2020年7月24日金曜日

関昭典教授 私の履歴書#10(大学院時代、論文との格闘)

私が学部時代に求められた学習量は「私の履歴書#8 地獄の専門科目時代」で記した通り、一般的な大学生に比べるとかなりのものであった。卒業を迎えた時には「よくも乗り切ったものだ」と我ながら自分を褒めたほどだ。しかし、大学院での勉強の過酷さは学部時代の比ではなく、僕の想像を遥かに超えていた。“教育熱心な超一流学者を独占できるという理由で敢えて首都圏に出ずに新潟大学大学院を選んだ”と言えば聞こえがいい。しかし、 “別名「鬼学者」とまで呼ばれる厳しい先生の懐に十分な実力も備えぬまま気合いだけで一人飛び込んだ向こう見ずな学生”と言うのが実際のところであった。


 とにかく、与えられる文献(すべて英語)や授業内容が難しくてさっぱりわからない。さらに課題量も半端ではなかった。よく意味の分からない難解な英語文献数冊。これを来週までに・・・の繰り返し。ほぼマンツーマンの授業なので逃げ場もなく、珍紛漢紛であることを隠しようがなかった。当時の僕の気持ちを一言で表すならば、”恥さらし”という言葉が最も適切であろう。正直、“こんなはずではなかった”と後悔した。学部時代、「英語科教育法」の授業を通じて興味を持った英語教育の世界。その分野の知識を深めよう!キラキラと輝く希望の星のような気分で入学したはずだったのだが・・・。


 「なぜここまでわからないことだらけなのか」その理由を考え込んでしまう辛い時期が続いた。しかし、あるときに先生が大学3年生向けの授業を観察させてくれてくれたことで、すべての謎が解けてしまった。その授業内で米山先生は難しい理論の基礎を難解な用語を一つも使わずに“素人”でもわかるようにかみ砕いて説明してくれていたのだ。

「なるほどね。そういうことだったのか。」


 米山先生は研究だけでなく教え方も天下一品。僕が学部時代にこの分野に興味が深まったのは僕の実力のおかげではなく、先生の教え方が上手かったからにすぎないのだ。しかし大学院での米山先生は現実を突きつけてきた。叱責のようなものは学部次第より格段に減ったが。難解な英語文献を読み解くマンツーマンの授業。先生の笑顔の裏にある怖さは“一流のホラー映画”並みで、次第に心理的に追い詰められていった。

(僕の自律心を目覚めさせるための極めて高度な指導テクニックであったことが今となっては理解できる。)


 当時筑波大学の大学院を終えたばかりの若い20代の先生がいて、恐怖の授業の後によくお酒を飲みに連れていってくれたのが唯一の救いであった。あの息抜きの時間がなかったら、追い詰められたら僕は、新潟の奥地で『山月記』の李徴のように虎になってしまっていたかもしれない。あぶなかった。

(その先生が米山先生と僕のことについて連絡を取り合い連携してくれたことは、数年後に聞かされた。)


 入学後半年以上過ぎた秋口くらいからだっただろうか。ぼんやりとであるが文献に書かれている内容がわかるようになってきた。そして冬になると課される文献に書かれていることが大体わかるようになった。1年が終わった春休み。復習のつもりでそれまでに与えられた文献すべてに再度目を通して驚いた。なんと超速でほぼすべて理解できたのだ。明らかに実力が上がっているのを実感した。頑張った自分もすごいが、それ以上に米山先生の匠な指導力を崇めるようになった。


 ただ、一難去ってまた一難である。大学院では修士論文を完成させなければならず、そのテーマ設定に頭を悩ませた。論文作成の授業(1年後期~)が心に重くのしかかっていた。何しろこの授業では、自分から具体的にやりたいことを言わない限り話が一歩も進まないのだ(論文を書くのは僕自身なので当たり前なのだが)。授業の手順は一年半毎回同じだった。毎週火曜か木曜の4限、先生の研究室に重い足取りで向かう。研究室に入ると必ず先生はコーヒーを入れてくれて10分程度の談笑。その後先生の次の決まり文句で授業開始だ。

「研究の進捗状況を教えてください。」

最初の半年間(1年後期)は、この単純な質問に「特に何も進んでいません」と壊れたオウムのように毎週繰り返すしかなかった。

「そうか。それなら仕方ないな。ではまた来週。」

情景描写がなかなか上手くいかないが、「胃に穴が開く」かと思った。地獄の研究テーマ模索時代といっても過言ではない。


 しかし、「やまない雨はない」と歌い上げていた歌手がいたが、その言葉になぞらえるならば「終わらない論文はない」。ついに論文のテーマが決まることになる。七転八倒した修士論文のテーマをめぐる過程については、助長になってしまうのでここでは省くが結論として僕は英語学習者間での英語でのやり取りとと、英語学習者vs.英語ネィティブスピーカー」のやり取りの違いをテーマとして設定した。一度目標が決まると猛進する性格であることは既に何度も記した。そこからは、授業で先生に質問しまくり、紹介された文献はすべて読んだ。今の用に洋書は容易に手に入らない。”青春18きっぷ”で普通電車で東京まで丸一日かけて行き、紀伊国屋で求める本を買い漁った。有り金はすべて本に消えた。


 論文の執筆は、当時の僕にとって紛れもない「戦い」だった。とりわけ最後の半年はすさまじく、生活すべてが論文を中心に回っていた。やや大げさな比喩となるが、もしあの期間に世界が滅亡に向かっていたとしても、僕は気がつかずに最後の瞬間まで論文を書き続けたかもしれない。とにかく”夢中”だった。こたつの上にワードプロセッサーと、本だけをおいて一日中キーボードを叩き続け、夜になるとそのままこたつで横になって寝て、目が覚めるとまた叩き始める。他のことは一切頭から切り離した。テーマに悩み手ぶらで研究室を訪問していた一年前の僕はもはやこの世から消え去っていた。


 とにかく頭にあるのは論文のことだけ。自分の身なりなどどうでもよかった。落ち武者のような姿のまま、毎週米山先生の研究室を訪れた。あるとき先生は一瞬ぎょっとしたような顔をした後に一言、「顔色はかなり悪いが、顔つきはよくなった。後で鏡を自分の顔見てみなさい。本気になった人間の表情をみることができるぞ。」

 え、先生が褒めてくれた・・・たぶん褒められた・・・のだと思う。感動した。ただし、鏡の前の僕の姿は確かに醜かった。


 数年後、米山師が「前に関くんというすごい院生がいた。彼は僕がお薦めした本は全て買って、線を引っ張って読んで自らの血肉にした。あのような院生なりなさい」と後輩に心得を解くようになったことを人づてに聞くのだが、それはまた別の話だ。とにかくそのくらいあの時の僕は真剣だった。

 

 そんなこんなで無事、修士論文を仕上げることに成功。苦労しただけに大学院図書館にそのまま眠らせるのはもったいないと思った。そこで高校教師として働き始めた後も研究を重ねて学会の全国大会で発表し、学会論文集にも掲載された。論文名 Seki,A (1996). “Comparison of Negotiation of Meaning in NS-NNS and NNS-NNS Interaction”.

 

  苦難の大学院生活であったが、学会の論文集に掲載されたこと自信で得た。掲載された論文は早速両親に郵送した。モロッコカーペット110万円事件(私の履歴書#9参照)で大迷惑をかけて以来、「バカ息子」とすっかり信用を失っていただけに、僕がただの「バカ息子」ではないことを示したい一心であった(笑)。