2020年5月24日日曜日

私の履歴書(番外編2)愛すべき英語科の学友たち

「ここは僕が来たかった大学ではない」。
地元新潟では「新潟大か東大か」とキラキラした目で見つめられる新潟大学だが、小学生の頃から「この山の向こうに行きたい」と越後山脈を睨め付け続けた僕にとって入学当初理想の大学ではなかった。しかし友人に恵まれた。卒業する頃には「新潟大学に来なければこんな素晴らしい友人たちと出会えなかった」と確信するまでに。

 浪人中に出会った太庸吉先生のおかげで英語の面白さに目覚めた僕は、英語だけはどこの入試問題でも解けるほど得意になっていた。しかし、2年次から3年間、“運命共同体”となった英語科のクラスメートや先輩方は、そんな僕より遥かに英語が出来た。得意科目すら勝てないなんて・・・2年で専門科目の学びが始まるとクラスメートのレベルの高さに茫然。さらに教員養成課程の学生らしく、元気で社交的。かつ真面目、論もたつ。“完璧”すぎた。
 しかも彼ら彼女らは、英語に限らずどの科目も高いレベルで出来た。息をするように猛烈に勉強するハイスペック同級生たちを横目に、大量の課題の山にどうしたらいいかわからず騒ぎまわっていた当時の僕は、彼らの目には実に滑稽に見えたであろう。
 今思えば、あの集団での生活は、新たな「異文化」への大挑戦だった。

 何せ1年次、入学以来、週に2コマしか授業に出席しなかった僕は、単位を取得するために彼らの多大なサポートを受けた。「関くん大丈夫?」「分からない問題ない?」と、まさにおんぶに抱っこで介護状態。2年生に上がる頃には、彼らに頭が上がらなかった。現役で大学に入った同級生が多い教育学部英語科では同級生は年下が多かったが、いつの間にか僕は年上の“いじられキャラ”と化していた。勉強面でお世話になっているお返しに、過酷な環境でも明るい雰囲気作りに努め、教授からの怒られ役も買ってでた。その結果、ハイスペック集団の中でも私なりの存在感を確立することができた。同級生が教授への不満があると、「関君しっかり伝えてね。」

 また、僕にとって初めての「『勉強がよくできる人』しかいない空間」。それまで競争の少ない田舎で生きてきた僕にとって、新しい世界であった。

山のような課題に追われながらも、私たちは3年間膨大な時間を共に過ごし語り尽くした。大概は他愛もないふざけた話題であったが、時には世界的な話題についても議論を深めた。彼らはどんな話題にも乗ってきてくれた。例えば、僕が図書館で借りたアパルトヘイト関連の書籍を読んでいたとき。
「へえ、関君も真面目な本読むことあるんだねぇ。」というイジリから始まりつつ、気が付けば夜明けまで人種隔離政策やネルソン・マンデラについて語り合った。他にも南京大虐殺、731部隊、東西冷戦、湾岸戦争。どんなテーマでも真剣に議論に乗ってくれたため気持ちよかった。

ちなみに、僕自身の経験値を、時代も環境も異なる今の学生に求めるのは筋違いかもしれないが、もし仮に学生から「理想の学生集団」を問われたら、間違いなく当時僕が共に過ごした彼らを思い浮かべるであろう。

卒業後、彼らはは世界で広く活躍することになる。多くが新潟の英語教育界を牽引しているが、他にもNHKラジオ講座の講師、大学教授、国連機関職員、一流の編集者などなど・・・。1学年11人しかいないのに、錚々たるメンバー。

卒業式の最中、僕は過去を振り返っていた。
僕が新潟大学に来たのは考えれば考えるほど偶然だった。
「新潟から脱出したい!東京に行くんだ!」の一心から、推薦入試を受けようとした高校3年生。→評定平均が0.1足りなかったため断念。
海外に興味があるあまり“国際”という学部名だけで某M学院大学に入学金を払い込んだ一浪時。→超予想外の新潟大学合格&母の涙で(無念の)新潟大学進学決意。
夢だった東京への大学進学まであと一歩“というところまで近づいたことは何度もある。その度に奇跡的な偶然で僕は越後山脈の内側に閉じ込められ続けてきた。(詳細は、「私の履歴書#5 浪人生」に記載。)
もし・・・あの時、運命の歯車がほんの少し食い違っていたら、あの最高の新潟大学の学友たちとの掛け合いは経験できなかったろう。「大学進学時はハズレくじと思っていた選択が、結果として最高の選択だった」。胸に湧き上がる想いとともに、卒業証書を握り締めた。

 最後に。お世話になったある教授からかけられた言葉で「番外編2」を締めたい。
このブログの読者は“新潟大学”の部分を自分の所属する大学や組織に当てはめて聞いてほしい。今の若い世代にとっても未だ力を持ち得る言葉だと思う。

「新潟大学は地方の国立大学である。ここにいる多くの人たちは、新潟の教員になるかもしれない。その場合活躍できるチャンスは多い。
しかし、一度新潟を出て広い世界に挑戦しようと思った途端に、この大学の名前はあなたたちのことを一気に守ってくれなくなる。例えば、東京では新潟大学の名前を出しても誰も振り向いてくれない。新潟で育ったあなたたちは、まだその現実がいまいち腑に落ちないかもしれない。(実際に当時の僕はよくわからなかった)
自分の学歴を過信するな。
これから一流になろうと思ったら、必ず学歴の壁にあたる。この学歴の“おかげで助けられる”のではなく、この学歴“しかない”せいで、不利な状況に陥ることもあるかもしれない。その時のためにも実力をつけろ。学歴社会で勝ち抜くためには実力をつけろ。努力を怠らず、唯一無二の存在になれ。そしてチャンスを逃すな。
誰にでもチャンスは一度や二度は来る。
その時に、鍵となるのは準備ができているかどうかだ。めぐってきたチャンスは準備ができていた人が掴み取って、準備ができていない人は口を開けてそれを茫然と見送るだけだ。そもそも、“今がチャンスだ”と気付かない人がほとんどだ。世の中の9割以上という説もある。」

 なぜかその言葉は、僕の頭の片隅でチリチリと燻り続けるようになる。そして、その後、僕の人生は、その言葉通りの展開で現在に至ることとなる。それはまたあとの話だ。

2020年5月16日土曜日

関昭典教授 私の履歴書#8(地獄の専門科目時代)

   僕が無事2年生に進級できたのを知ったのは日本から約6,000kmも離れたインドだった。前回の記事(私の履歴書#7)ではインド・ネパール旅行の顛末を書いたが、その旅行の途上で友人に国際電話を受けてガッツポーズ。たった1分で100円もする国際電話の電話料金は痛かったが、進級の一報を受けるまでは「果たして無事進級できるだろうか」と不安で胃が痛かった。何しろ1年生の時の僕は週に平均2コマほどしか出席せず、この旅行のためのアルバイトに明け暮れていたのだ。進級できた時は「奇跡だ!」とインドの神ガネーシャに感謝。

 そんな“怠惰”の二字熟語が擬人化したような大学生活を送っていた1年次だったが、2年生になってから僕は人が変わったように勉強に没頭するようになる。いや、没頭せざるをえないほどの環境に追い込まれたと言ったほうが正確かも知れない。
「新潟大学教育学部中学校教員養成課程英語科のキツさは尋常じゃない。一言で言うなら“異常”だ」
英語科の1年生11人が先輩からの謎の警告を受けたのは、僕がインドから帰国した直後のことだった。謎めいたお達しに僕らは困惑。しかし、すぐにその謎は解けることになる。

 2年生になった僕らは教育学部棟に“収監”された。学部棟の7階からは日本海の海面が日差しに反射した煌めきがとても綺麗に見えていた。
 7階はフロアのほとんどを英語科が占拠。暗い廊下の端から端まで、教授の研究室、セミナー室、音声学習室・・・英語科専用の教室がびっしりと両端に2つずつ並んでいた。そんな1つのフロアにいるのは11人(×3学年)の学生と7人の教授だけ。英語科の教授の研究室はそのフロアに集中している。常に教授が文字通り手の届くところにいる状態。ほぼ教授と11の状態で教えを乞えるという意味で信じられないほど恵まれた環境だった。だが、「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」というニーチェの警句を引用するまでもなく、僕らが教授に付きっきりで教えてもらえる環境とは、逆に言えば教授からも学生の課題に取り組む姿勢がすぐに目に入る環境。一瞬も手を抜けない専門科目開始のゴングが鳴らされた。結局、卒業までの3年間でその環境のメリットとデメリットの両方を余すところなく味わうことになる。
 僕の24年生までの大学時代の専門科目の思い出は、あの薄暗い教育学部棟抜きには語れない。というのも、寝る以外の時間はずっとそこで英語辞典と睨めっこしなければ終わらないほどの大量の課題に見舞われたからだ。「日本の大学生は勉強しない」と皮肉げに語られることが多いが、その説に当て嵌めるならば新潟大学の教育学部棟7階は日本ではない治外法権の働く空間だったのかもしれない。思わずそう首をかしげたくなるほどの想像を絶する量の課題だった。

余談だが、あの頃経験したどうやっても終わると思えないほどの無茶振り。そんなものをこなした僕から見たら、現在の学生たちが「忙しくて課題が終わらない」と嘆くのを聞くたびに「暇じゃん」としか思えない時がある。もちろんその時の僕を基準にしてはいけないと思うので、僕の学部生時代の勉強量を学生に押し付けることはしないが。

ある必修の授業では初回の授業で100ページほどの英語の本を配られた。
ここまで読んで、このブログの大学生の読者は、「それを1年間で読むことになるのかな」と思ったかもしれない。しかし、実際はそれを“1週間で全訳”させられた。毎週渡される100ページ弱の新しい本。全ページを手書きで和訳していく作業は想像を遥かに絶するほどに過酷だった。1年が過ぎる頃には、本棚の一角は和訳させられた本で埋め尽くされることになった。しかもご丁寧に英語科学生11人みんな違う本を渡されていて、相互に協力して進めることも不可能。毎週その授業が近づくと受講者の目の下にクマができるようになった。
「よし、心機一転して勉強するぞ!」とモチベーションが高かった4月はなんとか気合で乗り切ったものの、5月に突入するともはや精魂は尽き果てつつあった。
そんな時ふと僕の頭にある疑念がよぎった。「待てよ、果たして教授は100ページ×11人分を確認できているのだろうか。」疑念の種は芽を伸ばし、ついに僕はある“実験”を敢行することになる。
まず、はじめに最後の数ページだけ和訳と全く関係ない文章を挟んでみた。次の週・・・特に注意もされずそのまま返ってきた。少なくとも最後まで読んでないと判明。
それに味をしめた僕は、次の週は輪ゴムを提出する課題の数カ所挟んでみた。もし先生が和訳を確認するためにページを開いたら輪ゴムが落ちる。輪ゴムがそのままならページを開いてないと判断する作戦だった。次の週・・・全ての輪ゴムはページに挟まったままだった。「開いてない!」。
ついには無茶振り。ページの3分の1近くに輪ゴムを挟んだ。なんと全ての挟んだ輪ゴムがそのまま!「1ページも開いていない」と完全に確信した。
それから僕は最初の数ページだけ真面目に翻訳し、残りの90ページ超は全て既に返却されてきた紙を挟んで提出するようになった。課題開始からおよそ1ヶ月しか経っていない5月半ばのことだった。しかしある日、事件が起こる。
12月ごろの授業で先生はふと思い出したように「じゃあ全員で翻訳を確認していくぞ」と授業内容を変更したのだ。当然だが、僕の手元にあるのは課題本の翻訳とは全く関係のない適当な文章の束。血の気がひいてぶっ倒れそうになった。一人一人当てられて和訳を音読していく地獄のような90分。恐ろしすぎて記憶が定かではない。

その教授の授業の課題はとんでもないものだったが、試験もそれに輪をかけたくらいとんでもないものだった。『英文法総覧』という600ページを超える有名な文法書がある。高校生には難しすぎるが、英語を専門に研究する学者からは絶大な評価を受けている本だった。その本から10箇所出題され、7つ以上正解できたら単位をもらえた。しかし、出題範囲は600ページ。文法事項にとどまらず、欄外の注釈にある雑学的な内容からも平気で出題された。例えば、(その試験対策のために大学時代に覚えたことのいくつかはこの歳になっても脳味噌に染み込んでいる)「中右実(なかうみのる)という有名な文法学者がいるが、彼の主著と出版年を述べよ」といった問題すらでた。欄外に小さく記載してある出版年まで答えられないと不正解扱いされるのは、もはやわけがわからなかったが卒業するため必死だった。ただ、一言添えるとすれば、600ページ"丸暗記”により英文法の知識が無理やり頭に入ったことは間違いない。

そんな我らの暴君(教授)はゼミについても奇妙なルールをお達しになった。「男は全員、私のゼミに入りなさい」。自由意志やアカデミック・ハラスメントという“文明的”なルールが形骸化した特殊な空間、それが僕の学んだ時代の教育学部棟だった。ちなみにあの世界では男性学生は”マイノリティ”、女性支配空間だった。
上記のように専門科目が始まってからの僕は、課題の山をちぎっては投げという気持ちで獅子奮迅の格闘をしていた。2年生のうちは膨大な課題を消化するのに、文字通り朝から晩まで1週間ずっと机に向かいっぱなしで「考える暇」がなかった。言われるがまま、彼の言語学のゼミに所属。しかし、3年生に上がる頃には少しは周りを見渡す余裕が生まれ、自分が何を学びたいのかというものが見えてきた。

そのきっかけは教育実習に行った時に実習先の学校で「君は米山朝二先生、高橋正夫先生のいるあの新潟大学“で学んでいるなんて本当に幸せ者だな」と心底羨ましそうに声をかけられたりすることだったかもしれない。実は年生の半ばに知ったのだが、新潟大学英語科には2人の“知の巨人”がいたのだ。2人は新潟大学卒の同級生。日本の学校英語教育にコミュニカティブ・ティーチング(コミュニケーション力を伸ばす英語教授手法)を本格的に導入した立役者という偉大すぎる実績の持ち主。その名を日本の英語教育界で知らぬ者はモグリか素人だけだった。 
3年生になってから巨人たちの「英語教育法」などの英語教育関係の授業を受けて眼から鱗の連続。日本の英語教育の現状分析から始まり、「どんな教育が理想なのか」果ては「それを実践するための指導法(実演)」まで理論と実践を全て目の前で表現してくれるような超ハイスペック講義。遅刻した学生、予習の足りない学生は厳しく叱責されるが僕には苦にならなかった。先生が真剣に授業を準備をし、本気で取り組んでいることが見て取れたからだ。その時までの様々な経験から、僕は人の目や動作から「本気度」を見極める技術を身に着けていた。高校時代や大学一年次、授業がつまらなくて学校教育を蔑んでいた僕の心が急に震え始めた。

「これが面白い」と自分が納得したらとことん突き詰めるのが僕の性格。2人の知の巨人の授業、特に米山先生の授業は一言一句聞き落とすまいと誠心誠意取り組んだ。勧められた本は借りるか買うかして全て読破、授業は人一倍真剣にきき、教育実習では教わった教育理論を実践した。
「僕の関心は英語教育法に移りました!」鬼と恐れられていた言語学の教授に頭を下げて、米山先生のゼミに移籍した。前例のない3年次末でのゼミ変更。僕より成績がいい同級生はいくらでもいたが、僕より米山教授の授業に“極端”に没頭した同期学生は他に知らない。

 大学4年生になる頃には、「大学院に行こう」と考えるようになっていた。大学院に進学するなら東京大学、東京学芸大学それから筑波大学。博士課程までのコースが整備されていて、意欲の高い同級生たちと切磋琢磨できる。米山先生含め新潟大学の教授からもそう勧められた。先生方が、大学院後の進路のことも考慮して進言してくださっていた。しかし、僕には研究者の道を目指す気持ちなど毛頭なく、ただただ、米山教授の指導理念に傾倒し「この先生からもっと学びたい」その一心だった(”このまま社会に出ても使い物にならない”という本音もあった)。なぜかこの時には長年の東京への憧れは鳴りを潜めた。
「新潟大学の大学院に進学すれば米山教授の教えを独り占めできる!」そんな思いが決め手となって新潟大学大学院を受験。筆記試験、面接ともに普段から多くの時間を共にさせていただいている教授が行うのだ。落ちる気はしなかった。結果、危なげなく合格。こうして僕は学部卒業後も引き続き大学院で英語教育の研究を深めることとなる。
新潟大学教育学研究科教科教育専攻英語教育専修。受験者2名、合格者2名。

2020年5月9日土曜日

関昭典教授 私の履歴書#7 インドへの一人旅、そしてネパール(19歳)


     (注:長文です)
                                                                      ―1-


 大学1年と2年の間の春休み、僕は必死にアルバイトで貯めたお金でインド一人旅を敢行した。(この旅の資金稼ぎについては「私の履歴書#6参照」)

 当時はまだ旅行会社主催の海外旅行が一般的で、一人旅をする学生はさほど多くない時代。だからこそ僕は憧れた。今でこそ大学教員として「集団型」国際学生交流プログラムに情熱を傾けているが、当時の私は一人旅にこそ意義があると信じ、グループツアーを蔑む節があった。「集団でその国に行っても現地の人々と交流ができないだろう」「誰にも邪魔されずに自分の感性でその国を感じたい」こんな風に思ったことを記憶している。ホテルも予約せずに一人、行き当たりばったりの旅と決めていた。

 インドを選んだのは「見たことのない」世界を見たかったから。インターネットのない時代。テレビに映し出される外国は旅行先の候補から脱落していった。「行かなくても目で見える」国に自分で稼いだお金を注ぎ込む価値を感じなかった。この頃までに「未知の世界」のドアを開けることの快感を知ってしまっていた僕は、さらなる未知を開拓していたように思う。インドに関する本を何冊か読んだ覚えがあるが、具体的にイメージすることができず、テレビに映像が流れてくることも。だからこそ興味をそそられた。と、こんな風に美辞礼儀を並べたが、何よりも、目的もなく怠惰な大学生活を生きているダメな自分を何とかしたいという強い願望があったことは言うまでもない。

 威勢よく日本を飛び出したものの、この旅は珍道中を超えて無茶苦茶だった。根拠なき自信だけを「武器」に世界に飛び出した無防備な若干19歳の僕は、次から次へと「世界の現実」に襲われた。以後恥を忍んで書き連ねる。

 なぜかエジプト航空。バンコク経由(一泊)カルカッタ着の便。バンコク行きの便で酷い下痢に襲われた。これまでに経験のないもので、飛行中ほとんどの時間トイレを占拠し他客の顰蹙を買った。インドでの下痢は覚悟していたが、現地到着前の下痢は想定外。先が思いやられた。

 バンコク到着。なぜかここだけ慎重に、出発前に少し値の張るホテルを旅行会社を介して予約してあった。

 ホテルに到着して目にしたものは日本の田舎出のピュアな僕にはあまりに刺激的すぎた。フロントのすぐ隣にバーのようなものがあり、そこでは数多くの西洋人の男性たちと娼婦らしき女性たちが抱き合い唇を重ねていた。いけないものを目の前にしてしまった僕は心が萎えた。そして後退り。逃げるようにボーイに案内されて部屋に入る。扉を閉めようとしたらボーイは鍵を渡しながら言った。「女はいるか?」。僕の心は完全に閉鎖。翌朝まで一歩も部屋から出ることはなかった。

 翌朝、空港まで行く手段をホテルのフロントに尋ねた。すると間もなくして、笑顔のおじさんが目の前に現れた。僕は素直に彼についていき、普通乗用車に乗った。それが“白タク”(民間人が認可なしで勝手にタクシーを名乗るのこと)だと知ったのはしばらく後のことだ。随分と値が張るなぁと思いつつ、私の心は空港に無事到着することだけで精いっぱいだった。インド旅行中 “白タクを巡る悲惨な話を次から次へと聞かされ背筋が凍った。

 カルカッタに向かう夕方の機内では当時バックパッカーのバイブル「地球の歩き方」と睨めっこしていた。「地球の歩き方」には、「インドでは何倍ものお金を言ってくる。徹底的に値段交渉をしろ」という類のことが繰り返し書かれてあった。心を決めた僕は飛行機がカルタッタに到着する頃には「戦闘モード」に入っていた。「絶対に騙されない!空港から安宿まで、ガイドブックに書かれている値段で辿り着く!」

 案の定、入国手続きを終えて空港を出ると、多くのバイクリクシャー運転手が僕を目掛けてきた。「戦闘」開始!目的地はバックパッカーの聖地“サダルストリート”までの値段交渉。絶対に負けるわけにはいかない。必死だった。しかし、交渉すれどもすれどもこちらの求める金額で応じる人は現れなかった。そうこうしている内に夜が更けて。何と空港が閉まってしまった。照明も消えて真っ暗に。周囲を見渡すと残された旅行者は僕だけ。交渉すべきリクシャードライバーさえもいなくなってしまった。

 「何かがおかしい。」
 夜遅くのリクシャーは料金割増(日本のタクシーと同じ)ということはガイドブックのどこにも書かれていなかった(もしくは見落とした)。途方にくれていると心配して声をかけてくれた空港関係者が知り合いを呼んでくれて、目標金額の4倍も払って目的地に到着した。情けなかった。

 更なる困難が襲う。前もってリストアップをしておいたホテル当たってみたが、どこも閉まっていた。空港での交渉で粘りすぎたために遅く着きすぎたのだ。フロントの受付係はすでに勤務時間外でぐっすりと寝ていた。「これではもう路上で寝るしかない、最悪だ」と悲壮な覚悟をし始めた頃、幸運な出会いが。インドの現地のビジネスマンが「うちにおいでよ」と声をかけてくれたのだ(東京でこんな風に声をかけてくれる人はいるかな?)何とか路上で寝ることを免れた。まだインド1日目 。一人旅への憧れは無残な現実へと変わっていた。

                                                              ―2-

今でこそ分かることだが、世界中どこでも旅行者が訪れる有名な観光地には共通の特徴がある。現地の人達は旅行者のお金を目当てに集まってくることということだ。たとえば僕が暮らしたタイのバンコク。一般人居住地域タクシーは機械メーターで料金が自動的に加算されるが、外国からの観光客が集まる観光名所にはメーターを使わない悪徳タクシーが、“慣れない外国人観光客”をターゲットとして暗躍する。
インド旅行中の僕もそんな“慣れない”旅行者の一人だった。しかも自分がカモだということも知らずに。高い金額を吹っかけてくる人々にガチで勝負に挑み、稀に勝利したが多くの場合、カモとなっていた気がする。

忘れもしない「耳かきおじさん」。僕はある時疲れ果て、カルカッタの公園ベンチに座り異国での不安や孤独と闘っていた。ふと、ターバンを頭に巻いた優しそうな現地の方が話しかけてきた。
「疲れているみたいだね。耳かきをしてあげるよ」
勝手に私の耳の中の掃除を始めた。当時、ピュアだった僕は、「インドの人って親切なんだ!」と感激し耳を委ねた。とても気持ち良かった。ここまで本格的に他人に耳かきをしてもらったのは生まれて初めてのこと。幼い頃に母がしてくれた耳かきとはレベルが違うプロだった。さらに仕上げにメンソールのスースーするようなものまで付けてくれる大サービス。僕は心をこめてお礼を言った。彼は満面の笑顔で:
「100ドル(約11000円)です。」
 絶句した。僕は途端に「戦闘モード」に切り替わり激しい値引き交渉を繰り広げたが、かなり高い金額を払わされた気がする。
 当時の日記にはこの事件を受けてこう書かれていた「世界にでるとただでもらえる親切などない」。今読み返すと自分でも大爆笑。

バイクリクシャーでもぼったくりに遭った。乗るときには目的地を伝え金額を交渉するのが常識だ。これは外国人だけに限らず、世界の多くの地域で乗り物の値段交渉は当たり前だ。この交渉文化は手間がかかるが、人々のコミュニケーションが活性化され、中々優れていると今では思う。だが当時の僕は初心だった。「ここまで行ってくれ」と言って値段も聞かずに乗り込み、着いた場所で再び100ドル要求された。またしても僕は「戦闘モード」。明らかに喧嘩にしか見えない長い交渉の末に随分と値引きさせた。それでも、相当に高い金額を払ったことは間違いない。後に仲良くなった現地の方にその話をしたら、「その区間は100円だよ。お前は何十倍ものお金を払った。さすが日本人。国際貢献の意識が高い!」と大爆笑された。奈落の底に突き落とされるほど落ち込んだ。

僕は現地の人との交流を求め、話しかけてくれる人には喜んでついて行った(笑)。ただ、僕のような”異邦人”にわざわざ声をかけてくれるのは向こうの世界でも「企み」がある人ばかりだった。日本でも普通の人は見知らぬ外国人に声などかけないだろう。それと同じ、現地の普通の学生やサラリーマンは薄汚い外国人旅行者など相手にしない。その頃の僕はそんなことも知らず、「相手にしてくれる人がいる!優しいと」思った。声をかけられればホイホイとついていった。その結果何度もトラブルに巻き込まれた。

ある日の夕暮れ。「泊めてくれる」と申し出てもらって、インド民間人の家について行った。部屋に荷物を置くと、すぐに言われるままに屋台に外食に出かけた。帰宅すると・・・。
僕のリュックの紐の結び方が明らかに違っていた。血の気が引いた。中身が全部見られていたのだ。取られるような貴重品は何も入っていなかったが、その夜は恐怖で一睡もできず夜が明けると共に御暇した。

ある時知り合った人とはお茶を飲んで仲良くなったと思ったら宝石店に案内された。陳列される宝石がインドでは安いが日本ではどれだけ高く売られているか聞かされた。僕は彼の話に納得し(笑)「世の中の経済はこのようにして回っているのか。いい勉強になった。」と満足感に浸った。彼は中でも一番高そうな宝石を手にして続けた。「取り合えずこれを200ドルで買い、日本でここ(日本の住所が書かれていた)に届ければ、成功報酬1000ドル。どうだ。」
その時の僕はバカだったので「どうしようかな」と呑気に考えた。「危ないかな」という気持ちは微塵も出てこず、「これは儲かるかも」と本気で思った。しかし結局この時は断った。断った理由。「もしこんな高価な宝石を旅行中に盗まれたら損をする。」リュックを勝手に開けられたことがトラウマになっていた。まさかその宝石が偽物だなどとは夢にも思わなかった。この話を後に前出の友人に話しをしたら、「お前は受験勉強の前にまず石の勉強をすべきだった」と再び大爆笑された。心底傷ついたが強ち間違ってはいなかった。

 また別の時には「インドの田舎を見せてあげる」と優しく声をかけれれホイホイ着いて行った。実際貴重な経験ができた。現地の貧しい人々の暮らしを初めて目の当たりにして衝撃を受けた。「僕は、今、まさに世界の貧困の中にいる。」国際ジャーナリスト気取りだった。しかし・・・!
村から戻ってくると、またしても、宝石屋に連れて行かれた。そこでは十人ぐらいの人々に囲まれた。笑顔はなかった。そして「これはお前のものだ」と言うかのように、宝石をポンと手渡されて買わされそうになった。具体的にいくらだったか忘れたが、それを買ったら旅行自体に支障が出るほどの高額だった。
 咄嗟に僕は全速力で走り出した、ひたすら逃げた。目に涙を浮かべていた。しかし後ろを振り返ると優しかったはずの彼と他数名が追いかけてくる。やばいと思い、通りかかったバイクリクシャーに飛び乗った。
「一番近くのいいホテルまで連れてって!」
到着したホテルはかなり高級なホテル。必死な様相で駆け込んだ僕は、おしゃれな西洋人客たちの冷たい眼差しを浴びた。もう耐えられなかった。翌日、ホテルの人に駅(電車に乗るホーム)までエスコートしてもらい、その地を後にした。「もうこんな場所には二度と来ない!」と固く誓った。ちなみにそこはタージマハルで有名なアーグラー。タージマハルを見ずにアーグラーを去る外国人観光客など僕以外にいるのだろうか。もう立ち直れないほどに心は落ちた。

インドで出会った数少ない日本人も変だった。“荷物が漁られていた事件”を受けて「もう日本人しか信じられない」と方向転換。日本人を探した。日が暮れる頃に2人組の日本人を発見!一緒に泊まることを許された。僕より一個上の "MARCH" の大学生。嬉しかった。
夕食の後。彼らは「ちょっと行ってくる」と突然路上のインド人と話し始めた。そして買ってきたのが“ハシシ”(大麻の一種)。部屋に戻ってくると廊下の右と左をさっと見回した後部屋の鍵をガチャリと閉めた。「ヤバイ」と背筋を冷たい汗が伝った。この時点で警察が来たら僕も同罪として連行されたかもしれない。僕はそこでかろうじて吸わずに、彼らをじっと観察した。彼らがだんだん気持ち良くなって“宇宙に飛んでいくのを”黙って見つめるしかなかった。「逃げたい」と思ったが、その勇気もでなかった。彼らはそれが目当てでインドに来たと言った。翌朝早くに別れを告げた。

ある時には、髭ボウボウの20代であろう男が近づいてきて関西弁で「お前日本人か」と聞いてきた。「そうです。」と丁寧に答えると:
「お前いいこと教えたるで。ここにいる日本人は変態か変人や。俺もお前もや。お前変態や!」 大声でがなり立て歩き去っていった。カオス。

インドでは慢性的にお腹を壊していた。旅行者にはよくあることだが、水やストリートフードの影響かもしれない。心身ともに消耗しきっていた。

 バラナシという聖地でガンジス川のほとりに一人寂しく座り込み川に沈む夕日を見ながら、疲れが極限に達した。あれほど外国に憧れた僕が「もう二度と外国には行かない」と心に誓った(笑)。でも、帰国の飛行機までまだ2週間も残っていた。

ふと横に視線を向けると、明らかに日本人っぽい女性がいた。声をかけると卒業旅行中の日本学生。しかも某一流大学生だった。見た感じも、聞いた就職先もまともな人。インドに行って初めて会った、“普通”の日本人。感動した。
彼女とは意気投合。数日間一緒に旅行した。楽しかった。あまりに楽しすぎて、二度と来ないと誓ったインドまでもが再び好きになってしまう程だった。
ゲストハウスのお金を節約するために、一緒の部屋に泊まり、夜通し語り合った。ガンジス川のほとりで丸2日間話し通した。今まで心にたまっていたことをすべて母語で掃き出し気分爽快。ついでに言えばその女性に恋をした。その恋心を明かすことのないまま、彼女とは別れ、喪失感があったが、彼女は私のその後の人生に大きな影響を与えることとなる提案をした。
「そんなにインドに疲れたのなら、ネパールに行けば。ネパールはここよりずっと静かで落ち着いているよ。私はインドよりネパールの方がずっと好き。」
彼女はネパールを旅した後にインドに来ていたのだ。この一言がなければ、僕がそこからネパールに向かうことはなかった。
(余談になるが、あの時ネパールに行っていなければ、その19年後に、学生を連れてネパールに研修に行くこともなかったし、ネパールと日本の架橋となる活動に夢中になることもなかった。まさに運命の出会いである。)
 陸路でのネパールへの12日の旅は過酷だった。最大の問題は下痢。トイレに行く度にバスを無理やりに止め顰蹙を買った。苦しみ抜いて到着した地は、“ポカラ”。聞きなれない地名だ。(まさか、ずっと後にこの地に暮らすことになるとは何とも奇遇だ)。
 夜に安宿に着いて、とにかく寝た。近くにトイレがあることの安心感からか、熟睡した。
翌朝、ゲストハウスの方から「お腹を壊していてもご飯ぐらい食べた方がいいよ」と声を掛けられ、はしごのような階段で屋上に上がった。コトバを失った。眼前に広がる壮大なヒマラヤ山脈。
 鳥肌が立った。あの時の気持ちは到底言葉にはできない。僕の心にだけある一生の宝となる景色。“ネパールはヒマラヤの国”、そんな基本情報すら僕の頭からは抜け落ちていた。

 ポカラに行ったのはバラナシからバスで行けるネパールの都市という、安易な理由だった。今から30年前のポカラは、今と違い何も無い地域だった。赤土だけが広がっている大地。
 ネパールのホテルに着いたものの、僕は下痢に苦しめられてただ休んでいた。近くの医者に毎日自転車で通った。見かける外国人はほぼすべて登山客。ポカラはヒマラヤの玄関口という異名を持っていた。 

-3-
ある日ネパールで二人の日本人に出会った。一人は秋田大学の医学部生、もう一人は上智大学の神学部の学生。二人はエベレスト・ベースキャンプの帰りだった。
 実はその頃、僕にお金不足問題が発生していた。インドとネパール移動中、財布の入った荷物をトイレに置き忘れてしまったのだ(お金は数か所に分けて所持していた)。
医学部の彼は僕の状態を見て、ポカラから首都カトマンズまでは飛行機で行った方がいいと提案した。「その状態でバスで十数時間は無理だよ。」
 しかし飛行機は非常に高額、僕の懐状態では無理だった。すると、何とお二人が100ドルずつお金を貸してくれた。実は医学部生の彼のご実家は新潟大学のすぐ近く、紙切れに住所を書き「帰国後にこの住所に行って親に渡して」と言って、僕の元を去った。神だと思った。
 約100ドルの航空券でカトマンズに移動。バスだといくつもの峠を越えての10時間が飛行機だとわずか25分。富む人と平民との差を学んだ。
 本来インドから帰国するはずだったがネパールからの便に変えた。それが可能な航空券だったが、変更の手続きが必要だった。カトマンズの旅行会社で無事手続きを終えていよいよ帰国の途に着いた。ようやく日本に帰れる。日本食、アパートの快適な水洗トイレ、そして日本語。夢は広がった。しかし・・・!
経由地バンコクでまさかの事態、飛行機の席が予約されていなかった。「そんなはずはない」とカトマンズの旅行会社で受け取った紙を見せるが相手にしてもらえない。そのまま僕はタイに入国するはめになった。「呪われている」とすら思った。

翌朝僕はエジプト航空のオフィスに行き事情を話した。すると直近でチケットが取れるのは一週間後。それでは新学期にも間に合わないしその前にお金が尽きる。引き下がるわけにはいかずオフィスに居座った。社員の目を引こうと、ひたすら悲しそうな途方に暮れた表情で必死にアピールした。数時間後、見かねたやさしい女性スタッフが周囲と何やら話した後に僕の元に来て囁いた。
100ドル払えばファーストクラスの席が一つだけ空いているよ。」
「ファーストクラス!!」
この旅は最後の最後まで無茶苦茶だった。僕はポカラで「神」から授かった100ドルを払い、人生後にも先にも初のファーストクラスで、超快適な飛行機の帰国旅をした。もっとも、離陸するや否や疲れで爆睡してしまい、ファーストクラスならではのサービスを一つも経験することはできなかったが。

                                                        ―後日談―

100ドルを借りた秋田大学医学部生話に戻る。帰国後僕は、恩人に大変な非礼を犯してしまった。帰国する際のゴタゴタで彼の連絡先を書いたメモをなくしてしまったのだ。電話帳で彼の苗字を検索し、上から順番に電話をかけ始めた。
しかし、事情を説明するのには時間がかかる、途中で不信がられて切られた。早々に気持ちが萎え、電話をかけるのを諦めてしまった。お金を返さぬまま月日は流れた。無礼者。
数年後、僕は今の妻のドイツ人とつきあい始めた。ある日彼女は言った。
「私がとてもお世話になっている(日本人)お医者さん夫婦に、ボーイフレンドができたなら是非連れて来なさいって。」
言われるがままについて行った。奥様は、僕のインド・ネパールでの体験談に耳を傾けると笑顔で言った。
「奇遇ね!私の息子も同じ頃にネパールに行っていたわよ」
見せてくれたアルバムの中には、なんとあの医学部生と僕がいた。
「やばい!」
 凍り付いた。

 翌日に100ドル相当の日本円を持ってお宅を伺ったことは言うまでもない。程なくして恩人医学生とも再会を果たした。ひたすら謝罪した。



2020年5月3日日曜日

関昭典教授 私の履歴書#6 大学一年生


 1988年4月、晴れて(?)新潟大学教育学部中学校教員養成課程英語科に合格して、一人暮らしすることになった。入れ違いに、同大学4年生だった兄が卒業した。兄は僕が新潟市に引っ越すまでに、アパートの契約手続きを終え、自分が使っていた家具を運びこんでくれていた。兄が4年間暮らしたアパートを引き継ぐ選択肢もあったがそうはならなかった(理由は覚えていない)。3月下旬、僕は父母に連れられて新潟市に引っ越した。家具を伴わない引っ越しだったので自家用車での移動。新潟市に到着し、目に入ったケンタッキーフライドチキンのお店に思わず(心の中で)ガッツポーズ(笑)。都会に出てきた喜びを噛み締めた。

 アパートに到着、ドキドキしながら部屋の中に足を踏み入れた。そこには・・・。兄が四年間使い全体的に薄汚れた家具が無造作に置かれていた。本棚を触ると何か、ねちょっとしていた。「昭典の気持ちも少しは考えて上げなさいよ」と兄を諭しながら涙する母の姿が懐かしい。母は本当に心優しい人だ。

 家具には少し思うところがあったが、兄が借りてくれたアパートの立地は良好だった。いや良好すぎた。なんせ大学の裏門の真ん前。驚きの近さ。その立地ゆえ、入学後間もなくして僕の部屋は悪友たちの溜まり場と化してしまった。

初めての一人暮らしだったが、ホームシックとは無縁。ワクワクが胸中を占めていた。念願の、“越後山脈の向こうの世界に行きたい”という熱望がついに叶ったのだ。感動しかなかった。
現在、私は大学で「異文化コミュニケーション」の授業を担当しているが、そこでも使えそうな題材がここでも溢れていた。
田舎者の私が一番驚いたのは水洗トイレ。「ぼっとん便所じゃない!水が流せる!」。物心ついた頃から、自分のみならず家族や他人の「う〇〇」を便器の真下に見続けて来た者にとって、出した数分後には「水とともに消えていく」装置に目を見張った(今の学生とは感動を共有できないのでこの話題を持ち出すことは一切ない)。

 中学校教員養成課程英語科の定員はわずか11人。新潟大学の中でも難関学科だった。僕以外のクラスメートは新潟県内外の屈指の進学校出身者ばかり。新潟高校・新潟南高校・(群馬)前橋高校など。しかも浪人生は私と長岡高校出身の2名のみ。都会の名門校出のクラスメートに囲まれ、「この中で水洗トイレに感動している田舎者は僕だけだろうな」と感慨深かった。

 僕にとっては大都会でも、新潟大学は新潟市の中では辺境にあった。新潟駅からバスで1時間揺られてようやく着く、日本海まで徒歩で行ける広大なキャンパス。関東の人のイメージでは筑波大学に近いだろう。 ちなみ当時、新潟大学と筑波大学と、あともう一つの大学は学生の自殺率が高いと噂になっていた。人里離れた環境での一人暮らしで、隔離・分断された孤独感がその理由だと言われていた。実際、私が学んだ学部棟からも在学中に学生が飛び降り、生々しいものを目撃した。

 入学するまでの僕は、“大学での生活”に大きな希望を仮託していた。しかし授業履修表一覧を見て幻滅。何しろ大学らしい講義が始まるかと思って蓋を開けてみたら、数学・物理・音楽・体育、、、と並ぶ中学校のような科目群。「なんじゃこりゃー」「僕は間違えて中学校にでも来てしまったのか!?」と困惑した。
 当時の多くの大学では1年次に一般教養を学び、2年生以降で専門科目に専念するカリキュラムが組まれていた。

 だが、そのような大学のシステムを理解していなかった無知のせいか、僕は大学とはひたすら社会や理科など高校の授業を延長するものなのかと勘違いして絶望。(おそらく都会に出てきたことで浮ついていて、新入生オリエンテーションで話しを聞いていなかったか欠席したかどちらかの可能性が高い。)
 もちろん今振り返って考えてみれば、学部教育1年時に教養知識を身につけた後に専門の科目を学ぶことの意義はよく理解できる。アメリカの名門大学では今でも学部時代の4年間、すべて教養科目を講じることすら珍しくない。しかし、当時はそんなことまで思い至らず、ただひたすらに絶望していた。

僕のモチベーション低下に拍車をかけたのが、微塵も教える気を感じない教養科目の先生方(あくまでも当時の堕落した一学生の主観と偏見です)。例えば高校と同じ規模の教室で受講した〇学の授業。教授は誰にも聞き取れないほど小さな声で90分間ひたすらボソボソ呟きながら黒板に数式を書き殴って、チャイムが鳴ると去っていった。意味がわからなすぎて唖然とした。そこに90分間じっと座っている自分を許せない気持ちにすらなった。例えば超大教室で開講された〇〇学の授業では、一週目は満員、二週目以降はがらがらだった。通常時の東京の満員電車と、今のコロナ緊急事態宣言時の乗車率数パーセントの新幹線の違いと言えばわかりやすい。入学してかなり早い段階で、様々な科目について「この科目は毎年試験問題が同じで、模範解答は先輩がお手頃価格で売っている」と情報が回ってきた。そんな毎年試験問題“科目はいくつもあった。 
 当時思ったことを正直に書く。私が大学一年次の4月に見た先生たちの多くは、教え方を知らないか、授業への興味がないか、もしくは本気を出していなかった。私の“やる気”を奪う授業のオンパレードに唖然。大学の教員は教員免許が必要はないと知ったのはしばらく後の話だ。
授業開始数週間後には「大学教授とは所詮こんなものか」と僕はある意味見下すようになった。「研究のために大学にいるだけで、学生育成には関心がないのだろうな」と。

 そういうわけで、大学一年次、必修科目も含めて週に平均2コマ程度しか出席しなかったと記憶している。半期で20単位前後履修することを考えると、5分の4の授業には出席していなかった計算になる。あの頃の僕は、我がことながら頭を抱えたくなるほどとんでもなかった。それでも留年せずに2年生になれたことが、いろんな意味であり得ない。(当時は1年次必要単位数を取得できなければ2年には上がれなかった)。詳細は省く。 これほどの堕落した一般教養教育学生だった人間が、今勤務する大学で教養教育の要となる「全学共通教育センター長」をしていることは奇跡を超えている。

大学の授業をサボりまくっていた僕には時間がたっぷりあった。暇を持て余した僕はサークルとアルバイトに没頭した。アルバイトを始めた動機には「大学の授業なんてあてにできない。お金を貯めて海外に行く」というモチベーションがあった。何よりも、インドネシアでの体験のインパクト(「私の履歴書3」参照)が大きく、もっと世界を見たかった。

 サークルを作るきっかけとなったのは夜中の長電話だ。授業に出ないので朝早く起きる必要もない。夜通し友人と電話で話しているうちに、暇だからみんなで集まれるサークルを作ろうという話になった。夜な夜な話してできたのが「ピクニック愛好会」。謎の団体だ。しかしチラシを作って適当に配っていたら想像以上に人が集まった。"類は友を呼ぶ"当時の僕と同じように、「何をすればいいかわからない、充実していなくて時間だけはある」という人たちが続々と集まった。おおらかで面白く、頭のいい人たちが多かった。

 新潟大学は郊外の田舎にあるので、(首都圏の大学と違って)大学が終わった後も遊びに行く場所がない。授業が終わった後も、できることといえば、大学に残って話すことだけ。僕らは大きな食堂の一角を占拠して、一日中喋っていた。食堂に行けば必ずピクニック愛好会の人達がいた。サークルには超進学校出身の人たちが少なくなく、授業に出ていない僕は彼らに頼り切りだった。なぜか彼らは僕のことを最大限応援してくれ、そのおかげで僕は1年次を乗り切った(最低の堕落学生と言える)。

 サークルの次はアルバイト。 大学の一般教養に見切りをつけた僕は「大学の授業で学べることはゼロ」と宣言(笑)。目標を年度末の海外旅行に定めアルバイトを開始した。

 一つ目のアルバイトは家庭教師だ。紹介された生徒(中学生)のところに行って一日で確信。「彼は全く勉強に向いていない」。地頭云々ではなく、勉強に関して関心が一切無かったのだ。家庭教師の担当の時間の2時間、普通に授業をし続けても彼の頭の中には何一つ残らないと判断。保護者の方の許可を得てまず彼の心を開くことを優先した。休憩中に一緒にゲームをしたり、おしゃべりしたりしているうちに、彼はぼそぼそと悩みを打ち明けてくれるようになった。学校生活とか家族関係とか将来の不安。思春期特有の話題。

 ある日彼は家出をした。心配した母親から電話が来た。しかし僕にできることは何もなかった。
 と、僕のアパートのチャイムがなり、彼がドアの前にいた。「家出してきました。」と一言。彼との信頼関係を確信した瞬間だった(彼はその日だけ泊めてあげて翌日帰宅した)。ついには、「先生、俺宿題やったよ!」と、自宅学習もしてくれるほどに。家庭教師を受け持った当初は2時間机の前に座り続けることすら困難だったことを考慮すれば大きな進歩。頭ごなしに勉強させるのではなく、生徒と信頼関係を構築したことで、初めて成し得た成果だった。

 しかし、、、。残念ながら彼の母親はそうは思っていなかったようだ。彼とゲームをしたりおしゃべりしたりをしていることにより蓄積した不満が爆発。彼の受験が近づいた頃、突然解任された(クビ)。彼の成績不振が原因だった。だが、この生徒の心を開くことに成功した経験はのちに教師となった時にとても生きることになる。

 二つ目はコンサート補助のアルバイト。生まれてから一度もコンサートに行ったことがなかった僕が初めて行ったコンサートは、このアルバイトの勤務。なんと松任谷由実。しかも幸運なことに、勤務場所は最前列のさらに前。熱狂した観客がステージまで押し寄せないように監視する警備員だ。ステージに背を向けて観客を監視。ユーミンの方を見ることは許されない。だが、コンサート初体験の僕は興奮が止まらなかった。都会を感じた。もちろん、背中越しのユーミンはさらにすごかった。予備校の英語教師太先生(「私の履歴書5」参照)同様、いやそれ以上の「プロ」を感じ鳥肌が立った。本気でオーディエンスを喜ばそうとしているし、自分の100パーセントを出している。「この人は人生をかけてやっている」と直感した。(あの時のユーミンの姿勢はその後の僕の行動指針となった)。あまりの感動にアンコールでオーディエンスと一緒に僕もアンコール。僕は勤務中であることを忘れてしまっていた。最後の歌は「卒業写真」。超超感動して、目に涙が浮かび夢中になって拍手していた。

 コンサート後、担当者に呼ばれてその日のうちにクビになった。雇い主の「ふざけんな」という気持ちはよく理解できたので、「ありがとうございます!」と言って潔くやめた。クビになった悔しさよりもユーミンに出会せてくれた感謝の念の方が大きかった。

 その次にやったのは添乗員のアルバイト。中高の修学旅行や、年配者対象の温泉旅行などに同行サポートする仕事だ。あの当時はバブル景気真っただ中でどの会社も人出不足だった。今の添乗員は専門の資格を持った人のみしか勤務できないのだが、あの頃は様相が違った。僕のような資格も何もない大学1年生がプロを偽って添乗員として雇われていたのだ。アルバイトの採用が決まった後、社員さんが一言「大学生のアルバイトが添乗員をしているということは体面上良くない。新卒の社員として振る舞ってくれ」と。「東京の大学出の方が受けがよいから、お前の好きな大学を言ってみろ」というので当時僕が憧れていた上品な「上智大学」と即答した。

 上智大学文学部英文学科の新入社員。それが添乗員時代の僕の肩書きだった。名刺も作ってもらった。出身は東京都練馬区徳丸(受験のときに泊めてもらった親戚の住所)。まるでどこかの国の工作員のようだ。高校の修学旅行に何度も添乗したし、郵便貯金主催旅行の添乗もした。全国各地を回った。確か日給7000円。お客さんよりも前に起き、深夜まで働く激務だった。

 社会経験がなかった僕は色々と間抜けなミスをした。
 当記事の読者は仲居さんとは何か知っているだろう。温泉などでお客様を案内する役割の人だ。だが、社会人経験のなかった当時の私は、「中居さん呼んできて」と言われ、何を思ったのか「中井さん」という苗字の人がいると思った。「中井さんはどこにいらっしゃいますか」と仲居さんを探した。対応した仲居さんに「ここにいる人はみんな仲居さんですけど」と言われ、「えっ、みんな同じ苗字なの!?」と的外れにびっくり。バカみたいな本当の話だ。

 大学生ながら新卒社会人の振りをしていた添乗員のアルバイトだが、ある時ついにバレた。今思えば、Yシャツの下にミッキーの柄物のTシャツを着て勤務しているくらい社会常識がなかった。所作からして疑われる要素は多々あった。新発田市の高校の修学旅行に添乗員として広島、神戸を随伴していた時のことだ。隣に座った学校付きカメラマンの人は顔合わせした直後から僕の素性をどうも怪しんでいたようだ。修学旅行中3時間のバス移動の際に隣に座り、詳しく「尋問」され、逃げ場もなく嘘がばれた。そんなこんなで僕は添乗員のアルバイトをクビになった。

 同時にスーパーのアルバイトもしていた。当時地元で最も評価の高いスーパー。試験に合格して始めた。時給907円という賃金は当時の新潟の時給ではとても高額だった。が、ここでもやらかした。年末などの繁忙期になると、レジは死にそうなくらい忙しくなった。今と違ってスキャンではなく、商品ごとにボタンを押してレジスターの処理を担当した。特に面倒だったのがお惣菜の扱い。それぞれのお惣菜ごとに該当するボタンを複数選択するのがとても面倒だった。
大晦日。長蛇の列に強いプレッシャーを感じ捌くのに疲れ果ててしまった僕は(短時間ではあるが)とんでもない愚行を犯した。「いちいちお惣菜ごとにボタンを選ぶのがめんどうすぎる。お客様ファースト。一番安い値段を打つ」。面倒くさくなった僕はすべての惣菜を一番安いボタンで連打。当然バレてひどく怒られた。その店唯一の学生バイトで可愛がられていたので叱責で済んだが、これが2020年のバイト生ならばただでは済まないであろう。

週3~4回と冬休みのすべてを捧げたこのアルバイトには問題があった。春休み全期間離脱は許されなかったのだ。このまま続けるとお金は貯まっても春休みに長期海外旅行に行けない。これでは本末転倒だ。いくら頼んでも許可が下りなかったので最後の手段、 「これ以上成績が悪くなると親に仕送りを止められるので勉強に専念します」そう言ってアルバイトを辞めた。 親に仕送りを止められるという話はアルバイトを辞めるための嘘だった。
全体的にあまりにもダメすぎる大学一年生だった。