2020年5月3日日曜日

関昭典教授 私の履歴書#6 大学一年生


 1988年4月、晴れて(?)新潟大学教育学部中学校教員養成課程英語科に合格して、一人暮らしすることになった。入れ違いに、同大学4年生だった兄が卒業した。兄は僕が新潟市に引っ越すまでに、アパートの契約手続きを終え、自分が使っていた家具を運びこんでくれていた。兄が4年間暮らしたアパートを引き継ぐ選択肢もあったがそうはならなかった(理由は覚えていない)。3月下旬、僕は父母に連れられて新潟市に引っ越した。家具を伴わない引っ越しだったので自家用車での移動。新潟市に到着し、目に入ったケンタッキーフライドチキンのお店に思わず(心の中で)ガッツポーズ(笑)。都会に出てきた喜びを噛み締めた。

 アパートに到着、ドキドキしながら部屋の中に足を踏み入れた。そこには・・・。兄が四年間使い全体的に薄汚れた家具が無造作に置かれていた。本棚を触ると何か、ねちょっとしていた。「昭典の気持ちも少しは考えて上げなさいよ」と兄を諭しながら涙する母の姿が懐かしい。母は本当に心優しい人だ。

 家具には少し思うところがあったが、兄が借りてくれたアパートの立地は良好だった。いや良好すぎた。なんせ大学の裏門の真ん前。驚きの近さ。その立地ゆえ、入学後間もなくして僕の部屋は悪友たちの溜まり場と化してしまった。

初めての一人暮らしだったが、ホームシックとは無縁。ワクワクが胸中を占めていた。念願の、“越後山脈の向こうの世界に行きたい”という熱望がついに叶ったのだ。感動しかなかった。
現在、私は大学で「異文化コミュニケーション」の授業を担当しているが、そこでも使えそうな題材がここでも溢れていた。
田舎者の私が一番驚いたのは水洗トイレ。「ぼっとん便所じゃない!水が流せる!」。物心ついた頃から、自分のみならず家族や他人の「う〇〇」を便器の真下に見続けて来た者にとって、出した数分後には「水とともに消えていく」装置に目を見張った(今の学生とは感動を共有できないのでこの話題を持ち出すことは一切ない)。

 中学校教員養成課程英語科の定員はわずか11人。新潟大学の中でも難関学科だった。僕以外のクラスメートは新潟県内外の屈指の進学校出身者ばかり。新潟高校・新潟南高校・(群馬)前橋高校など。しかも浪人生は私と長岡高校出身の2名のみ。都会の名門校出のクラスメートに囲まれ、「この中で水洗トイレに感動している田舎者は僕だけだろうな」と感慨深かった。

 僕にとっては大都会でも、新潟大学は新潟市の中では辺境にあった。新潟駅からバスで1時間揺られてようやく着く、日本海まで徒歩で行ける広大なキャンパス。関東の人のイメージでは筑波大学に近いだろう。 ちなみ当時、新潟大学と筑波大学と、あともう一つの大学は学生の自殺率が高いと噂になっていた。人里離れた環境での一人暮らしで、隔離・分断された孤独感がその理由だと言われていた。実際、私が学んだ学部棟からも在学中に学生が飛び降り、生々しいものを目撃した。

 入学するまでの僕は、“大学での生活”に大きな希望を仮託していた。しかし授業履修表一覧を見て幻滅。何しろ大学らしい講義が始まるかと思って蓋を開けてみたら、数学・物理・音楽・体育、、、と並ぶ中学校のような科目群。「なんじゃこりゃー」「僕は間違えて中学校にでも来てしまったのか!?」と困惑した。
 当時の多くの大学では1年次に一般教養を学び、2年生以降で専門科目に専念するカリキュラムが組まれていた。

 だが、そのような大学のシステムを理解していなかった無知のせいか、僕は大学とはひたすら社会や理科など高校の授業を延長するものなのかと勘違いして絶望。(おそらく都会に出てきたことで浮ついていて、新入生オリエンテーションで話しを聞いていなかったか欠席したかどちらかの可能性が高い。)
 もちろん今振り返って考えてみれば、学部教育1年時に教養知識を身につけた後に専門の科目を学ぶことの意義はよく理解できる。アメリカの名門大学では今でも学部時代の4年間、すべて教養科目を講じることすら珍しくない。しかし、当時はそんなことまで思い至らず、ただひたすらに絶望していた。

僕のモチベーション低下に拍車をかけたのが、微塵も教える気を感じない教養科目の先生方(あくまでも当時の堕落した一学生の主観と偏見です)。例えば高校と同じ規模の教室で受講した〇学の授業。教授は誰にも聞き取れないほど小さな声で90分間ひたすらボソボソ呟きながら黒板に数式を書き殴って、チャイムが鳴ると去っていった。意味がわからなすぎて唖然とした。そこに90分間じっと座っている自分を許せない気持ちにすらなった。例えば超大教室で開講された〇〇学の授業では、一週目は満員、二週目以降はがらがらだった。通常時の東京の満員電車と、今のコロナ緊急事態宣言時の乗車率数パーセントの新幹線の違いと言えばわかりやすい。入学してかなり早い段階で、様々な科目について「この科目は毎年試験問題が同じで、模範解答は先輩がお手頃価格で売っている」と情報が回ってきた。そんな毎年試験問題“科目はいくつもあった。 
 当時思ったことを正直に書く。私が大学一年次の4月に見た先生たちの多くは、教え方を知らないか、授業への興味がないか、もしくは本気を出していなかった。私の“やる気”を奪う授業のオンパレードに唖然。大学の教員は教員免許が必要はないと知ったのはしばらく後の話だ。
授業開始数週間後には「大学教授とは所詮こんなものか」と僕はある意味見下すようになった。「研究のために大学にいるだけで、学生育成には関心がないのだろうな」と。

 そういうわけで、大学一年次、必修科目も含めて週に平均2コマ程度しか出席しなかったと記憶している。半期で20単位前後履修することを考えると、5分の4の授業には出席していなかった計算になる。あの頃の僕は、我がことながら頭を抱えたくなるほどとんでもなかった。それでも留年せずに2年生になれたことが、いろんな意味であり得ない。(当時は1年次必要単位数を取得できなければ2年には上がれなかった)。詳細は省く。 これほどの堕落した一般教養教育学生だった人間が、今勤務する大学で教養教育の要となる「全学共通教育センター長」をしていることは奇跡を超えている。

大学の授業をサボりまくっていた僕には時間がたっぷりあった。暇を持て余した僕はサークルとアルバイトに没頭した。アルバイトを始めた動機には「大学の授業なんてあてにできない。お金を貯めて海外に行く」というモチベーションがあった。何よりも、インドネシアでの体験のインパクト(「私の履歴書3」参照)が大きく、もっと世界を見たかった。

 サークルを作るきっかけとなったのは夜中の長電話だ。授業に出ないので朝早く起きる必要もない。夜通し友人と電話で話しているうちに、暇だからみんなで集まれるサークルを作ろうという話になった。夜な夜な話してできたのが「ピクニック愛好会」。謎の団体だ。しかしチラシを作って適当に配っていたら想像以上に人が集まった。"類は友を呼ぶ"当時の僕と同じように、「何をすればいいかわからない、充実していなくて時間だけはある」という人たちが続々と集まった。おおらかで面白く、頭のいい人たちが多かった。

 新潟大学は郊外の田舎にあるので、(首都圏の大学と違って)大学が終わった後も遊びに行く場所がない。授業が終わった後も、できることといえば、大学に残って話すことだけ。僕らは大きな食堂の一角を占拠して、一日中喋っていた。食堂に行けば必ずピクニック愛好会の人達がいた。サークルには超進学校出身の人たちが少なくなく、授業に出ていない僕は彼らに頼り切りだった。なぜか彼らは僕のことを最大限応援してくれ、そのおかげで僕は1年次を乗り切った(最低の堕落学生と言える)。

 サークルの次はアルバイト。 大学の一般教養に見切りをつけた僕は「大学の授業で学べることはゼロ」と宣言(笑)。目標を年度末の海外旅行に定めアルバイトを開始した。

 一つ目のアルバイトは家庭教師だ。紹介された生徒(中学生)のところに行って一日で確信。「彼は全く勉強に向いていない」。地頭云々ではなく、勉強に関して関心が一切無かったのだ。家庭教師の担当の時間の2時間、普通に授業をし続けても彼の頭の中には何一つ残らないと判断。保護者の方の許可を得てまず彼の心を開くことを優先した。休憩中に一緒にゲームをしたり、おしゃべりしたりしているうちに、彼はぼそぼそと悩みを打ち明けてくれるようになった。学校生活とか家族関係とか将来の不安。思春期特有の話題。

 ある日彼は家出をした。心配した母親から電話が来た。しかし僕にできることは何もなかった。
 と、僕のアパートのチャイムがなり、彼がドアの前にいた。「家出してきました。」と一言。彼との信頼関係を確信した瞬間だった(彼はその日だけ泊めてあげて翌日帰宅した)。ついには、「先生、俺宿題やったよ!」と、自宅学習もしてくれるほどに。家庭教師を受け持った当初は2時間机の前に座り続けることすら困難だったことを考慮すれば大きな進歩。頭ごなしに勉強させるのではなく、生徒と信頼関係を構築したことで、初めて成し得た成果だった。

 しかし、、、。残念ながら彼の母親はそうは思っていなかったようだ。彼とゲームをしたりおしゃべりしたりをしていることにより蓄積した不満が爆発。彼の受験が近づいた頃、突然解任された(クビ)。彼の成績不振が原因だった。だが、この生徒の心を開くことに成功した経験はのちに教師となった時にとても生きることになる。

 二つ目はコンサート補助のアルバイト。生まれてから一度もコンサートに行ったことがなかった僕が初めて行ったコンサートは、このアルバイトの勤務。なんと松任谷由実。しかも幸運なことに、勤務場所は最前列のさらに前。熱狂した観客がステージまで押し寄せないように監視する警備員だ。ステージに背を向けて観客を監視。ユーミンの方を見ることは許されない。だが、コンサート初体験の僕は興奮が止まらなかった。都会を感じた。もちろん、背中越しのユーミンはさらにすごかった。予備校の英語教師太先生(「私の履歴書5」参照)同様、いやそれ以上の「プロ」を感じ鳥肌が立った。本気でオーディエンスを喜ばそうとしているし、自分の100パーセントを出している。「この人は人生をかけてやっている」と直感した。(あの時のユーミンの姿勢はその後の僕の行動指針となった)。あまりの感動にアンコールでオーディエンスと一緒に僕もアンコール。僕は勤務中であることを忘れてしまっていた。最後の歌は「卒業写真」。超超感動して、目に涙が浮かび夢中になって拍手していた。

 コンサート後、担当者に呼ばれてその日のうちにクビになった。雇い主の「ふざけんな」という気持ちはよく理解できたので、「ありがとうございます!」と言って潔くやめた。クビになった悔しさよりもユーミンに出会せてくれた感謝の念の方が大きかった。

 その次にやったのは添乗員のアルバイト。中高の修学旅行や、年配者対象の温泉旅行などに同行サポートする仕事だ。あの当時はバブル景気真っただ中でどの会社も人出不足だった。今の添乗員は専門の資格を持った人のみしか勤務できないのだが、あの頃は様相が違った。僕のような資格も何もない大学1年生がプロを偽って添乗員として雇われていたのだ。アルバイトの採用が決まった後、社員さんが一言「大学生のアルバイトが添乗員をしているということは体面上良くない。新卒の社員として振る舞ってくれ」と。「東京の大学出の方が受けがよいから、お前の好きな大学を言ってみろ」というので当時僕が憧れていた上品な「上智大学」と即答した。

 上智大学文学部英文学科の新入社員。それが添乗員時代の僕の肩書きだった。名刺も作ってもらった。出身は東京都練馬区徳丸(受験のときに泊めてもらった親戚の住所)。まるでどこかの国の工作員のようだ。高校の修学旅行に何度も添乗したし、郵便貯金主催旅行の添乗もした。全国各地を回った。確か日給7000円。お客さんよりも前に起き、深夜まで働く激務だった。

 社会経験がなかった僕は色々と間抜けなミスをした。
 当記事の読者は仲居さんとは何か知っているだろう。温泉などでお客様を案内する役割の人だ。だが、社会人経験のなかった当時の私は、「中居さん呼んできて」と言われ、何を思ったのか「中井さん」という苗字の人がいると思った。「中井さんはどこにいらっしゃいますか」と仲居さんを探した。対応した仲居さんに「ここにいる人はみんな仲居さんですけど」と言われ、「えっ、みんな同じ苗字なの!?」と的外れにびっくり。バカみたいな本当の話だ。

 大学生ながら新卒社会人の振りをしていた添乗員のアルバイトだが、ある時ついにバレた。今思えば、Yシャツの下にミッキーの柄物のTシャツを着て勤務しているくらい社会常識がなかった。所作からして疑われる要素は多々あった。新発田市の高校の修学旅行に添乗員として広島、神戸を随伴していた時のことだ。隣に座った学校付きカメラマンの人は顔合わせした直後から僕の素性をどうも怪しんでいたようだ。修学旅行中3時間のバス移動の際に隣に座り、詳しく「尋問」され、逃げ場もなく嘘がばれた。そんなこんなで僕は添乗員のアルバイトをクビになった。

 同時にスーパーのアルバイトもしていた。当時地元で最も評価の高いスーパー。試験に合格して始めた。時給907円という賃金は当時の新潟の時給ではとても高額だった。が、ここでもやらかした。年末などの繁忙期になると、レジは死にそうなくらい忙しくなった。今と違ってスキャンではなく、商品ごとにボタンを押してレジスターの処理を担当した。特に面倒だったのがお惣菜の扱い。それぞれのお惣菜ごとに該当するボタンを複数選択するのがとても面倒だった。
大晦日。長蛇の列に強いプレッシャーを感じ捌くのに疲れ果ててしまった僕は(短時間ではあるが)とんでもない愚行を犯した。「いちいちお惣菜ごとにボタンを選ぶのがめんどうすぎる。お客様ファースト。一番安い値段を打つ」。面倒くさくなった僕はすべての惣菜を一番安いボタンで連打。当然バレてひどく怒られた。その店唯一の学生バイトで可愛がられていたので叱責で済んだが、これが2020年のバイト生ならばただでは済まないであろう。

週3~4回と冬休みのすべてを捧げたこのアルバイトには問題があった。春休み全期間離脱は許されなかったのだ。このまま続けるとお金は貯まっても春休みに長期海外旅行に行けない。これでは本末転倒だ。いくら頼んでも許可が下りなかったので最後の手段、 「これ以上成績が悪くなると親に仕送りを止められるので勉強に専念します」そう言ってアルバイトを辞めた。 親に仕送りを止められるという話はアルバイトを辞めるための嘘だった。
全体的にあまりにもダメすぎる大学一年生だった。




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