2020年2月28日金曜日

関昭典教授 私の履歴書#1 小学時代 山の向こうに行きたい

(前置き)

◯「私の履歴書」とは何か

 今回から「私の履歴書」のコーナーを不定期で連載していきます。
 某日経新聞では、一人の著名人について一ヶ月(約30日)間かけて幼少期〜現在に至るまでの人生の軌跡をたどります。
 このブログでは、1ヶ月に約3投稿、一年間の約36投稿で関昭典教授の現在までの軌跡としてたどることを予定している連載です。

(本文)

 私が生まれたのは1968822日、新潟県の豪雪地帯、小さな田舎町だった。小学校の授業を受けているとき窓の外に臨める魚沼盆地を眺めて過ごした。そのとき胸中を渦巻いていた感情は「ここから出たい」「山の向こうへ行きたい」という漠然とした憧憬だった。

 この「この狭い世界(自分の住んでいる町)の外に出たいという」思いは、小学4年生の時にふとしたきっかけで実現する。定期購読していた小学生新聞で、「夏休み九州旅行」の参加者を募集していた。普段あまりわがままを言わない子供だったがこの時ばかりは「是非!」と親に頼み込んだ。親と離れてのツアーということで母親は心配から難色を示したが、父親は頷いた。「いいよ、その代わり一つだけ条件がある」と。その条件とは、旅行で行く地域を自分で事前に調べることだった。インターネットのなかった時代だ、小学校の図書室にこもりっきりになってノートに詳細に書き写した。やりたいことのためには行動力を発揮できる子供だった。

 家族について言及するなら、父は小学校の教員、母は家庭児童相談員だった。今思い返せば、とても教育熱心な両親で、幼少期からバイオリンを習わせてくれたり、夏休みの自由研究に本気で付き合ってくれたりした。ただ、無理やりやらされていたバイオリンには興味が持てず、小学校卒業と同時にすっぱりとやめてしまった。兄は成績が良く、現在は著名な脳科学者である。兄は勉強が抜群にできたこともあって、兄への憧れと劣等感は今に至るまで消えない。全体的に「苦手意識」と「自信のなさ」の抜けない人間となってしまった。

 やりたいことは夢中になって取り組む反面、興味が持てないことにはピクリとも食指が動かなかった。振り返ってみれば、少し変わっているところがある幼少期だったかもしれない。例えば、絵には特に興味が持てなかった。それは幼少期に友人がとても上手なムーミンをスケッチしていた時だったか、隣で非常に退屈さを感じ、クレヨンを自分の鼻に出し入れしていた。すると赤いクレオンが鼻から抜けなくなり周囲を大騒ぎさせた。中学校の成績では10段階評価で1を取っていたほどに絵を描くことが嫌いだった。写生大会の帰りに自分の描いた絵を川に捨てて、先生には「なくした」と嘘を言い張ったこともある。

 逆に興味が持てることに関してはよく取り組んだ気がする。小学3年生の時、夏休みの自由研究で「粉の溶ける早さ」というテーマで砂糖が水やコーラ、日本酒、ウイスキーといったありとあらゆる溶媒に溶ける溶解度を調べ、まとめた。これは小学校の代表になり、町のコンクールに進出しそこでも代表に選出された。
 調子に乗った私が翌夏の自由研究で選んだテーマは「ミミズが死ぬまでの早さ」今となってみればその残酷さに驚くが、当時大自然に囲まれた一少年には興味深いテーマであった。あらゆる溶媒にミミズを入れて、命尽きるまでの時間を計測した。再び小学校の代表となった。2年連続の選出だった。

 こうして振り返って見るとやりたいことには夢中になれるが、やりたくないことにはとことん不真面目な極端な少年だった。何でも突き詰めて努力し結果を残す兄とは正反対。この気質を決して好まなかったが、性格だから仕方がない。この気質も影響し、その後の人生で何度も大きな転機に巻き込まれることとなる。どうやって現在いる場所にたどりついたか、その半生を振り返ってみると、コインを投げ連続でオモテを出し続けるような偶然や出会い、そして奇跡に見舞われたとしか考えようがない。誰しもが経験するような苦境も経験した。次回以降、そんな思い出について綴っていきたい。

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