(注:長文です)
―1-
大学1年と2年の間の春休み、僕は必死にアルバイトで貯めたお金でインド一人旅を敢行した。(この旅の資金稼ぎについては「私の履歴書#6参照」)
当時はまだ旅行会社主催の海外旅行が一般的で、一人旅をする学生はさほど多くない時代。だからこそ僕は憧れた。今でこそ大学教員として「集団型」国際学生交流プログラムに情熱を傾けているが、当時の私は一人旅にこそ意義があると信じ、グループツアーを蔑む節があった。「集団でその国に行っても現地の人々と交流ができないだろう」「誰にも邪魔されずに自分の感性でその国を感じたい」こんな風に思ったことを記憶している。ホテルも予約せずに一人、行き当たりばったりの旅と決めていた。
インドを選んだのは「見たことのない」世界を見たかったから。インターネットのない時代。テレビに映し出される外国は旅行先の候補から脱落していった。「行かなくても目で見える」国に自分で稼いだお金を注ぎ込む価値を感じなかった。この頃までに「未知の世界」のドアを開けることの快感を知ってしまっていた僕は、さらなる未知を開拓していたように思う。インドに関する本を何冊か読んだ覚えがあるが、具体的にイメージすることができず、テレビに映像が流れてくることも。だからこそ興味をそそられた。と、こんな風に美辞礼儀を並べたが、何よりも、目的もなく怠惰な大学生活を生きているダメな自分を何とかしたいという強い願望があったことは言うまでもない。
威勢よく日本を飛び出したものの、この旅は珍道中を超えて無茶苦茶だった。根拠なき自信だけを「武器」に世界に飛び出した無防備な若干19歳の僕は、次から次へと「世界の現実」に襲われた。以後恥を忍んで書き連ねる。
なぜかエジプト航空。バンコク経由(一泊)カルカッタ着の便。バンコク行きの便で酷い下痢に襲われた。これまでに経験のないもので、飛行中ほとんどの時間トイレを占拠し他客の顰蹙を買った。インドでの下痢は覚悟していたが、現地到着前の下痢は想定外。先が思いやられた。
バンコク到着。なぜかここだけ慎重に、出発前に少し値の張るホテルを旅行会社を介して予約してあった。
ホテルに到着して目にしたものは日本の田舎出のピュアな僕にはあまりに刺激的すぎた。フロントのすぐ隣にバーのようなものがあり、そこでは数多くの西洋人の男性たちと娼婦らしき女性たちが抱き合い唇を重ねていた。いけないものを目の前にしてしまった僕は心が萎えた。そして後退り。逃げるようにボーイに案内されて部屋に入る。扉を閉めようとしたらボーイは鍵を渡しながら言った。「女はいるか?」。僕の心は完全に閉鎖。翌朝まで一歩も部屋から出ることはなかった。
翌朝、空港まで行く手段をホテルのフロントに尋ねた。すると間もなくして、笑顔のおじさんが目の前に現れた。僕は素直に彼についていき、普通乗用車に乗った。それが“白タク”(民間人が認可なしで勝手にタクシーを名乗るのこと)だと知ったのはしばらく後のことだ。随分と値が張るなぁと思いつつ、私の心は空港に無事到着することだけで精いっぱいだった。インド旅行中 “白タク”を巡る悲惨な話を次から次へと聞かされ背筋が凍った。
カルカッタに向かう夕方の機内では当時バックパッカーのバイブル「地球の歩き方」と睨めっこしていた。「地球の歩き方」には、「インドでは何倍ものお金を言ってくる。徹底的に値段交渉をしろ」という類のことが繰り返し書かれてあった。心を決めた僕は飛行機がカルタッタに到着する頃には「戦闘モード」に入っていた。「絶対に騙されない!空港から安宿まで、ガイドブックに書かれている値段で辿り着く!」
案の定、入国手続きを終えて空港を出ると、多くのバイクリクシャー運転手が僕を目掛けてきた。「戦闘」開始!目的地はバックパッカーの聖地“サダルストリート”までの値段交渉。絶対に負けるわけにはいかない。必死だった。しかし、交渉すれどもすれどもこちらの求める金額で応じる人は現れなかった。そうこうしている内に夜が更けて。何と空港が閉まってしまった。照明も消えて真っ暗に。周囲を見渡すと残された旅行者は僕だけ。交渉すべきリクシャードライバーさえもいなくなってしまった。
「何かがおかしい。」
夜遅くのリクシャーは料金割増(日本のタクシーと同じ)ということはガイドブックのどこにも書かれていなかった(もしくは見落とした)。途方にくれていると心配して声をかけてくれた空港関係者が知り合いを呼んでくれて、目標金額の4倍も払って目的地に到着した。情けなかった。
更なる困難が襲う。前もってリストアップをしておいたホテル当たってみたが、どこも閉まっていた。空港での交渉で粘りすぎたために遅く着きすぎたのだ。フロントの受付係はすでに勤務時間外でぐっすりと寝ていた。「これではもう路上で寝るしかない、最悪だ」と悲壮な覚悟をし始めた頃、幸運な出会いが。インドの現地のビジネスマンが「うちにおいでよ」と声をかけてくれたのだ(東京でこんな風に声をかけてくれる人はいるかな?)何とか路上で寝ることを免れた。まだインド1日目 。一人旅への憧れは無残な現実へと変わっていた。
―2-
今でこそ分かることだが、世界中どこでも旅行者が訪れる有名な観光地には共通の特徴がある。現地の人達は旅行者のお金を目当てに集まってくることということだ。たとえば僕が暮らしたタイのバンコク。一般人居住地域タクシーは機械メーターで料金が自動的に加算されるが、外国からの観光客が集まる観光名所にはメーターを使わない悪徳タクシーが、“慣れない外国人観光客”をターゲットとして暗躍する。
インド旅行中の僕もそんな“慣れない”旅行者の一人だった。しかも自分がカモだということも知らずに。高い金額を吹っかけてくる人々にガチで勝負に挑み、稀に勝利したが多くの場合、カモとなっていた気がする。
忘れもしない「耳かきおじさん」。僕はある時疲れ果て、カルカッタの公園ベンチに座り異国での不安や孤独と闘っていた。ふと、ターバンを頭に巻いた優しそうな現地の方が話しかけてきた。
「疲れているみたいだね。耳かきをしてあげるよ」
勝手に私の耳の中の掃除を始めた。当時、ピュアだった僕は、「インドの人って親切なんだ!」と感激し耳を委ねた。とても気持ち良かった。ここまで本格的に他人に耳かきをしてもらったのは生まれて初めてのこと。幼い頃に母がしてくれた耳かきとはレベルが違うプロだった。さらに仕上げにメンソールのスースーするようなものまで付けてくれる大サービス。僕は心をこめてお礼を言った。彼は満面の笑顔で:
「100ドル(約11000円)です。」
絶句した。僕は途端に「戦闘モード」に切り替わり激しい値引き交渉を繰り広げたが、かなり高い金額を払わされた気がする。
当時の日記にはこの事件を受けてこう書かれていた「世界にでるとただでもらえる親切などない」。今読み返すと自分でも大爆笑。
バイクリクシャーでもぼったくりに遭った。乗るときには目的地を伝え金額を交渉するのが常識だ。これは外国人だけに限らず、世界の多くの地域で乗り物の値段交渉は当たり前だ。この交渉文化は手間がかかるが、人々のコミュニケーションが活性化され、中々優れていると今では思う。だが当時の僕は初心だった。「ここまで行ってくれ」と言って値段も聞かずに乗り込み、着いた場所で再び100ドル要求された。またしても僕は「戦闘モード」。明らかに喧嘩にしか見えない長い交渉の末に随分と値引きさせた。それでも、相当に高い金額を払ったことは間違いない。後に仲良くなった現地の方にその話をしたら、「その区間は100円だよ。お前は何十倍ものお金を払った。さすが日本人。国際貢献の意識が高い!」と大爆笑された。奈落の底に突き落とされるほど落ち込んだ。
僕は現地の人との交流を求め、話しかけてくれる人には喜んでついて行った(笑)。ただ、僕のような”異邦人”にわざわざ声をかけてくれるのは向こうの世界でも「企み」がある人ばかりだった。日本でも普通の人は見知らぬ外国人に声などかけないだろう。それと同じ、現地の普通の学生やサラリーマンは薄汚い外国人旅行者など相手にしない。その頃の僕はそんなことも知らず、「相手にしてくれる人がいる!優しいと」思った。声をかけられればホイホイとついていった。その結果何度もトラブルに巻き込まれた。
ある日の夕暮れ。「泊めてくれる」と申し出てもらって、インド民間人の家について行った。部屋に荷物を置くと、すぐに言われるままに屋台に外食に出かけた。帰宅すると・・・。
僕のリュックの紐の結び方が明らかに違っていた。血の気が引いた。中身が全部見られていたのだ。取られるような貴重品は何も入っていなかったが、その夜は恐怖で一睡もできず夜が明けると共に御暇した。
ある時知り合った人とはお茶を飲んで仲良くなったと思ったら宝石店に案内された。陳列される宝石がインドでは安いが日本ではどれだけ高く売られているか聞かされた。僕は彼の話に納得し(笑)「世の中の経済はこのようにして回っているのか。いい勉強になった。」と満足感に浸った。彼は中でも一番高そうな宝石を手にして続けた。「取り合えずこれを200ドルで買い、日本でここ(日本の住所が書かれていた)に届ければ、成功報酬1000ドル。どうだ。」
その時の僕はバカだったので「どうしようかな」と呑気に考えた。「危ないかな」という気持ちは微塵も出てこず、「これは儲かるかも」と本気で思った。しかし結局この時は断った。断った理由。「もしこんな高価な宝石を旅行中に盗まれたら損をする。」リュックを勝手に開けられたことがトラウマになっていた。まさかその宝石が偽物だなどとは夢にも思わなかった。この話を後に前出の友人に話しをしたら、「お前は受験勉強の前にまず石の勉強をすべきだった」と再び大爆笑された。心底傷ついたが強ち間違ってはいなかった。
また別の時には「インドの田舎を見せてあげる」と優しく声をかけれれホイホイ着いて行った。実際貴重な経験ができた。現地の貧しい人々の暮らしを初めて目の当たりにして衝撃を受けた。「僕は、今、まさに世界の貧困の中にいる。」国際ジャーナリスト気取りだった。しかし・・・!
村から戻ってくると、またしても、宝石屋に連れて行かれた。そこでは十人ぐらいの人々に囲まれた。笑顔はなかった。そして「これはお前のものだ」と言うかのように、宝石をポンと手渡されて買わされそうになった。具体的にいくらだったか忘れたが、それを買ったら旅行自体に支障が出るほどの高額だった。
咄嗟に僕は全速力で走り出した、ひたすら逃げた。目に涙を浮かべていた。しかし後ろを振り返ると優しかったはずの彼と他数名が追いかけてくる。やばいと思い、通りかかったバイクリクシャーに飛び乗った。
「一番近くのいいホテルまで連れてって!」
到着したホテルはかなり高級なホテル。必死な様相で駆け込んだ僕は、おしゃれな西洋人客たちの冷たい眼差しを浴びた。もう耐えられなかった。翌日、ホテルの人に駅(電車に乗るホーム)までエスコートしてもらい、その地を後にした。「もうこんな場所には二度と来ない!」と固く誓った。ちなみにそこはタージマハルで有名なアーグラー。タージマハルを見ずにアーグラーを去る外国人観光客など僕以外にいるのだろうか。もう立ち直れないほどに心は落ちた。
インドで出会った数少ない日本人も変だった。“荷物が漁られていた事件”を受けて「もう日本人しか信じられない」と方向転換。日本人を探した。日が暮れる頃に2人組の日本人を発見!一緒に泊まることを許された。僕より一個上の "MARCH" の大学生。嬉しかった。
夕食の後。彼らは「ちょっと行ってくる」と突然路上のインド人と話し始めた。そして買ってきたのが“ハシシ”(大麻の一種)。部屋に戻ってくると廊下の右と左をさっと見回した後部屋の鍵をガチャリと閉めた。「ヤバイ」と背筋を冷たい汗が伝った。この時点で警察が来たら僕も同罪として連行されたかもしれない。僕はそこでかろうじて吸わずに、彼らをじっと観察した。彼らがだんだん気持ち良くなって“宇宙に飛んでいくのを”黙って見つめるしかなかった。「逃げたい」と思ったが、その勇気もでなかった。彼らはそれが目当てでインドに来たと言った。翌朝早くに別れを告げた。
ある時には、髭ボウボウの20代であろう男が近づいてきて関西弁で「お前日本人か」と聞いてきた。「そうです。」と丁寧に答えると:
「お前いいこと教えたるで。ここにいる日本人は変態か変人や。俺もお前もや。お前変態や!」 大声でがなり立て歩き去っていった。カオス。
インドでは慢性的にお腹を壊していた。旅行者にはよくあることだが、水やストリートフードの影響かもしれない。心身ともに消耗しきっていた。
バラナシという聖地でガンジス川のほとりに一人寂しく座り込み川に沈む夕日を見ながら、疲れが極限に達した。あれほど外国に憧れた僕が「もう二度と外国には行かない」と心に誓った(笑)。でも、帰国の飛行機までまだ2週間も残っていた。
ふと横に視線を向けると、明らかに日本人っぽい女性がいた。声をかけると卒業旅行中の日本学生。しかも某一流大学生だった。見た感じも、聞いた就職先もまともな人。インドに行って初めて会った、“普通”の日本人。感動した。
彼女とは意気投合。数日間一緒に旅行した。楽しかった。あまりに楽しすぎて、二度と来ないと誓ったインドまでもが再び好きになってしまう程だった。
ゲストハウスのお金を節約するために、一緒の部屋に泊まり、夜通し語り合った。ガンジス川のほとりで丸2日間話し通した。今まで心にたまっていたことをすべて母語で掃き出し気分爽快。ついでに言えばその女性に恋をした。その恋心を明かすことのないまま、彼女とは別れ、喪失感があったが、彼女は私のその後の人生に大きな影響を与えることとなる提案をした。
「そんなにインドに疲れたのなら、ネパールに行けば。ネパールはここよりずっと静かで落ち着いているよ。私はインドよりネパールの方がずっと好き。」
彼女はネパールを旅した後にインドに来ていたのだ。この一言がなければ、僕がそこからネパールに向かうことはなかった。
(余談になるが、あの時ネパールに行っていなければ、その19年後に、学生を連れてネパールに研修に行くこともなかったし、ネパールと日本の架橋となる活動に夢中になることもなかった。まさに運命の出会いである。)
陸路でのネパールへの1泊2日の旅は過酷だった。最大の問題は下痢。トイレに行く度にバスを無理やりに止め顰蹙を買った。苦しみ抜いて到着した地は、“ポカラ”。聞きなれない地名だ。(まさか、ずっと後にこの地に暮らすことになるとは何とも奇遇だ)。
夜に安宿に着いて、とにかく寝た。近くにトイレがあることの安心感からか、熟睡した。
翌朝、ゲストハウスの方から「お腹を壊していてもご飯ぐらい食べた方がいいよ」と声を掛けられ、はしごのような階段で屋上に上がった。コトバを失った。眼前に広がる壮大なヒマラヤ山脈。
鳥肌が立った。あの時の気持ちは到底言葉にはできない。僕の心にだけある一生の宝となる景色。“ネパールはヒマラヤの国”、そんな基本情報すら僕の頭からは抜け落ちていた。
ポカラに行ったのはバラナシからバスで行けるネパールの都市という、安易な理由だった。今から30年前のポカラは、今と違い何も無い地域だった。赤土だけが広がっている大地。
ネパールのホテルに着いたものの、僕は下痢に苦しめられてただ休んでいた。近くの医者に毎日自転車で通った。見かける外国人はほぼすべて登山客。ポカラはヒマラヤの玄関口という異名を持っていた。
-3-
ある日ネパールで二人の日本人に出会った。一人は秋田大学の医学部生、もう一人は上智大学の神学部の学生。二人はエベレスト・ベースキャンプの帰りだった。
実はその頃、僕にお金不足問題が発生していた。インドとネパール移動中、財布の入った荷物をトイレに置き忘れてしまったのだ(お金は数か所に分けて所持していた)。
医学部の彼は僕の状態を見て、ポカラから首都カトマンズまでは飛行機で行った方がいいと提案した。「その状態でバスで十数時間は無理だよ。」
しかし飛行機は非常に高額、僕の懐状態では無理だった。すると、何とお二人が100ドルずつお金を貸してくれた。実は医学部生の彼のご実家は新潟大学のすぐ近く、紙切れに住所を書き「帰国後にこの住所に行って親に渡して」と言って、僕の元を去った。神だと思った。
約100ドルの航空券でカトマンズに移動。バスだといくつもの峠を越えての10時間が飛行機だとわずか25分。富む人と平民との差を学んだ。
本来インドから帰国するはずだったがネパールからの便に変えた。それが可能な航空券だったが、変更の手続きが必要だった。カトマンズの旅行会社で無事手続きを終えていよいよ帰国の途に着いた。ようやく日本に帰れる。日本食、アパートの快適な水洗トイレ、そして日本語。夢は広がった。しかし・・・!
経由地バンコクでまさかの事態、飛行機の席が予約されていなかった。「そんなはずはない」とカトマンズの旅行会社で受け取った紙を見せるが相手にしてもらえない。そのまま僕はタイに入国するはめになった。「呪われている」とすら思った。
翌朝僕はエジプト航空のオフィスに行き事情を話した。すると直近でチケットが取れるのは一週間後。それでは新学期にも間に合わないしその前にお金が尽きる。引き下がるわけにはいかずオフィスに居座った。社員の目を引こうと、ひたすら悲しそうな途方に暮れた表情で必死にアピールした。数時間後、見かねたやさしい女性スタッフが周囲と何やら話した後に僕の元に来て囁いた。
「100ドル払えばファーストクラスの席が一つだけ空いているよ。」
「ファーストクラス!!」
この旅は最後の最後まで無茶苦茶だった。僕はポカラで「神」から授かった100ドルを払い、人生後にも先にも初のファーストクラスで、超快適な飛行機の帰国旅をした。もっとも、離陸するや否や疲れで爆睡してしまい、ファーストクラスならではのサービスを一つも経験することはできなかったが。
―後日談―
100ドルを借りた秋田大学医学部生話に戻る。帰国後僕は、恩人に大変な非礼を犯してしまった。帰国する際のゴタゴタで彼の連絡先を書いたメモをなくしてしまったのだ。電話帳で彼の苗字を検索し、上から順番に電話をかけ始めた。
しかし、事情を説明するのには時間がかかる、途中で不信がられて切られた。早々に気持ちが萎え、電話をかけるのを諦めてしまった。お金を返さぬまま月日は流れた。無礼者。
数年後、僕は今の妻のドイツ人とつきあい始めた。ある日彼女は言った。
「私がとてもお世話になっている(日本人)お医者さん夫婦に、ボーイフレンドができたなら是非連れて来なさいって。」
言われるがままについて行った。奥様は、僕のインド・ネパールでの体験談に耳を傾けると笑顔で言った。
「奇遇ね!私の息子も同じ頃にネパールに行っていたわよ」
見せてくれたアルバムの中には、なんとあの医学部生と僕がいた。
「やばい!」
凍り付いた。
翌日に100ドル相当の日本円を持ってお宅を伺ったことは言うまでもない。程なくして恩人医学生とも再会を果たした。ひたすら謝罪した。