上、その大学を新潟県初の受験会場とし、私は新潟県のTOEIC試験運営責任者となった。TOEICを目指させる以上、学生が受験できる機会を確保するのに必死だったと記憶している。
ともすれば「資格英語」という科目名から、資格試験に特化した問題演習と考える人が多いかもしれないし、実際学生もそのつもりだったであろう。しかし私の考えとしては、TOEICでも英検でもどんな資格試験でも根本的な英語の基礎体力が不足していたら小手先のテクニックなどでは点数の向上は望めない。目指したのは基本的な英語力の向上を図るための授業だった。
そのために私が選んだ手段を一言で分かりやすく表現すれば、“学生に気合いを入れること”。動機づけである。正直に言えば、僕は高校教師退職と共に、動機づけ研究とはおさらばするつもりでいた。久々に、大学院での研究テーマ復活か!と気合いを入れなおしていたのだが、前年度に行った学生の英語学習意識調査の結果、一点、動機づけへのフォーカスを継続することとなったのだ。
学生が自身の英語力向上を他力に任せている実態を変えなければいけない!この人たち、やる気にさせれば相当に伸びる。そう確信した僕は、とにかく学生に気合を入れることを金科玉条に授業を開始した。この時の熱血教師具合は、現在の勤務大学での「優しい」僕を知る学生からは想像がつかないと思う。2013年(東京経済大学赴任後)にゲスト講師として短期大学に久しぶりに呼ばれたことがある。その時に久しぶりに再会した熱血教師時代の教え子たちは、鬼から仏に変わった僕の変化に唖然としていた(笑)。
僕はまず英語を教えるより先に生活習慣記録表を配った。そして「1週間の時間の使い方をここに書いてきて。勉強した時間も。」例えば自動車学校通学やアルバイト、テレビを見る時間などを記入させた。
予定表を配る前、生徒たちは「忙しい」と言っていた。だが1週間後に時間の使い方を見てみると、そもそも勉強量が圧倒的に足りなかった。「忙しい」と言いながら、英語学習に充てることができる時間は実は有り余っていた。ただ、「余裕がある」ことを彼らは意識していなかっただけなのだ。
英語の勉強はとても単純だ。できるようになりたければ量をこなす必要がある。ただそれだけなのだ。それなのに「忙しい」と言って取り組めないのであれば、もうやめたほうがいいのではないか。学費を払っている親にも申し訳なくないか。講義ではそんなことを真面目顔で語った(今思い返すと相当にエグイ教師だ)。
「可能性がない人に僕は教えたくない。僕はやる気がある人だけを教える。」この言ったが心からそう思っていたわけではない。能力がある人たちに厳しくいうと、逆にやる気が高まるというのは正に彼女たちのことだった。結果、その指導法は目の前の学生たちに概してうまくハマった。
赴任した数年後ごろからTOEICのスコアの平均点に著しい変化が現れ始めた。例えば、あるクラスでは入学時点では300点ほどだったスコアが1年間で平均点が300点程度上がって600点に到達するのが珍しい光景ではなくなった。
もちろん、僕一人の成果ではない。学科の先生方の協力体制も抜群だし、教員と学生の距離が近かったことも功を奏した。
さらに、僕がTOEICの新潟責任者となっていたことも有利に働いた。指導する学生がアルバイトとして、本気で受験する社会人を目の当たりにする。おおいに刺激になったことだろう。
次第に学生の間でTOEIC受験をすることが当たり前になった。そして私は学生の許可を得てデータを管理していたので(学生による自己申告)、学生の学習状況とTOEICスコアの関連をかなり深く把握できるようになった。学生には毎日英語学習記録表を書かせ毎週提出させる。それを毎週チェックしコメントをして返すことをひたすら続けた。これはかなり過酷な作業であったが、この作業のおかげで指導力が格段に上がったと思っている。今でもSNS上で多くの教え子たちと繋がり連絡が取り合えているのは、この地道な作業の副次効果とも言える。
もう一つの大きな出来事は先にも書いた通り、CALL教室導入に奔走したことである。 赴任当初のLL教室は各学生の机に備え付けのテープで課題音声をダビングしていた。しかし機器が古くかったためテープが頻繁に絡まるのだ。絡まるとその分の人の録音がなくなってしまう。100人の授業では10人は設備の不備のため録音ができなかった。端的に言えば使い物にならなかった。
赴任して一年も経たない頃、LL教室の問題多発に辟易していたある日、その年から事務局長として赴任された方となぜか気が合い、酒を飲みに行くようになった。とてもよい方で現場の声に耳を傾けてくれた。私がCALL教室の愚痴をもらすと、ある日突然事務局長室に呼ばれた。そして、「この間聞いた話、県庁の担当者にしっかりと話せるのか」と強面の顔で聞かれ「もちろんです」と即答した。するとそのわずか二週間後、キャリア官僚として新潟県に出向している若手課長がLL教室に登場したのである。30分ほど実態観察をし教室を後にした、そしてさらにわずか2週間後には「LL教室改良プロジェクト」(約1億円)として、LL教室を全くの最新鋭の設備に改修する動きが始まったのである。それまで何年言い続けてもかなわなかったLL教室改善要望。キャリア官僚の影響力の姿を目の当たりにした。
LL教室の担当者として短期大学に着任してわずかな期間で、あれよあれよという間に話が進み、「CALL教室設立プロジェクト」のたった1人の担当者に任命された。
経験不足の私にとって、流石にあれは荷が重い任務であった。椅子の配置やら必要な機材やらソフトの見積書やら、いくつもの業者とのやり取りを1人で進めるのだ。事務局長からは、「こちらはできることをやったのだから、成果を期待します。」とプレッシャーをかけられた。
あまりの膨大なタスクを背負わされた僕は、ひとりぼっちで暴風の中に迷い込んでしまったかのように感じられた。ある日、つらい気持ちが限界を迎えて、恩師である米山先生に相談に行った。すると「1億円ももらえる研究者はあまりいないと思うよ」と諭された。まさに発想の転換だった。
東京の業者のもとに訪れて新しいLL教室で使う機材を選定したり、学会に行って最新の英語学習について理解を深めたりする毎日が続いた。僕1人だけではなく、学生も一緒に機材や教材の使用テストに協力してくれた。
その設備をフル活用しての、「学生の1年で300点アップ」だった。何しろ使う機材の選定から椅子の配置までほぼ全て僕が立案したのだ。まるで自分の庭のように使い勝手が良かった。
ちなみに、そのCALL教室は全国的にも最新の機能を備えていると評判になり、そこを舞台とした学生とのプロジェクトは、各業者にとって宣伝の好材料であった。私は英語教育関連業者の宣伝資料に頻繁に取り上げられるようになり、活動紹介のために全国を回らせていただいた。
ただし、誤解してほしくないのだが、CALL教室やそこに備えた設備イコール、学生の英語力が向上では決してないことである。英語力が上がったのは、その設備を上手く利用しながら学生が必死に努力したからなのだ。当時、あの設備を与えられたので上手く活用したが、仮に与えられなかったとしても、おそらく他の手段で動機づけ手法を用いて同様の成果を実現していたと思う。実践を発表させていただく機会を与えてくださったことに感謝する一方で、「〇〇教材を使ってTOEIC〇〇点アップ」という単純化には強い違和感を覚えた。事前チェックをする機会もないままそのような宣伝が流布されて目の色変えて抗議をしていた当時が今となっては懐かしい。
高校教員・短大での実践を通じて確信したこと。それは、当たり前のことであるが、英語の授業で、英語を教えるだけでは不十分だということである。しかし一方で、大学教員が授業外の学生の学習に関与することの難しさも実感していた。例えば、学習記録表の毎週のチェックは、学生には好評であったが、他の業務との両立の観点では非現実的に近かった。
全国各地の先生方とお話し合いをさせていただく中で、授業外で学習者の動機づけを維持する仕組みが学校教育の中に欠けていると考えるようになった。そこででてきた発想が、“英語学習アドバイザー”。授業外で英語学習をサポートする人材の育成である。そうこう言っている内に、気がつけば私は、某社の「英語学習アドバイザー制度」の起ち上げに関わるようになった。
高校教諭時代を含め、ここまでの一連のことは以下書籍などにて成果発表した。
「動機づけを高める英語指導ストラテジー35」(ゾルタン・ドルニェイ著:米山朝二・関昭典訳, 2005.)
2020年8月2日日曜日
関昭典教授 私の履歴書#12(大学専任教員内定)
関昭典教授 私の履歴書#11(高校教諭)
修士論文に苦悩する一方で、就職口も考えねばならなかった。選択肢は大学院博士後期課程進学か学校教員か2つに1つ(民間企業就職は数々の経験から無理だと判断した)。大学院博士後期課程進学を薦めてくださる先生もいたが、モロッコカーペット事件(私の履歴書#9「モロッコ大事件」に詳細)が重くのしかかった。親に110万円の借金があるのだ。さらに、後に触れるが、この時は「国際結婚問題」で親と新たなバトルを繰り広げていた(笑)。「勘当だ!」と父親から言われるほどのバトル。博士課程進学などとは口が裂けても言えるなかった。
ということで、学校教員の道を志した。ただし、いやいやの選択では決してない。大学院で取り組む研究を教育現場で早く試してみたいという気持ちがあった。夏に新潟県立高校の教員採用試験を受けて無事合格。新潟市内の高校教諭として晴れて社会人なった。
赴任前の新任者オリエンテーションで初めて高校の門をくぐり校長先生・教頭先生と面談した。しかし、意気揚々としていた私にお二人の口から発せられるのは微妙な言い回しばかり。「いろいろと苦労をかけることになるが」「ここでも経験を踏み台に」「こういう学校だからやり手のベテラン教員を希望したんだが・・・」
そして帰り際、校長先生に小さな声で言われた。「『ベテランの代わりに大学院出の新任を送る』と教育委員会の担当者に言われた。期待しているよ。若さで何とか乗り切ってほしい。」覚悟を固めるしかなかった。帰宅後実家の母に電話をしてその日の出来事を話した。母は涙を流した。「あんなに勉強を頑張っていたのにこの仕打ちは何・・・?」教育相談員だったから実情をなんとなく知っていたのだろう。
しかし僕の気持ちは全くめげていなかった。むしろ胸に一つのチャレンジを抱いていた。
4月の始業式後に新任教員紹介でステージに立った。生徒たちの群れを見て思わず口からでた一言「うわ、なつかしい」僕自身が六日町で過ごした中学時代の雰囲気に随分と似ていた。一筋縄ではいかなそうな生徒たち・・・(ばかりではないが)。新たな嵐の始まりであった。
当時、「研究者の卵」気分でいた僕は、生徒を実験材料としようと企んでいた。具体的には英語の授業内でのグループ英語活動を録音し、そこから学習者間の英会話の特徴を探ることを意図していた。それをまとめてさらに論文を発表していつか世界を舞台に!録音用にポケットテープレコーダー8台も自費購入して臨んだ。
しかし、録音された音声を聞いて愕然とした。英語練習のはずなのに、英語のえの字も聞こえてこないのだ! 彼らは、授業の50分間の全ての時間を、僕が教壇にいることなど眼中にもないかのようにひたすら日本語で雑談していた。弁当を食べている生徒、マンガを読んでいる生徒。挙句の果てには、授業途中で帰宅しようとする生徒に注意して胸ぐらを掴まれて凍り付いてしまった。米山先生の元でみっちり鍛えられた成果を発揮すべく万全の準備で臨んだ授業は、無残にもずたずたに切り刻まれた。
一方で、その年の9月に大学英語教育学会で大学院での研究成果を発表することが決まっており、仕事が終わった深夜と早朝にその作業。さらには査読付き学会誌にも掲載された。半学級崩壊状態の学校で疲弊した後で、研究モードに切り替えるのが如何に難しい作業であったことか。我ながら当時の僕自身のエネルギーには脱帽する。ただし、授業すら成立させることができていないのに教育学会で発表し、論文を書いていること自分自身に対する違和感が、日を追うごとに大きくなっていくのを抑えることができなかった。
その違和感は、あることをきっかけに沸点に達してしまった。ここからが僕の僕らしさともいえる。ある学会で発表した後、何と数人の大学の先生が名刺を持ってやってきて来た。雑談の後、「もう一、二本論文書いたらご連絡ください。」研究者への誘いだった。この誘いがどんなに贅沢なものであるか、今ではよくわかるが、当時の僕の脳は違う解釈をした。「授業成立させることができない人間が大学の研究者になどなる資格などない。まずは目の前の生徒をしっかり教えることができるようにならねば。」この学会を境に、僕は大学院時代からの研究テーマを捨て、目の前の生徒に集中することになった。「一度テーマから離れると戻ってこれなくなるよ」と言う周囲の警告はガン無視した。
「出直す」とは正にこのことを言うのだろう。自分の授業を成立させることだけを目標に、できることは何でもやった。本も論文も読んだし東京の学会にも何度も足を運んだ。しかし、中々答えは見つからない。そんな時にきっかけをくださったのはまたしても、恩師米山先生であった。
あるときに先生の研究室を訪問し、生徒のやる気のなさを愚痴った。するといきなりあの「鬼顔」が復活。「やる気のない生徒をやる気にさせるのがプロの役目ではないのか。お前は何のために金をもらっているんだ。お前みたいな情けないやつは辞めてしまった方が生徒のためだ!」といって“紙束”を僕の目の前に叩きつけた。その“紙束”こそ、僕のその後の人生を形作ることとなる、あるハンガリー人研究者の英語論文だった。
「動機づけストラテジー」聞きなれないタイトルだったが、読み始めて思わず引き込まれた。そこには、やる気のでない生徒をやる気にさせるテクニックが次から次へと紹介されていた。読んでいて身震いがするほどの感動を覚えた。読み終わった僕は思わず机を強く叩いて自分をけなした。
「こんなにたくさんの戦略があるのに、僕は何一つ試していない!畜生、なにをやっているんだ、このバカ!」
一度具体的にやることが決まれば話が早いのが僕である。そこからは「動機づけ」のことばかりを考えた。生徒を学習に動機づけるためだったら何でもやったし何でも読んだ。そして実践した。その実践を5年続けた。すると見事に僕の授業は改善され、半授業崩壊状態だったのがウソであったかのように仕事が楽しくなった。授業では飽き足らず、朝補習を自主的に敢行したら生徒が来ない日はなかった。
ある日の授業中。生徒たちが一生懸命に勉強に取り組む姿を見ながらいきなり体に震えがきた。体調不良ではなく感動と喜びの震えであった。そしてなぜか目に涙があふれてきた。生徒たちは不思議な顔で僕を見つめる。僕は必死に涙をこらえながら授業を何とか終えた。5年間かけて成し遂げたのだ!自分の実践にようやく満足できた。その実践を以下の論文にまとめた。大学院で学んだテーマとは無関係。
Seki. (1999) A Longitudinal Investigation of the Development of Attitude Towards English Learning of Underachieving Learners.(英語嫌いの学習者の英語に対する態度を好転させるための縦断的研究)