2020年6月20日土曜日

関昭典教授 私の履歴書#9(モロッコ大事件 大学二年を終えた春休み)

 大学2年生を終えた春休み、その開放感の冷めやらぬうち、僕は飛行機に乗ってモロッコを目指していた。モロッコ、アルジェリア40日間の一人旅・・・のはずだった。

1年生と2年生の間の春休み、意気揚々とインドに出発したものの、散々な目にあってガンジス川のほとりで「もう二度と外国に行かない」と誓ったのはわずか1年前。“喉元過ぎれば熱さを忘れる”ということわざもびっくりするほどの前言撤回ぶりである(「私の履歴書#7」)。人は忘れる生き物なのだ。
モロッコとアルジェリアを目的地に選んだ理由は単純明快。「1年生のときはアジア(インド-ネパール)にいった!次はアフリカだ!・・・そうだな、サハラ砂漠に行こう!」サハラ砂漠の所在地を調べたら、モロッコとアルジェリアに所在。行き先をモロッコ→アルジェリアに即決定した。旅行代を捻出しようとするが、2年生以降の専門科目は忙しかった。以前のように大量のバイトができなかった僕は、生協から15万円借りて旅行代を搾り出した。

日本からモロッコへの直通便は就航していない。アエロフロート航空を利用したロシア経由モロッコ行き。
現在ロシアと呼ばれるその国はまだソビエト連邦“と呼ばれていた。その後19911225日にソ連は崩壊し、ロシアとなる。僕がモロッコに旅たったのはそんな激動の時代だった。

 またしても予定を立てずに行き当たりばったりの旅を決意。「地球の歩き方(モロッコ)」をお守りがわりに握りしめた。今とは違って、日本からはるばるモロッコに行く人は相当に数が少なかった。モロッコはフランスの旧植民地だった歴史的経緯から、フランス人とは都会ではたまに遭遇したが日本人と出会ったのはわずか数名。
 初日に出会った日本人学生は、自転車を日本から運び入国。空港を出るなり、「俺は自転車でアフリカを駆け巡る!」と言って颯爽と消えていった。かっこよかった。

 ところで私はモロッコのカサブランカ空港に到着して早々に大問題に遭遇していた。
まさか初日から絶望の淵に追いやられることになるなど、夢にも思わなかった。

「英語は大事だ!」「英語は世界の共通語」そんな言葉を腐るほど耳にしてきた。中学校の先生も、高校の先生も、大学の先生も、みな口を揃えて英語の大切さを説いた。田舎育ちの僕は、世界に憧れ、「英語さえできれば世界に羽ばたける」と信じて頑張ってきた。音声なし学習の結果、ネイティブのような流暢は備えることはできずとも、しかし日常会話くらいならばできると少し自信を身に着けていた頃だった。何しろ大学の専攻は教員養成課程「英語科」なのだ。日頃の努力を試す絶好の場についた!と意気揚々と飛行機のタラップから降りた・・・。

「え・・・何、これ・・・?」

空港を行き交う人々が話す言葉が微塵も聞き取れない。一言も理解できない。「そんなはずはない」と気合いを入れ直して目をつぶって集中しても、やはり何も理解できない。さらに、絶望して天を仰いだら視界に入った看板の文字すら読めない。なぜだ。
 そこはアラビア語とフランス語の世界だったのだ!
改めて「地球の歩き方」を開いて「言語」のページを必死に探した。
「モロッコの公用語はアラビア語とベルベル語。しかし、旧フランスの植民地であったことからフランス語を使える人も多い。」

 ショックのあまりその場に座り込み、しばらく動くことができなかった。

「言葉のわからない世界にこれから40日間?無理、もう絶対無理。」

英語の標識もなく、意を決して道ゆく人に声をかけても誰も英語が話せない状況。「モロッコに着けばなんとかなる!」という軽いノリでホテルの予約もしていない。必死の思いで空港→市内シャトルバスにたどり着き、カサブランカ市内に到着するも、そこからが大変、何しろHOTELと連呼しても全く通じないのだ。ちなみに、フランス語ではHを発音しないので、(H)OTEL(オテル)と発音する必要があると知ったのは後のことだ。
 午後の景色が綺麗なカサブランカ市内に到着したのに、ホテルの部屋に辿り着いた頃には夜9時を回っていた。高級そうなホテルに行き、そこの英語ができるスタッフに頼み込んで安宿まで連れて行ってもらったのだ。

 ホテルの部屋でリュックを床に置きベッドに倒れこむとどっと力が抜けた。

「帰りたい」

30時間以上かけて新潟からモロッコに到着。地球儀をぐるっと180度回さないとたどり着かない距離を移動してきた。昨年のインドは外国と言っても同じアジア圏。しかしモロッコは遠いアフリカ大陸。なんでこんな遠くまで来てしまったんだ。英語が通じないことくらい調べてから来い、バカ!と自分を責めた。モロッコの通貨DH(ディルハム)と補助通貨である硬貨(サンチーム)の通貨単位すら分かっていなかった。この宿の料金が一体いくらなのかもさっぱりわからない。ぼったくられていないか・・・。
どうしよう、どうしよう・・・そんな不安から、唯一理解できる本(「地球の歩き方(モロッコ)」)のページを意味もなくペラペラと繰っていたら、ページに水滴を見つけた。と、水滴の数が増えてページを濡らした。僕は泣いていたのだ(笑)。
「これから40日間、どうしよう・・・。」
先が思いやられた。

 「サハラ砂漠をみる」という目標はそれから15日後に達成されることになる。その旅路は珍道中・珍事件の連続。途中でまれに遭遇した英語を話せる人は、ほとんどが僕を騙そうとしていた。
 例えば、時計男。金色の時計を見せながら「俺は外国の人と知り合った記念に、お互いの時計を交換したい」。頷きかけた僕の目を見ながら彼は続けた「だが、この時計は高価なものだったから無料じゃ交換できない。900ディルハム(日本円にして約10,000円)でどうだ」僕は交換した。その後は金色の時計をして旅行した。
 「ちょっとうちに来ないか?日本じゃ手に入らない高級なものがあるぞ」。声をかけられたのはモロッコの首都ラバト。卒業旅行中だという京大の学生と公園で語り合っていた時のことだ。「え、まじで?!行く行く!」食い付きそうになった僕の首ねっこを掴んで止めたのは京大の学生。「あいつ騙そうとしてるぞ」そう囁かれた。

 詐欺師に会うのは散々だったが、唯一感謝していることがある。彼らとは英語が通じたのだ。これ以外のモロッコの思い出は、言葉も通じずに黙々と旅行を続けた。電車に乗って、バスに乗って、食事をしている間も黙り続けていた。この時ひたすら書いていた日記は今も手元に残っている。カサブランカ空港から首都ラバトへ。そして迷宮都市フェズへと輸送機関を乗り継いで黙々と移動した。アトラス山脈も電車で越えてマラケシュ、ワルザザート。
 迷宮のように入り組んだ都市構造から命名された、フェズの旧市街地フェズ・エル・バリは世界遺産にも指定されている。そこに行く途中の電車内で10日ぶりに、青年から英語で話しかけられる。「英語で話せる!話が通じる!」と感動。どうやらアメリカ企業に勤めているから英語を話せたらしい。彼にフェズまで案内してもらった。
 「予算は?」と聞かれ、「300500円」と答えると予算通りの宿まで案内してくれた。翌朝、また会う約束をして別れた。翌日に彼は約束通り現れ、モロッコ式のサウナやイスラム色満載の自宅に連れて行ってくれた。そこで互いの将来の夢などまで語り合って、僕はすっかり彼を信じ始めていた。そのまま彼に案内されたのは「地図があっても迷う」「一度入ったら現地人の案内なしじゃ出てこられない」と揶揄される迷宮都市メディナ。幅1km、奥行き2kmほどのこの世界遺産は、かつてイスラム王朝が継ぎ接ぎしながら都市を拡大していった成れの果てだ。
 ぐるぐると色々みた後に、疲れて、カーペット屋さんで座って休むことになった。すると次から次へと6人の英語を話せる現地人らしき人々が現れた。カーペット作りの見学をさせてくれた。フェズの染め物は有名だ。その染めるところやカーペットを織るところを見せられた。空気が変わり始めたのはその後からだった。「1枚くらい買わないか」「日本に持ち帰ったら高く売れるぞ」そんな話を持ちかけられ始めた。「それは話が違うだろ」そう怒って立ち上がろうとする僕をなだめるように、代わる代わる何枚もの感謝状を見せられた。英語、フランス語、日本語・・・様々な言語で書かれた手紙を読み上げながら「ここはモロッコ国王お墨付きのカーペット屋だから他とは違うんだ!」と6人の男に滔々と語り掛けられた。
 洗脳状態とは聞いたことはあるだろうか。後から思い返すとあの時がそうだったのだろう。それから僕は4時間以上も雰囲気的に逃げられない状況の中、ずっとカーペットの良さを訴えられ続けた。頭はクラクラし、気がついたら「いまカーペットを買わなければ損だ」という精神状態になっていた。
 ついには「ここで1万円のカーペットを買ったら日本に帰って11万円で売れる」と謎の確信をするに至り、なんと一本極上物含めて7本購入を決意!合計11万円と言われ、クレジットカードを差し出した(人生初のカード使用)。買ったカーペットは郵送してもらえるという話だった。「これはお前のものだ」とニコニコしながら背中を叩かれ、全部のカーペットの裏に漢字で書いている最中に彼らが大喜びをしていたのを覚えている。この時の僕は、帰国後に儲かると信じて疑わなかった。相当にイカレタ学生だった。
 モロッコでは特別なお祝いにバステラというミートパイのようなものを食べる習慣がある。「一緒に食べよう」と笑顔で誘われ、パーティーが始まった。「お前はいいやつだ!友達だ」パーティーが終わった後、ホテルまで僕を送った後に彼らは言った。「お前はいいやつだからお前が行こうとしているマラケシュまで送っていくよ」。なんて親切と僕はうっとりしていた。
 マラケシュのジャムエルフナ広場まで送ってもらった。その後連れて行かれたのは、一見“普通の家”。だが、入ってみるとライトが薄暗く、中には2~3人の女性たち。彼らが女性たちといちゃつき始めたのを見て、僕は察した。一足先に帰った。
 彼らと一緒にいて不思議だったことがある。「一緒に撮ろう」と誘っても、彼らは写真を撮らせてくれなかったのだ。後から、彼らなりに悪いことをしている自覚があったのだろう。マラケシュを終わった後に誘われた。「ヨーロッパにみんなで旅行しよう。俺たちにはスペインにもポルトガルにも友達がいる」スペインのバルセロナの郵便局に3月21日午後15時に待ち合わせして、そこからポルトガルまで一緒に旅行しよう。結構綿密に計画を立てて、彼らと別れた。

マラケシュからサハラ砂漠まで、また地獄の一人旅が続く。今では観光地となったサハラ砂漠までのルートも、当時は未開の岩地だった。
知っている単語は「私はここに行きたい(Je veux y aller.)」一言のみ。サハラ砂漠の絵を描いて指差しながら、ヒッチハイクを繰り返した。もしあの時ヒッチハイクした相手が悪意ある人物で、僕が消息を絶っても探すことはできなかっただろう。
砂漠と言っても土の種類は一種類ではない。岩石砂漠(マハダ)、礫砂漠(レグ)、など地表によって呼称が異なる。ヒッチハイク中のある夜、いきなり土砂漠の地面に下ろされて一晩過ごしたこともあった。夜の間ずっと狼の遠吠えが聞こえて身を縮こまらせていた。しかし、なぜか食事時になると人が現れ、近くの土壁の家でコトバも通じぬまま食事をご馳走になった。思い返すと、あの人たちは相当に親切だった。

トラックの荷台に30人を超す人々と立ち続けて2~3日、目の前に求めていた形の砂漠が見えてきた。ようやく砂漠都市リッサニに到着したのだ。
眼前に人生初めてのサハラ砂漠が広がっていた。ヨタヨタと砂丘の上まで登った。砂丘の高さは50m、ビルにすれば20階建にも及ぶ。砂漠の砂と日差しの色合いのコントラストに感動した。ピクニック愛好会の友達からなぜか靴下をもらっていたので、その靴下に砂を詰め込んだ。


余談になるが、興奮冷めやらぬうちにホテルに向かう道中で小学生の少年から声をかけられた。流暢なフランス語で話しかけてきて、通じないとわかるとアラビア語、英語と切り替えてアンモナイトの化石を売りつけてきた。しかもその英語が相当に上手い。「どうやって勉強したの」と聞くと、観光客に売るために毎日話しているからと鼻を鳴らして答えた。

砂漠の感動があまりにも大きすぎて、「この感動を誰かと共有したい」と高い国際電話をかけることを決意。ウキウキ気分で受話器を握りしめた。しかし・・・
僕が口を開くより先に聞こえるのは母親の泣き叫ぶ声。「何やっているのあなた!!!!」
僕は何のことだか分からずに混乱。
なんとその頃、実家にはクレジットカード会社から連絡が来ていた。
「落ち着いて聞いてください。息子の関昭典さんはモロッコで“なんらかのアクシデント”に巻き込まれている可能性がとても高いです」
限度額をはるかに超える金額の買い物をしています。なんと金額は110万円!
クレジットカード会社も、カードの使用状況しか分からない。息子が今どんなトラブルに巻き込まれているのか、詳細は分からなかった。息子を心配した親はモロッコ大使館へ連絡したが「個人旅行者だと足取りもつかめません。取り合えず治安は落ち着いている地域ですし、とりあえず息子さんから連絡を待ちましょう」と剣もほろろな対応。
「クレジットカード使用金額110万円」「何かのトラブルに巻き込まれているに違いない」両親の心配の渦中にようやく息子からかかってきた電話が「サハラ砂漠みた!すっげえな!」だったのだ。怒鳴りたくもなるだろう。
心当たりを探って、ふっと気づいた。カーペットを売りつけたフェズの彼らだと。彼らは11万の会計に0を一つ書き足して、110万を請求したのだろう。そう気づくと、カーペットを購入した後の「お前はいいやつだ」という彼らの上機嫌の理由や、一緒に顔が残る写真を撮りたがらなかった理由が思い浮かび始めた。
 砂漠を見て舞い上がった気持ちは、110万のクレジットカードの債務で地まで落ちた。暗闇の中に昂然と輝く月明かりと砂漠のコントラストを、「110万・・・110万・・・」と呟きながら不安な気持ちで茫然と見ていた。
 「大学を辞めるしかないか」。その夜は本気でそこまで落ち込んだ。
 眠れぬ夜を過ごし、「バルセロナで彼らと会って、金を取り戻してやる」そう決意を新たにした。
彼らとマラケシュで別れる時に話した「スペインのバルセロナの郵便局に321日午後15時に待ち合わせしようぜ。ヨーロッパ旅行だ」というセリフを律儀に信じていたのだ。バス、電車、船を乗り継いでスペインに到着。コトバにすると簡単に聞こえるが、ヒッチハイク、ローカルバス、電車を乗り継いでアフリカ大陸最北端にたどり着き、ジブラルタル海峡を船で渡り、ヨーロッパに入ってバルセロナまで。何日かかったことか。
そして、約束の時間。僕は郵便局の前でずっと待った。約束の時間になっても犬1匹現れず、1時間、2時間、3時間と時間は無情にも過ぎていった。結局日が暮れるまで待ったが、誰も現れなかった。
 「終わった・・・。」

 日本について、当時東京の大学院生だった兄が成田空港まで迎えにきてくれた。外国で騙されて110万のカード請求に顔をあげることすらできない僕に、兄は厳しい表情ながらも、久しぶりの日本食とお寿司を奢ってくれたが、何の味もしなかった。

 実家に着くなり土下座した。「本当に申し訳ありません。責任をとって大学辞めて働きます。」
それを聞いて父親は「お前はどこまでバカなんだ」と嘆息。2日間話し合った末に、大学に通い続けることになった。お金は社会人になったら必ず返すと言うことになり、つまり両親から借金をした。これによって、密かに夢見ていた一年間の留学は当然の如く断念。外国に誰よりも恋焦がれていた僕が自分自身で「留学」という道を叩き折った瞬間だった。

 そんなこんなのゴタゴタもいったん収束したかのようにみえた5月、予想外の荷物が届く。きっかけは新潟空港からの1本の電話「モロッコから国際郵便でカーペットが届いています」。しかし、問題は高額の関税。110万円という莫大な金額にかかる関税は、およそ30万円。いや、そんなお金ないよ・・・と途方に暮れて、空港の人に正直に伝えた。
「モロッコもなかなかやりますね笑」と空港の人は他人事のように笑いながら、関税を特別に5万円ほどに下げてくれた。
 その大量のカーペットは大学の先輩が車を出してくれて、新潟空港まで取りに行った。ことの顛末を聞いた先輩は大爆笑、僕は真顔だった。その後両親が一人暮らしの僕のアパートに田舎からはるばるやってきた。そして、「このカーペット、俺たちがもらってやる」と言って車に積んで帰っていった。ちなみにそのカーペットは、兄や僕の自宅などで今でも使われている。

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