2020年3月2日月曜日

関昭典教授 私の履歴書#2 小中学時代

◯今の私を形成する小中時代の二つの出来事

 「今は情報がたくさんあるから、自分なりの哲学がないと流される」 高校の時にめくっていた頁で出会った一節だ。これは当時、二つの事件をイニシエーションとして潜り抜けた私にとって腑に落ちる言葉であった。
 では、なぜ私がこの一節に惹かれたのか、今回はその原因となった二つの事件についてのエピソードについて語りたい。

 現在の私を考えるのに欠かせない二つの出来事がある。
 一つ目は小学6年生の時に受けたいじめの経験だ。
 そして二つ目は中学3年生の時に学校を健全化させる過程で経験したことだ。
 今日はその二つについて書いてみたい。

 小学六年生の時に私は苛烈ないじめを受けていた。それはクラス全体から一言も口を聞かれず無視されるというものだった。そのクラスは今でいう「学級崩壊」状態であった。タチが悪いことに教師がいるときは彼らのイジメは鳴りを潜めた。幸いなことに当時所属していた学外の野球のリトルリーグに参加しているときは、同じクラスの同級生が口を聞いてくれた。唯一の救いだった。
 この時期の少年にはよくあることかもしれないが、あの頃はイジメを受けることがとてもきつかった。学校が世界の大部分を占めていたからかもしれない。両親には言えなかった。父親も母親も、私が学校で学校生活を謳歌していると思っていただろう。そんな両親の期待を裏切っていることが辛かったが、勉強は手につかず授業もほとんど聞いていなかった。「早くイジメが終わらないか」そればっかりを考えていた。卒業までの日数を胸中で何度数えたことだろう。

 小学校の卒業と同時に、まるで明けることない夜のように思えたイジメは終わった。しかし、人間関係はガラッと変わったわけではない。小さな田舎町の唯一の中学に進んだからだ。クラスメートの9割以上が小学校の時の顔見知りだった。この中学時代に私は、のちに様々な決断する際に指針となる一つの哲学をつかむことになる。

 その哲学は、私が生活委員長に指名されたことと関係している。私が進学した時、学校は荒廃の一途を辿っていた。暴力、派手なヘアースタイル、服装違反、恐喝、校内や器物の破損、シンナー吸引などなど。まさに無法地帯。下級生が上級生の教室の前を通ると殴られる、先生が目の前で生徒に殴られるということが本当に起こっていた。教師でさえもコントロール不能に陥っていた。分かりやすいイメージを掴んでもらうためにあえてデフォルメして表現するならば、まるで『北斗の拳』のような世紀末を彷彿とさせるような有様だった。

 中学二年の冬のある日、教師がいない自習時間に「不良」の1人が私が椅子から立った隙に椅子に数本の画びょうを置いた。知らずに座って痛がる私を見てそいつは爆笑した。数年間の怒りが爆発したのか、私は近くにあるもの椅子や机をそいつに投げつけた。そして本気で殴り掛かった。その後のことは記憶にないが、後日友人から、私のパンチはすべて空を切りそいつのパンチはすべて僕の頬に命中したと聞かされた。この行為がなぜかクラス内、教員内で称賛され、私は学校更生の切り札として生活委員長に就任することを説得された。いやであったが、「お前しかいない、頼む」と何度も言われ、最終的には「教師の全面支援」を条件に引き受けることにした。
 ちなみに、その時の学校の更生について当時の学年主任が書いた本が、『ドキュメント中学がよみがえった日』,田村,講談社である。田村先生は翌年、卓越した教育者に送られる読売教育賞を受賞した。私のこともかなり詳細に書かれている。

「やるからには全力を出し切ろう」そう決意して開始した。40人の生活委員、同学年の友人、担任の先生とタッグを組んだ。「まずは六中を悪い方向に引っ張ろうとしている不良グループを更生させることが重要だ」と目標を定めた。詳細な服装規定を作り、クラスの生活委員を通じた日々の服装検査を徹底した。週2回以上の違反があった生徒を全校朝会の際にステージに上げ謝罪させた。当然不良グループは反発し、特に怒りの矛先は委員長だった私に向いた。廊下ですれ違うたびに殴られる、教室まできて蹴られる、しまいには複数回リンチを受けた。先生方は私にボディーガード(強靭な同級生)を2名つけ、私だけより安全な職員玄関から登下校するようになった。
 正直なところ、死ぬほど怖かったし悔しかった。「もうやめてしまおうか」そんな思いが何度も脳裏をよぎった。

 そんな時に、学年の友人から「頑張れ」「負けるな」と励ましのメッセージを数多くもらった。学級通信や学年通信にも本人の名前入りで私への応援メッセージが繰り返された。しかしそのメッセージを眺めながら、ふっと感情が冷め。白けている自分がいた(決して態度にはださなかったが)。
 というのも、彼らの中には小学6年生の時私を無視し、イジメていた人たちが何人もいたから。おそらく、彼らはもうそのことを忘れていたのだろう。子どもとはそういうものだし、何事も加害者よりも被害者の方が記憶に残っているものだから。
 計らずもこの学校改革の渦中にいた私の経験談が、その年の「少年の主張」全国大会で文部大臣賞を受賞することとなった。

 この経験から私は、集団心理というものを学んだ。それは、「人はある集団の中にいると、簡単に流されてしまう」という事実だ。
 小学校の時はクラスの空気に流されてイジメを行った人たちが、中学では無邪気に「頑張って」と応援の声をかける。そんなある種の“無垢さ”に違和感を覚えたのだと思う。
 そこから掴んだ哲学は、「集団は常に流されるものだ。集団に期待するのではなく、せめて自分は集団に流されないように生きよう」というものだった。

 それからというもの、集団生活の中で何か決断する度にもう一人の自分が私の心に現れ「本当にそれで正しいの?」と囁くようになった。それは少なからず私が決断する時に集団の空気に流されない恩恵となった。付和雷同的にふわふわと集団の流れに身を任せてたどり着ける場所には限りがあるから。流されそうになった時に、一度立ち止まって自分の頭で判断する習慣。
 以上の、小・中学時代の二つの実体験を通してそんな立ち止まる視点を獲得できたことで、その後の人生の選択は少なからず変化したはずだし、「立ち止まる視点」こそが今ある自分の礎となっているのかもしれない。

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