2020年4月30日木曜日

私の履歴書(番外編1) 五度の交通事故


  私の履歴書(番外編1)「五度の交通事故」

 今、大学ではもっぱら遠隔(オンライン)授業です。僕にとって初体験ですが、性格的に中途半端なことが苦手な僕は、空き時間を見つけていろんなことを試しています。で、昨夜はスマホの音声認識機能のみで文章がどの程度書けるか挑戦してみました。ですので軽いテーマです。(やはり少し編集が必要でした。)

今日は交通事故について話してみたいと思います。皆さんの中で交通事故に遭ったことがある人はいますか。僕はなんとこれまでの人生の中で、五度も交通事故に遭っています。これほど運の悪い人間は他にはいないのではないかな、と思うほど多くの交通事故を経験してきました。

一度目は高校2年生の時。通学途中のことです。僕は傘さし運転をしていました。気がつくと目の前に車が飛び出してきて僕にぶつかりました。僕は投げ出されたものの、手足に切り傷を負う程度で済みました。車の運転手は出てきて僕に声をかけました。“大丈夫か”。僕はとっさに“大丈夫です”と答えました。すると運転手は急いで車に戻りスピードを出してその場を立ち去りました。僕はほっとしました。「え、なぜほっとするの?」皆さんは不思議に思うかもしれません。実は僕は学校に自転車通学を許可されていなかったのです。

僕の家は学校から少し離れたところにありました。しかし学校の規則では、2キロ以上離れた場所に住む人しか自転車通学許可していませんでした。僕の家は、学校から何と1.95キロ。 あと50メートルを何度恨んだ事か。僕は内緒で学校近くの友達の家まで自転車で行き自転車を置かせてもらい、そこから歩いて学校に通っていました。もし運転手の方が警察や自宅や学校に連絡をすれば、この事故は公になり僕が自転車で通学していたことがばれてしまいます。しかも傘さし運転です。運転手と僕の咄嗟の行動は「WIN-WIN」が成り立っていました笑。

手足の切り傷といっても、血が滴る位でしたから、警察に連絡すべきことだったと後になって思いました。警察に連絡すれば明らかな人身事故。運転手の方は愚かな僕に助けられたと言っていいでしょう。

二度目の交通事故は高校3年生の時。スクーターの運転中でした。普通に走っていたら、目の前に軽乗用車が突然右折してきて僕にぶつかりました。この事故は100%車の運転手の落ち度です。バイクから3メートルほど投げ出されましたが、ヘルメットに救われました。頭をコンクリートにぶつけたものの、ヘルメットのおかげで手足の打撲と切り傷だけで済みました。そのヘルメットはその時限りで“あの世”行きでした。この時は警察が来て、僕は救急車で病院に搬送されました。運転手は40代の女性。その夜我が家に夫婦で謝罪にいらっしゃいました。

ところで、この事故の時に僕は初めて交通事故に会うと保険金が出ることを知りました。それを知り僕は父に言いました。「僕が遭った事故だから保険金は僕のものだ!」「お前はバカか」と父は答えました。「誰が保険料を払ったと思っているんだ!」僕はとても悔しかったの覚えています笑。

三度目の交通事故は大学3年生の時。僕は先輩の運転する車でラーメンを食べに行きました(僕は免許も車も持っていなかった)。その日は雪が降っていました。帰り道。白く染まった雪道を先輩が運転し、僕は助手席でした。と、少し前に、雪と同色の白いスクーターが路上駐車しているのを発見しました。先輩に言いました。「スクーター気をつけてくださいね。」しかし、先輩はそのスクーターに気がつくのが少しだけ遅かった。そのスクーターを避けようとハンドルを右に切りました。そこで車がスリップ。車はコントロールを失いました。僕の目の前に電信柱が近づいてきました。そして、車は僕の真横から電信柱に突っ込みました。車は真っ二つに割れました。突っ込む直前、「人生終わり」と本気で思いました。死ぬ前には過去の記憶が蒼魔灯のように蘇ると聞いたことがあります。しかしそんなことはありませんでした。ただ突っ込んだだけでした。直前、「関、ごめん」と言った先輩の声が今でも鮮明に記憶に残っています。

気がつくと目の前は真っ黒の空から降ってくる雪でいっぱいになりました。さぁ何が起こったかわかりますか。僕の体は真っ二つに割れた車と電信柱に挟まれた形になったのです。後日、警察の方曰く「生きていることが奇跡だ」そうです。電信柱は僕のわずか数センチ後ろに突っ込んだのでした。先輩は“大丈夫か”と一言、意識を失いましたが、間もなく復活。僕はと言えば、腰から下が潰れた車体に圧迫され、とにかく痛くてたまりませんでした。「痛いよー、痛いよー」と叫びまわっていたのを覚えています。通行人が警察を呼んでくださりました。まもなく到着した警察官とレスキューの人々が僕を助け出してくれました。僕はそのまま救急車に乗って病院に運ばれました。「あれ先輩の姿がない。どこに行ったのだ。」救急隊員に尋ねました。「加害者は警察に行く」救急隊員は他人事のように“シラっと”答えました。ショックでした。

僕は下半身のひどい打撲で両足ギブスをはめることになりました(その後遺症が今でも残っています)。しばらくすると先輩が病院に到着しました。警察の事情聴取を終え、とりあえず僕のところに行くように言われたのだそうです。病院に頼んで入院は免れ(定期試験期間だったのです)、僕と先輩はタクシーで僕の自宅まで戻りました。
結構ひどい事故だったので、先輩はお母様とともに後日、遠路僕の実家に謝罪に行ったそうです。なんか申し訳なくなりました。後日真っ二つになった車を見せられ、ぞっとしました。

四度目はインドです。結婚して数年後、妻と2人でインド旅行しました。首都ニューデリー。バイクリクシャーに乗って観光中、信号待ちをしていました。するといきなり後ろからものすごい衝撃を受け、意識を失いました。ほどなくして意識を取り戻し後ろを振り返ると、そこには大きなバスらしきものがありました。なんと路線バスのブレーキが壊れ、普通スピード走行のまま僕たちの乗るバイクリクシャーに追突してまったのです。リキシャーは全壊。しかし僕も妻も生き残りました。どちらかと言うと僕の方が症状が重くそのまま救急車で病院に搬送されました。その後治療を受け、幸いにも軽傷と診断されました(意識失ったのに・・・)。警察に行き拘留中のバスの運転手と面会させられました。“こいつをどうしたいか”と警察官に聞かれました。10代の少年。怯えた顔で僕の方を見つめていました。貧しい家庭の子と聞きました。お父様の涙も見ました。このときのことを詳細に話すとキリがないので省略しますが、僕はその運転手を許しました。当時の僕にできる最大の「国際支援」でした。

五度目は3年前の3月、家族で久しぶりの一泊二日の温泉旅行に行った帰りでした。場所は東京都福生市の横田基地の真ん前の通り。信号待ちをしていると突然後ろから大きな衝撃を受けました。中型トラックがブレーキを踏まぬまま僕たちの車に衝突したのです。居眠り運転でした。僕たちの車は全壊。家族4人とも、ひどいむち打ちで病院に運ばれました(全員首にコルセットをつけました)。中でも症状が重かったのが長男と僕です。その中でも一番症状が重かったのは僕でした。その後遺症は今でも残っています。大学生の時に負った膝の後遺症。そして数年前に負った腰の後遺症。

僕はなんと運が悪いのだと思いつつ、一方で交通事故に五度も逢いながらいまだ生きてることに感謝しながら日々を過ごしております。

余談になりますが、カナダバンクーバーの無人電車の中で強盗に殴られまくり救急車で病院に搬送され、地元紙で報道されたこともあります。思い返せばすべて懐かしい。
 くだらない話にお付き合いいただきありがとうございました。

2020年4月28日火曜日

関昭典教授 私の履歴書#5 浪人生

「花散る都留大」。
 浪人決定の電報に書かれていたのはこの一言。
 「大学時代こそは新潟の片田舎から雪けぶる越後山脈を乗り超えて東京に行くんだ」そんな熱意の炎を胸に、現役時代は東京の親戚の家に連泊し東京の大学だけを受けた。全て落ちた。最後の最後、全部落ちた後で山梨の都留文科大学の三月入試を受けた。新潟から山梨まで遠いから合格発表は見に行けない。当時は速達ではなく、電報だった。その電報で僕は都留文科大学に行くか浪人かが決まるのだ。そんな中で受け取った電報だった。“不合格”とは書かれていなかったが、その意味だ。田舎の六日町でそれを開き、少し固まった。花散ったんだな。少しして理解した。

 二階の自分の部屋に行って脱力した。親にどう伝えたかは覚えてない。それから「ああ、浪人なんだな」と現実を苦しく感じた。これから一年間どうしようかなと考え始めた。家から最も近い予備校は、(今はなき)新潟予備校の長岡校。家から駅まで歩いて20分、そこから電車で片道1時間という驚異の遠さ。1時間の電車通学は大したことがないように聞こえるが、首都圏とは違い、電車が1時間に一本しかない。一本逃すと1時間以上待たざるを得ないのはきつかった。長岡校に通っている地元の先輩もわずか。よって参考例が皆無。これからの1年間を真似するモデルがなかった。これから一年間どうなるんだろうという不安感と呆然とした感じ。三日間呆然と寝込んだ。「先が見えない」という感情を生まれて初めて経験した。それまで小学校、中学校、高校と“次”が常に意識されてきた。高校の後の同級生の進路も「就職、専門学校、大学」の三択。そのどれでもない“浪人”という道のりは宙ぶらりんの感情だった。自宅浪人は自分の実力上無理だと思った。ちゃんとした先生に習わなくちゃいけないな、と。電車で片道2時間半かけて新潟市まで行けば代々木ゼミナールがあった気がするが、往復5時間は現実的ではなかった。

 六日町からの電車は1時間に一本。予備校の場所は限られているから、浪人した高校の同級生数人とはほぼ毎朝同じ電車で揺られた。長岡は六日町から見たら都会だった。「都会に行って勉強する」という感覚で毎朝電車に乗った。また、長岡には新潟では屈指の進学校だった長岡高校があって、その学校の人たちと勉強するのだと身の引き締まる思いがした。

 新潟予備校のパンプレットの“超優秀な講師陣”という文字を見て「ようやくまともな先生に教えてもらえる」と期待した。すごい先生からまともな勉強が教えてもらえるという気持ちがあった。でも実際は、その”超優秀な講師陣”は東京の大手予備校に勤務している人で、その先生たちは通常授業ではわざわざ田舎の新潟はずもなかった。夏期講習に追加で受講料を出した人だけがパンフレットの売り“超優秀な講師陣”の授業を受けることができるシステムだった。あれはどう見ても詐欺まがいだと振り返って思う。
 
 実際には通常の授業は高校までの授業となんら変わらず。例えば僕が受けていた理科のある科目の授業では教員採用試験に落ちて浪人中の方が講師だった。
 当時の新潟はとにかく地元志向が強かった気がする(今はどうなのだろう)。予備校の先生も新潟大学至上主義の傾向が強く「新潟大学の入試問題を何回当てた」が、授業中の自慢話だった。先生たちの進路指導も、成績の良い学生には全力で新潟大学を勧めて予備校の合格実績に計上しようとした。僕も担任チューターに、ことあるごとに新潟大学の素晴らしさを聞かされた。 
 授業の内容も人気取りのようなもの。酷いものでは大半の時間は授業をせずにギャグをかましているような先生もいた。周りの生徒たちが楽しそうに笑っているのを醒めた目で見ていた記憶がある。両親には授業料でかなりの大金を払い込んでもらったはずで申し訳なかった。
 パンフレットの理想と実際の授業クオリティの低さに圧倒された。「チラシってすごいなぁ」と感心したのを今でも覚えているほどだ。チラシを見てお金を払ってしまう。チラシの内容だけで先取りして年間の授業料を一括して払い込んでしまうのだ。実際の授業を見ることなしに。お金を稼ぐ人ってこうやるのか、と。考えてみるとこれは今だって変わらない。ネットでイメージを見て先にお金を払い、実物は期待はずれのものが届くことがある。
 そういうのを初めて経験し、唖然とした。しかし、入ってしまったものはしょうがない。できる限りやるしかないと覚悟した。東大文系クラス、国立文系クラス、私大文系クラス、理系クラスが存在した。クラス選択のために調べてすぐわかったのは、この中から東大に合格する人はほとんどいないという現実。それでもまるで東大を目指せるかのように錯覚させるため、東大文系クラスと言っている。これも予備校のレベルを実際より高く誤認させるための宣伝だと思った。
 でも行くなら講師のレベルの一番高い、東大文系クラスしかないと思った。一番塾が力を入れて、講師の質が少しでも高いのはそこしかなかったのだ。目指してもいない東大文系クラスを選択した。
 
 そんな予備校の講師たちの中で一人だけすごい先生がいた。太庸吉という名の英語の先生だ。週一度だけ東京からやってきて授業を担当した。英文解釈の授業を受けて「これはすごい」と圧倒された。初回の授業、一言挨拶をしたと思ったら、そこからは、90分間ひたすら、猛烈な早口で英語を書きつつ英文の構造を緻密に分析していった。「イカれた」教師だと思った。教師像を根本から覆された瞬間だった。“東大クラス”など名前だけの、雪ふぶく片田舎の教室を担当する講師陣の中で彼だけは“本気”で東大に受からせる気で授業をしていた気がする。どれくらいの人がその怒涛のスピードの授業についていけていたかわからないが、僕は食らいつくように必死に授業についていった。最前列のど真ん中の席で目をギラギラさせてペンを走らせていたように思う。太庸吉の熱狂ファンになった。弟子入りしたいと思った。

 グリーン車で新潟に毎週通う太先生は僕のヒーローとなった。僕は授業が終わると講師室に押しかけて太先生のところに質問ぜめ。そんな食い気味な生徒を面白いと思ってくれたのか、気がついたら夜ごはんに誘われ一緒に食べるようになった。新潟の酒のファンで未成年の僕にお酒までご馳走してくれた(そういう時代だった)。太先生は翻訳家でもあった。翻訳した本も見せてもらった。外国も行きたかったし、外国につながるものが全てかっこよく見えていた。太先生に憧れていた当時の僕の、憧れの職業の一つが翻訳家だったが、「翻訳家とは儲からない商売ですよ」、と太先生はこぼしていた(その僕が後に翻訳を手掛けることになるとは・・・)。
 とにかく私の教え方は邪道です、と言っていた。実際、論理的で緻密な彼の講義を聞いていると、まるで数学を教わっている気分にすらなった。しかし本人が“邪道”と卑下しようが、彼の教え方は卓越していた。その後およそ30年が経過したが現在彼は駿台予備校や河合塾のトップ講師を歴任している。

 受験のための無味乾燥な暗記が多かった予備校生活で、太先生の授業だけは知的好奇心を掻き立てられた。テキストの英文と格闘している時も、受験勉強というよりむしろ英語を学問として学んでいるという実感が湧いた。太ワールドで英語に向かうと模擬テストさえも楽しく解けるようになった。特に国立二次試験の、構文も難解で学問的に練られた美文を読むのは楽しかった。ラッセルとかサマセット・モームとか。共通一次は学力というより、反射神経やテクニックを問われているようであまり好きになれなかったが、こちらの得点率も自然と向上した。英語の成績は果てしなく上がった。英語の記述試験だけならば、おそらく国内のどの大学にも受かっていた気がする。だが、、、この成績上昇は英語だけだった。

 国語は勉強すればするほどムカツいてきた。予備校の授業を受け、模試に挑み、復習を繰り返したが成績は微塵も上がらなかった。僕の成績推移をグラフにしたら、まるで心臓が止まった後の心電図のように見事に平行線だった。中学時代にスピーチコンテストでは文部大臣賞を獲得し天皇、皇后とも面談したくらいだ。文章を書くのは好きだったし、苦手意識も全くなかった。本もそこそこ読んだ。しかし、国語(特に小説)の成績が壊滅的だった。“傍線部の登場人物の心情を答えよ”と言う問題、熟考して選んだ答えをことごとく外した。「僕は人の気持ちがわからないのか」と頭を抱えた。

 数学に至っては偏差値30台だった。鉛筆を転がして模試を解いたのか、と首を傾げられる点数かもしれないが、僕はいたって真剣だった。浪人という都合上、親からは「国立しかダメだ」と言い渡されていた。国立合格のためには壊滅的な数学の点数をなんとかしなければならない。そんな成績のままゴールデンウィーク、夏期講習、ハロウィンと無情にも月日は過ぎ去っていよいよ11月。返って来た成績表には変わらない数学偏差値30代の文字。いよいよ“本格的にやばい”と頭を抱えた。
 数学の成績を上げるにはどうしたらいいか。真剣にウンウン唸って閃いた。「そうだ!光があるから集中できないんだ」。集中するためには参考書以外の余計な物が目に入ってはいけない。部屋を真っ暗にして机のライトだけつければ、自然とテキストのみが目に入る。電気を消しただけではカーテン越しに外の光が入ってくる。(黒い遮光カーテンを引けば別だが、当時そんなものの存在は知らなかった。)窓一面に新聞紙をベタベタ貼って、その上から服を何層にもガムテープで貼り重ねて完全に外から光を遮断した。丸一日がかり。
 「さあ集中するぞ」と朝から集中して、夕方。ご飯を呼びに来た母親は、真っ暗な部屋で一心不乱に机に向かう息子に唖然、何もコトバをかけずにドアを閉めた。「受験で追い詰められすぎている」母と父は真剣に相談。何も知らずに夕食を食べようと階下に降りて来た僕に「大丈夫か」と本気で心配された。余談だが、今の僕の仕事部屋のカーテンも暗幕である。

 数学が苦手な僕が応用問題まで背伸びする必要はない。できるだけ薄くて基礎問題だけを取り扱っている河合塾の共通一次対策の問題集をひたすら反復。同時に、数学の講師に「正答の選択肢は①が多いか、②の方が多いか」と、正当になりやすい選択肢の確率を聞いた。本番でわからない問題に直面しても一点でも多く奪取しようと必死だった。その時、藁をも掴む気持ちで頭に叩き込んだテクニックは今でもいくつか覚えている。例えば、「マイナスが来たら1が多い」とか。

 そんなこんなで迎えた共通一次。一日目の試験を終えた僕は、やってはいけない禁忌を犯した。試験二日目の早朝に届いた新聞の解答速報、前日の自己採点をしてしまったのだ。(都会など、受験のテクニックを教わっている受験生は二日間の共通一次の試験が終わるまで自己採点をするなと厳命されていることは後で知った。まだ試験が終わっていないのに、一日目の点数を知ってプレッシャーを感じてしまうからだ。)200点満点中、国語120点。国立大学に受かりに行くには心許ない。国語120点で国立大学を受験することの無謀さをドラクエの勇者に例えるなら、かろうじて剣を持っているが、盾も回復薬も鎧も持たずに魔王に特攻するが如くの無謀さだ。不可能ではないが限りなく苦しい。
 予想外の点数の低さで僕は呆然。その日外ではひどく雪が降り凍り付く寒さだったが、自己採点を終えた僕も凍りついていた。打開するには二日目にいい点を取るしかない。しかし、二日目の科目は理科と数学。偏差値30台を低迷していたあの数学だ。最悪の事態。プレッシャーに押しつぶされそうになった僕がさらなる致命的なミスを犯したのに気づいたのは試験場についてからだった。緊張のあまり鉛筆を忘れたのだ。鉛筆を忘れたことを申告したが、試験官はちらっとマニュアルに目を落とし一言、「規則では貸し出すことができません」。絶望しかけた。

 そんな時前の席に座っていた見知らぬ女子生徒が、予備の鉛筆を数本貸してくれた。あの時の感謝の気持ちは強く、貸してくれた相手の高校名まで鮮明に覚えている。超感謝。
 事件は続き数学の試験中。極度の緊張のせいか、僕の近くで受けていた級友の鼻から血が吹き出した。彼の手元の答案用紙は血液で真っ赤。試験官が慌てて駆け寄っていた気がするが、僕はそれどころじゃなかった。この数学の試験が国立合格の命運を握っているのだ。
 翌朝、恐る恐る採点。すると、なんと、人生最大の奇跡が起きた。数学で165点(200点中)を獲得。今までの成績の倍近い点数だった。いうまでもなく、自己最高点。何が起こったのか自分でもさっぱりわからない。これが火事場の馬鹿力というものか。国立出願に首の皮一枚繋がった。

 その後東京の親戚の家に連泊して、東京の私立大学を受験。詳細は省くが多くの受験生同様、いくつか合格しいくつかは落ちた。そんな中で僕の暮らしていた地域が受験の情報とは程遠いド田舎だったエピソードがある。マーチのMではじまる某大(文学部)と某学院大学(国際学部)に合格した。名前が似ていたので僕には区別がつかなかった。迷いなく某学院大学だけに入学金を払い込んだ。“マーチ”という大学群の呼称すら、東京経済大学に赴任してから知ったくらいだ。海外に興味があった僕は、“国際”という名称だけが判断基準だった。文学部は「シェイクスピアを読むところなのかな。興味ないな」と受験しておきながら一顧だにしなかった。
 入学金を払い込んだ後、太先生に報告した(たぶん電話だったと思う)。しばらく沈黙した後「随分勇気ある決断を下しましたね」。何を言っているのだろう、と偏差値や大学の規模などを調べて悟った、遅かった。あちゃーと思ったが、親にも何も言えなかった。

  
 小学生の時から変わらぬ僕の望み、「この山の向こうに行きたい」。その目標は東京の私立大学に合格した時点で達成していたが、両親は「国立しかダメだ」と一点張り。首都圏の主要な国公立に受かる模試の点数ではなかった。東京ではなかったら京都だ(笑)、と。京都の国立を一つ。もう一つは新潟予備校が猛プッシュしていた新潟大学を言われるがままに受けた。どちらも英語の勉強がしたかったがシェークスピアの訳読がいやという理由で文学部を避け、教育学部英語科を受験した。しかし、両大学ともかなりレベルが高い。「間違いなく落ちるだろう」と謎の確信をしていた。
 何しろ僕は東京の大学に行きたかったのだ。一通目の東京の私大の合格通知が届いた瞬間にほっと安堵して倒れこんだ。それまで勉強して来た緊張の糸が切れたかのように謎の高熱に丸一週間苦しんだ。国立受験は共通一次が終わった後からの勉強量が勝負だ。親は「何をしているんだ」とあきれていた。

 当時、新潟大学の合格発表は何と地元局でテレビ中継!合格発表当日。僕は二次試験の国語の異常な難しさから「どうせ落ちる」と確信に満ちていたので、寝そべってボーっとテレビを見ていた。一方、母親は緊張に耐えきれず美容院に行った(と後に聞いた)。突然テレビの僕の受験番号が呼ばれた。瞬間の心境は嬉しいより、「え、受かっちゃったよ」と吃驚。行く気は無かった。
 しばらくして母親が帰って来た。「受かった」と一言伝えた瞬間、母の目から涙がこぼれ落ち抱きしめられた。母からこれほどきつく抱きしめられたのは赤ん坊の時以来だろう。何よりも、こんな嬉しそうな母親の顔を見たのは久しぶりだった。あの状況で母に、「僕は東京に行く」と言い出すことなどできるはずもなかった。ということで新潟大学へ進学することが決まった。新潟大学教育学部中学校教員養成課程英語科。

2020年4月21日火曜日

関昭典教授 私の履歴書#4 「裏日本」での高校生活

  「裏日本」という言葉は知っているだろうか。かつて東北の日本海側や、新潟県といった日本海側の地域を指す言葉だった。ニュースでも当時は普通にその単語が使用されていた。「裏日本では明日、大雪となるでしょう」みたいに。差別用語と批判されていつしか使われなくなったそうだが(今は日本海側と言う)、僕はその言葉とともに育った。

 確かに裏日本と言う表現が似つかわしい非常に厳しい環境で育った。「どのくらい田舎か」、「それによって(東京の学生と比べ)どれくらい機会の少ない環境に育ったか」そんなことは現在の首都圏で育った学生諸君には想像がつかないかもしれない。想像力の多寡のせいではない。自分と時代も環境も根底から異なる存在には、その存在について聞く機会がなければ気づく機会すらない。

 中学生の頃に高速道路(関越道)が新潟県に来たが、私の故郷六日町は開通が遅れた。(その後、1984118日:湯沢IC - 六日町IC開通。1985年のこの日、関越トンネルが開通し、東京~新潟の関越自動車道が全線開通した。)東京新潟間を結ぶ上越新幹線は
1982年に開業した。いずれも超大物政治家、田中角栄の圧倒的な存在無しには新潟にでき得ぬものだった。

 田中角栄像が浦佐駅にある。僕の家から車で20分の距離だ。僕の高校(六日町高校)は浦佐駅から電車で三駅。僕の暮らした地域はド田舎にも関わらず田中角栄の選挙区、新潟3区として全国に名を馳せていた。全体的に田中角栄ワールド。(誤解を恐れずにいうなら)田中角栄のお膝元の地域に、田中角栄の全盛期に生まれ育った。総理大臣辞任後とはいえ彼の政界に及ぼす影響は圧倒的だった。

 何が田中角栄を地元の神のよう祭り上げたのか。彼の成し遂げたことについては功罪いろいろある。しかし間違いないことは、新潟の非常に厳しい環境の中で生まれ育ちそこから東京に行って新潟の雪国の厳しい人たちの声を東京に届けたことだ。その一点において明らかに雪国の人たちの英雄であった。

 新潟三区にまたがり田中角栄を後援する組織、越山会。あの地域に僕は育った。

 そんな裏日本、新潟の環境は東京と大きく違う。学習塾など存在しなかった。東京は当時から学習塾もポピュラーな存在だったと思う。調べてみると、当時首都圏では受験戦争と揶揄されるほど大学入試が苛烈で、おそらく1980年代ごろから三大予備校(駿台予備学校、河合塾、代々木ゼミナール)が全国展開を強めたが、私の地元では勉強を教わる場所は高校以外に皆無だった。農家の子女・子息が過半で、田んぼが広がっていた。

 その頃の僕は大学や勉強のことは何も知らない。その類の情報が目に入る環境ではなかったのだ。僕が「MARCH」という言葉を知ったのも2007年に東経大に赴任してからだ。東経大の同僚たちは「MARCH」の意味を知らない僕に言葉を失った。

 ミステリ小説では、雪の中に閉じ込められて電話線も切れ情報が遮断された陸の孤島の描写が登場する作品がある。

1980年代のインターネットもなく、閉ざされた田舎の中でまさしく都会の情報が遮断された(あっても断片的にしか届かなかった)陸の孤島でこの世に生を受けてから、10代の終わりまでを過ごしたのだ。

 閉ざされた田舎の中で、六日町中学の半分の学生はそのまま六日町高校に進学した。だから、受験勉強といっても気合いが入っている人ばかりではない。半分の同級生がそのままその高校に進学できるのだから。高校に進学しても塾など存在しない。では、高校の授業が良質かというと(もちろん授業を受ける僕が不真面目だったというのも多分に関係しているのだと思うけれど)、いい意味で記憶に残っている授業は正直一つもない。「あの先生のおかげで今の私がある」のような感動的な心に響く授業を展開してくれた先生の思い出も一つもない。

 学業に関して言えば不真面目な生徒ではなかったが、真剣に学ぶ高校生では決してなかった。ときには授業を勝手にサボって、親にも言わずに車窓の移りゆく風景をぼんやりと眺めながら電車に揺られた。1時間30分も電車に乗ると柏崎海岸があり海で遊んだ。また、スクーターの免許を取っていたので、やることがないときはひたすら遠くに行っていた。ただ、スクーターで遠くに行っても行き着く先にも田舎しかなかった。

 そんな煮え切らない僕と六日町高校を結びつける唯一のものはバスケットボールだった。勉強のことはあまり印象がないが、その代わりバスケットへの思い入れは人一倍強かった。小学六年生の後半から始めたバスケットボールの魅力に取り憑かれて、まるで魔物に魅入られたかのようにハマっていたから、我ながら上手かった。バスキチ(バスケットボールキチガイ)と呼ばれていた。寝ても覚めてもバスケットボールのことばかり考えていた。その甲斐あってか、背は低いながらも中学生の時はレギュラーでガードを任された。チームはとても強かった。

 高校に入っても、迷うことなくバスケット部の扉を叩いた。そこで出会ったのが、僕が入部する頃と時を同じくしてバスケ部顧問に就任した元日本代表候補の体育の先生。筑波大学学生時代、超有名な日本代表選手とコンビを組み雑誌にもしばしば登場していた。高校時代には一試合単独で70点くらいを叩き込んだ記録保持者。そんな半端ない化け物のような人が顧問だった。その背景には、当時新潟で国体が開催されることが決定されたことにある。半ば暗黙の了解のように、当時の国体は開催県が優勝するのが不文律だった。そのため、国体が近くなると開催県には実力が折り紙つきのアスリートが入ることが伝統だったのだ。実際、国体はつい最近まで開催県がずっと優勝し続けていた。僕の高校入学の時期がちょうどその時期だったのだ。

 高校入学後、バスケットボール部に入って二年生にはレギュラーではないながらもキャプテンになった。「高校生活=バスケットボール」。そう言っても過言ではないほどバスケットボール一色の生活だった。

 そんな、高校入学時は好きだったバスケットボールだが、残念なことに引退する頃にはあまり好きではなくなっていた。「勝つための部活」に疲れてしまったのかもしれない。最後の大会で負けて引退する時、涙は流れなかった。胸中を占めていたのは「やっと終わった」というある種の開放感だった。中学生の時、勝てると思った試合で逆転負けしてボロボロ泣いていた僕が見たら、びっくりしただろう。それくらいバスケットへの想いは冷めていた。純粋に好きでバスケットボールを始めたのに、気がつけば人間関係の調整役に終始している自分にも嫌気がさしていたのだ。

 正直なところ僕は高校生の時にあまり学校から学んだ記憶がないが、なぜか僕の周りには歴史的な人物が登場していた。そういう意味で僕はとても運が良かった。バスケットボールにしても日本代表候補の一流選手が顧問についてくれて、「勝つ」ために最強のトレーニングを授けてくれた。当時日本代表の憧れの選手を、友達だからと言って高校に連れてきてプレーを見せてくれた。すごい人たちが次々と田舎町にやってくる高校三年間だった。

 『火垂るの墓』の原作者、野坂昭如が「打倒田中」と出てきた。実際に目の前で野坂氏が演説しているシーンが連日全国のテレビに報道された。選挙中に野坂氏が拠点としたアパートが僕の自宅の至近距離だったので、何度も見かけ、短時間だが話したこともある。今、眼前で進行しているのはすごいことだ。そう感じて興奮した。

 田中角栄の演説もなぜか目の前で見たことがある。今思い返せば非常に貴重な経験。超一流歌手が聴衆と共に作り上げるコンサートのようだった。僕は学校ではモノマネをして笑いを取れるくらい田中角栄の真似が上手だった。学校の授業からはあまり学ばなかった。しかし、授業外は学びの宝庫だった。都会の人々が過酷な受験戦争に飲み込まれていく中、僕はあの地でしか得られない独特な学びを得ていた。そしてそれが僕「独特」の文化を培った。

 友人との出会いにも恵まれた。狭い世界のことだ、友人といってもバスケットボールのチームメイトとクラスの級友。数え上げればそのくらいで私の周りの友人は完結した。

   塾がないからある意味で平等な地域だった。国税庁の統計によれば「2018年度の日本人の平均年収が4407000円であるのに対して、東大生の親の62.7%が年収950万円」であるそうだ(Newsweek201859日)。年収と学歴が比例すると言われる所以だ。この問題は「塾」の存在を抜きに語ることができない。

 今の東京などでお金がある人の成績がいい背景には塾の要因が大きい。お金がある人の子供はたくさんお金を払い、ノウハウを持った高い塾に通い、いい成績をとって偏差値の高い大学に行く。不平等なルートが明らかに存在する。

 僕の育った世界ではその類の教育格差は存在しなかった。中高一貫校も私立高校も存在しない。そもそも高校自体の数が少ないし、塾もない。ある種の平等だった。高校の勉強をしっかり取り組んだ人がいい成績をとった。そうやって勉強を頑張った層が偏差値的にいい大学に入った。

 一方で地域的に農家が多く、親が勉強を推奨しない家庭も多かった。僕のいた地域では「一生懸命勉強する」=「実家を離れる」ことだった。子供が地元に残ることを好む親たちは、勉強しろと言わないものだった。

 幸運なことに私の両親はとても教育熱心だった。小学校の教員だった父親が、筑波大学での1ヶ月の研修会から帰ってきて一言「英語の先生たちは全部英語で会話してたぞ。これからはそんな時代が来るんだろうな」そう独白した。

 その地域の親でそこまで先を見据えたことを言う大人は稀有だった。

 当時新潟県は大学進学率47都道府県中46位。その新潟県の中でも僕の故郷は最も学力の低い地域だった。しかし幸運にも頭のいい友人が多かったように思える。

 高校の中で成績は上の下。どう頑張ってもトップ層にはなれなかった。高校一年生の時同じクラスで、仲の良かった友人で東大に現役で入ったやつがいた。彼の家に行って屋根の上に登って、星を見ながら夜通し話していて一緒に風邪をひいた。

 僕は途中から数学と理科がわからなくなってきたが、彼は理数系のクラスに入った。一緒にいるときはすごくふざけているのに、ひょいと東大に入って行った。まるで足元に転がっていた小石をまたぐかのように、簡単そうに。僕はそれを見て、「本当に頭がいいやつが見てる世界は違うんだ」と異世界人を見た気がした。同じ日本人で同じ高校なのに、あたかも別の文化との接触であるように。いろんな頭の構造の人がいると学んだ。

 彼とだけの話ではないが、高校時代のそんな何人かとの出会いを通して僕は自分が天才肌ではないという事実に向き合わされた。凡人だ。

 どうやってもテストでも彼らのような点数が取れない。「よし頑張るぞ」と一念発起しても及ばず、自分は凡人だと思い知らされた。「凡人文化」と「秀才文化」という二つの文化が存在するなら、僕は秀才文化という一つの異文化に接触した凡人文化の住人だった。

 「努力に勝る天才なし」父親からずっと言い聞かされていた。自宅で書道でも繰り返し書かされていたほどだ。その頃は「うるさいな、わかっているよ」と反抗したくなっていたが、後で「僕のような凡人こそ、この言葉が大切だな」と内省するようになった。

 凡人のまま努力しなければ、今のような自分にはなっていなかっただろう。

 その後受験勉強を始めたが、僕は大学入試を甘く見ていた。

どこか受かるだろう。兄はいろんなことを突き詰めるタイプなので、高校の時部活を途中でやめて勉強に専念、現役で国立大学に進学した。「だから自分も大丈夫」そう楽観的なまま部活を引退まで必死でやった。インドネシアで外の世界を見た感動が忘れられず、憧れの「東京」そしてその先の「世界」を気持ちだけは目指していた。

 大学受験前の思い出といえば、獨協大学外国語学部英語学科が指定校にあった。運良く他に希望者もなく「よっしゃ!これで東京に行ける」と申し込もうとした。しかし評定平均が0.1だけ足りなかった。必要な評点は4.0以上、僕は3.9。絶望した。「0.1くらいなんとかして下さいよ」今思えば非常にバカみたいなお願いを本気でしたが、当然却下された。それでも粘ったら怒鳴られた。バカだった。

 あの時もし当時0.1足りていたら。そんな有り得ない仮定がふと頭をよぎることがある。そうしたら、出会う人も環境も違う私は、今とは違う場所にいただろう。そう考えると、0.1足りなくて本当に良かった。

 すったもんだの末、僕は一浪の末に大学に入るがそれはまた別の機会に語る。

2020年4月17日金曜日

関昭典教授 私の履歴書#3 高校一年生(インドネシアでの原体験)

 私は大学院修了後、26年間教師をしているが、国際交流が常に教育活動の基軸となってきた。高校教師の頃はカナダでの一か月間ホームスティプログラムを引率し、JICAの夏季高校教員派遣プログラム(ザンビア)にも合格した。新潟の短期大学では、オーストラリアやイギリスでの語学研修を引率した。現任校ではゼミで毎年南アジアや東南アジアで国際学生交流プログラムを開催している。タイやネパールに2年間暮らし現地の学生たちと協働する機会にも恵まれた。さらにAAEE, 一般社団法人アジア教育交流研究機構の代表理事としても、国際学生交流を推進している。昨年からはベトナム行政府のアドバイザーも任されることとなった。
通常業務もしっかりとこなした上での国際交流。振り返って考えると、我ながら思わず苦笑してしまうほど、怒涛の日々であった。
 その間、同僚や知人から幾度となくこう問われた。
「なぜ、そんなに国際交流にのめりこむのですか。」
しかし、その問いに対して丁寧に答えた試しがない。一言で答えられる問いではないし、何よりも私ごときの人生談に付き合わせることを気兼ねしていた。

「私の原体験を学生と共有したい。」

一言で答えればこれが原動力となっている。
本稿では、私が国際学生交流プログラムを志すきっかけになった「原体験」を記す。

 話は1984年、高校1年生の頃に遡る。それまで外国とは縁のなかった田舎暮らしの私が、ひょんなことからインドネシアにホームスティすることになったのだ。
 新潟の雪深い小さな町で育った私は、中学生時代まで外国や外国文化とは無縁の生活であった。15歳まで、外国人を見たのはたった一度きり。東京にもほとんど行ったことがなく、電車で2時間離れた新潟市にすら怖くて一人で行くことも出来ない田舎者であった。
 そんな私が高校1年の夏にいきなりインドネシアにホームスティに出かけることになったのだ。これは自分から希望したものではない。前年に、先生に言われるままに、校内暴力で荒れた中学校で過ごした経験をスピーチしたのだが、図らずも全国大会で文部大臣賞を受賞しその副賞がインドネシアでのホームスティプログラムだったのだ。(私の中学生生活については「私の履歴書#2」で書いた)

 インドネシアで待ち受けていたのは想像を遥かに超える、新しい経験だった。
 かねてから私は「この山の向こうに行きたい」と雪けぶる越後山脈を睨みつけ、小・中学生時代を過ごしてきた。そんな夢が突然に叶ったのだ。出発前、私はインドネシアについて中学や高校の図書館で調べ、ジャングルでも生き抜ける装備をリュックサックに詰め込んだ。
 しかし、いざインドネシアのジャカルタに到着して驚愕。飛行機を降りて眼下に広がるのは大都会だった。「この山の向こうへ行きたい」と望んでいた新潟の片田舎の少年は、越後山脈も東京も通り越して異郷の地ジャカルタの大都会に降り立ったのだった。
 出会うもの全てが未知だった。言語、宗教、気候、食べ物、ホームスティ先の家庭。

 まず、そんな全てが未知の世界に放り出されたからこそ、言葉の大切さを痛感した。
 英語で自分の伝えたいことがスムーズに伝わらない不自由さにもがき続けた。もちろん(日本語)スピーチで文部大臣賞を獲得するくらいだから、鈍感に言葉を使用していたつもりはない。だが、“伝わらない”という英語の壁に直面するたび、言葉の大切さを痛感した。この時の歯がゆさは飛行機に乗せて持ち帰り、帰国後まるで何かに憑かれたかのように英語を学ぶ動機になった。正直、授業は全く当てにせず、自分で勝手に学んだ。結果、音声のない我流での英語個人学習であったので発音はダメだが得意科目にはなった。その結果・・・、あれから35年経った今でも外国と英語と切り離せない生活を送っている。大学院終了後に高校の英語教師となり、ヨーロッパの人と結婚し、現在は勤務先の東京経済大学で「異文化コミュニケーション」を担当し国際交流委員長も務めている。どう考えてもインドネシアでの原体験がなければ今の私はない。
 インドネシアのプログラム中、ふとした時に世界地図をじっくりと眺めたことを記憶している。
 まず確認したのはインドネシアと日本、次に自分が育った魚沼盆地が臨める新潟の田舎町を探した。大きな世界地図の中で「日本」は小さく、探すのに手間取った。世界地図という巨視的視点で俯瞰すれば、日本ですらそんな小さいのだ。私の故郷の町の大きさは言わずもがな。点としても捉えることが出来ないほどちっぽけであった。
 それまで私の生きてきた“世界”。地元の高校だとか、商店街だとか。そういうものはグローバルな尺度で見ればとてつもなく狭い世界に過ぎなかったのだ。愕然とした。
 このとき自分の胸にストンと腑に落ちた「世界はこんなにも広い」という実感。(今思えば少々若さを伴った傲慢さを感じて恥ずかしいが)、「目の前に広がるこの風景(インドネシア)は僕の故郷の人たちには誰にも見えていないんだ。あんなちっぽけな世界にまた戻らなければならないのか」と帰国する飛行機の途上うんざりした(と日記に記してある)。

 当時私は15歳の高校1年生。15歳の少年にとって、10年後、20年後の自分は想像だにできなかった。ほんの少しだけ想像しようとしてもピントの狂ったカメラで撮った写真のようにぼんやりとしか、将来像は映らなかった。
 だが、インドネシアで貴重な体験をし、さらに地図を眺めて「世界の広さ」を知り自分の中で明確になったこと。
「このままじゃいけない!」
 そんな思いがメラメラと胸に燃え上がった。

 インドネシアでは、多くの時間を同年代のインドネシア、日本の学生と共に過ごした。インドネシアの学生との交流はとても刺激的で生涯忘れないが、日本人の学生メンバーもすごかった。全部で8人程度だったと記憶している。僕はスピーチコンテストの副賞で参加したが、他のメンバーは日本政府のプログラムに応募して選抜された有志たちだった。例えば日本の伝統芸能「能」の梅若流人間国宝のご息女や、インドネシア居住経験のある外務官僚のご息女など。新潟の自分の狭い世界(コンフォートゾーン)に閉じこもっていたら一生出会うことのないような、ツワモノ揃いだった。頭のキレがあり、堂々と自分の意見を主張しつつ、行動力も備わった彼らに気圧された。

 だが幸運なことに、こんなツワモノ揃いのメンバーの中でも私が一番優っていたことがある。当時15歳だった私がもっとも年長者だったのだ。小学生や中学生が多くを占める中で、高校生の僕は自然にリーダーのような役を任された。日本からの引率者や、インドネシア現地プログラム運営者側の大人と過ごす時間が多くなった。
 そして、こんなすごい国際交流プログラムを運営する大人たちを羨望の眼差しで見つめ、「自分もこんな仕事がしたい」と思うようになった。
 それから数十年、気づけば私自身が学生主体の国際交流プログラムを運営している。

 Experience without learning is better than learning without experience.という諺がある。「学なき経験経験なき学にまさる」という意味だ。振り返ると私の人生は、この諺に関連付けて考えることができる。
 例え幾百冊の書物を読んでも、経験を伴わない机上の空論では学生の心に響かないし実感を湧かせることが出来ない気がする。一方で、自分の経験に基づいて考え学んだことならば、伝え方(教え方)さえうまくいけば、同じ人間、個々の学生の心に届けることができるのではないか。教壇に立って何百人もの学生に講義をする際にはこの気持ちを大切にしている。結果私の授業には私自身の実体験満載である。

 思えば、大学入学以降の僕の学びはインドネシア・プログラムでの“経験”に“学問”を結びつけていく作業だった。
 異文化交流や言語について学びを深めるごとに、インドネシアでの経験が学びや研究へと深化して行った。

 私が東京に出てきて、南アジアや東南アジアで一風変わったタイプの国際学生交流プログラムを始めた当初、直面したのは決して肯定的な意見のみではなかった。前代未聞の取り組みに対する風当たりは決して穏やかなものだけではなかった。
 それから14年。まるでまっさらな荒野にレンガを一つずつ積み重ねて城壁を作るように、先例のない中で私はプログラムを継続して徐々に実績を積み上げていった。真っ暗な暗闇の中手探りでプログラムを発展させて行く中で、手元を照らす指針となるのはずっと昔のあのインドネシアでの原体験だった。
 「多文化共生」が日本社会のキーワードとなる昨今。原体験と知識が一体化した私自身が今後果たすべき役割を真剣に考え始めている。

2020年4月11日土曜日

立ち止まることとクリエイティビティ




 新型コロナウイルスが猛威を振るっている。
 小説の中でしか見たことがないような非常事態“を形容するような言葉がニュースを賑わわせるようになって久しい。パンデミック、世界恐慌、都市封鎖、緊急事態宣言、そんな恐ろしい用語が連日報道される。

 コロナの脅威に日常生活が一変した。私の勤務先でも大混乱中。子供から大人まで誰も経験したことがない事態が進行中だ。
 判断を下す者も“前例”の存在しない非常事態の最中にいる。
 他者を巻き込む決断をするのには大きな責任と勇気を伴う。決断者は、はたから見ると冷静に見えるかもしれない。例えば小池都知事然り、安倍首相然り。しかし胸中には(まともな責任者であれば)常に不安と迷いが渦巻いているはずだ。自ら下す判断に逃げ道はなく批判にさらされることも辛い。

 判断とは、状況を観察して自分なりの考えを決めることである。行き当たりばったりであってはいけない。「人がこう言っていた」「他の大学ではこうしていた」など目の前の即物的な情報にあっちにフラフラこっちにフラフラと右往左往することは正しく現実と向かい合う態度とは言えない。
 困難な状況であればあるほど“流されて下した判断”ではなく、自分の中で“腑に落ちた判断”が状況を打開する。

 必ずしも理論的根拠に基づくものではないが、私の経験を振り返ってみると現状を打開しうるようなアイディアは、そんな“腑に落ちた”決断から生み出された。このように自分の中で“腑に落ちた判断”を下せる能力こそ、クリエイティビティ(創造性)と呼びたい。

 ここまで読んでクリエイティビティに関心を持った学生読者もいるかもしれない。ではクリエイティビティ(創造性)のあるアイディアを思いつくにはどうすればいいか?
 日頃からあらゆる場面において、他の人に言われた通りにするのではなくて、自分の腑に落ちる決断にもとづいて行動するよう心掛けることだ。
 クリエイティビティは急には生まれない。「よし、クリエイティブになろう!」と思い立ってすぐに創造性溢れる人間に生まれ変わるわけではない。
 創造性は日常の観察と判断の積み重ねで強化されていくものだからだ。
 「自分に納得できる決断を下す。」言うは易し行うは難し、である。実際は多くの場面で組織文化や社会規範が自己判断に強い影響を与える。
 小さなことで構わない。普段からできる限り自分の考えを大切にしよう。自分の考えを疎かにして他者や社会に迎合することに慣れてしまうと、いつか取り返しがつかないことになる。
今からでも遅くない。立ち止まって考え、自分で決断を下すことを心がけよう。

今日も混乱の一日。眠りにつく前に思いつくままに書きなぐった。疲れた。