2020年10月3日土曜日

ブログ note に完全移転のお知らせ

 本ブログの読者の皆様


ブログ「関昭典教授の研究室」をご愛読いただき誠にありがとうございます。

この度、諸事情によりブログを note に完全移転しましたので、以下のリンクで引き続きよろしくお願いいたします。

https://note.com/ikes822


「関昭典教授の研究室」担当一同





2020年9月23日水曜日

関昭典の研究室 私の人生に影響を与えた人物#1(植村直己)

 1.前書き

 

「なぜ貴方は毎年ネパールやベトナムなど、アジア中を駆け巡っているのですか?」

累計30回以上もアジア諸国へ学生たちを連れて行っているにも関わらず、その理由を言語化することは怠ってきた。忙しすぎたから・・・と言うと、まるでレポートの提出が遅れた学生の言い訳じみてしまうのであえて何も言うまい。

コロナウイルスによって十何年ぶりに現地での国際交流プログラムを開催できなくなったことをきっかけに、自分の半生を振り返る「私の履歴書」20202月〜9月にかけて連載した。

 

一方で、語りきれなかったことも数多くある。それは「私の履歴書」という観点から編集するにあたって、断腸の思いで削ぎ落とした要素たちだ。

「孟母三遷の教え」の慣用句では場所が人に与える影響の大切さについて説いているが、何も人間が影響を受けるのは場所だけではなく、人間からも大きな影響を受ける。

本連載は「私の人生に影響を与えた人」という観点から、しばらく書き綴って行く予定だ。

 

2.本文

 

 植村直己という登山家を知っているだろうか?

 植村の人隣りは以前から知っていたが、先日息子が読売新聞のコラムに記事を書くために家に転がしていた本を読んでふと思いついたことがあったのでこの機会に取り上げる。

 

まず植村のことを知らない読者のために彼の経歴を下記に引用する。

 

1941(昭和16)年、兵庫県生まれ。明治大学卒。日本人初のエベレスト登頂をふくめ、世界で初めて五大陸最高峰に登頂する。76年に2年がかりの北極圏12000キロの単独犬ぞり旅を達成。78年には犬ぞりでの北極点単独行とグリーンランド縦断に成功。その偉業に対し菊池寛賞、英国のバラー・イン・スポーツ賞が贈られた。南極大陸犬ぞり横断を夢にしたまま、842月、北米マッキンリーに冬期単独登頂後、消息を絶った。夢と勇気に満ちた生涯に国民栄誉賞受賞(引用:植村直己『青春を山に賭けて』文集文庫,BOOK著者紹介情報」より,強調は引用者)

 

 世界の錚々たる山々を制覇した植村の経歴だけでイメージすると、彼の話しているところを聞いたことがない人は、ともするとあたかもスーパーマンかのような体育会系のエネルギッシュな人物像を思い浮かべるかもしれない。

 だが、実際に彼がテレビなどで話しているところを目にしたことがある人が抱く印象は、プロフィールから抱く印象を大きく異なるはずだ。木訥とした、寡黙な男。世界的登山に成功した「覇者」のような貫禄をイメージしていた人は肩透かしに合うかもしれない。

 

 実は僕も最近、思いがけず学生を「肩透かし」な目に合わせてしまった。

 

 2020年の夏は、数多くの国際交流団体が活動中止になる中で僕の関わる団体はなぜか活動を増やしていた。例年行ってきたネパールやベトナムの海外交流プログラムに加えて、新たにバングラディシュ・プログラムも開幕。さらには新勉強会企画の発案。コロナ禍で逆に活発化する我々は周囲からは異様に見えていたことだろう。「肩透かし」を食らわせてしまったのは昼夜を問わずに続く準備会議やプログラム開催中であった。

 何しろ史上初のオンライン国際交流は想定外の事態の連続。会議は「ああでもない」「こうでもない」と錯綜。僕はネガティブ発言の連発にしびれを切らしたAAEEの学生から「しっかりしてください!」と怒られてしまった。(“学生を怒ったのではなく、学生に怒られる大学教員など前代未聞である・・・)

  僕の“華やかそうな”部分を見て共に活動することを希望してきた学生からすれば、「こんな頼りない人だったのか」と肩透かしを超えて幻滅に近い気持ちになったかもしれない。

 しかし一見矛盾するように感じられるかもしれないが、実は今までに手掛けてきた国際交流プログラムの成功は、この「自信のなさ」があるが故に生み出せたものなのだ。

 『青春を山に賭けて』のインタビュー箇所で植村さんが、「登山家・探検家として何が一番大切か」と問われて印象的な答えを返す。

 「臆病者であることです」(引用:前掲書)

 一瞬意外な答えだと思ったが、同時に深く納得した。世界的な探検家と自分のような一介の大学教員をなぞらえることは不遜にすぎて赤面するが、その無礼を承知でいうならば、どこか自分と植村さんが似ていると感じたのだ。

 

 僕自身のこれまでの経歴や現在の肩書だけ見ると、外交的な猛者だと勘違いされがちだ。

 しかし実際のところ僕は、他に類を見ないほどの空前絶後の超内向的人間なのだ。僕の胸中は常に不安が渦巻いている。他の人が「えっ、そんなこと気にしなくていいよ」と驚くほど些細な問題でも、僕にとってはまるで隕石が落ちて地球が滅亡するかの如く大問題として捉えて悩み込んでしまう。人が僕に向けて発するコトバの一つ一つに過敏に反応し落ち込む。クヨクヨと後悔する。

 考えすぎると、自分の心の中との戦いで忙しくなってしまって布団から体を起こすことすら億劫になってしまいそうになる。精神世界での戦いにエネルギーを取られてしまって、現実世界の体を動かすエネルギーが足りなくなってしまうのだ。数少ない僕の理解者が、僕が心身的にまずい状況になるのを見計らってお茶に誘ってくれるのが唯一の救い。

 そんな自分の性質を理解してからは、悩みすぎる前に行動に移すようになった。周りからは超行動的だと思われたりする。“衝動的スピード感”とさえ称されることもある。だが実際のところ、悩みすぎて歯磨きすら面倒くさくなる前に行動に移すという、自分の性格に合った戦略で行動をしているにすぎない。

2020年9月13日日曜日

関昭典の研究室 私の履歴書#最終章 (東京での活動総括)

  東京に異動してきた2007年から現在まで一貫しているのは日本と東南、南アジア地域の大学生との交流活動を基軸としてきたことだ。2011年~2013年にかけてはタイとネパールに居住しながら現地の暮らしを肌で感じてきた。

 活動の原動力となったのは、日本はこの地域の人々と共存する時代が近い将来やってくるという強い確信であった。しかし、当時の私の主張はなかなか受け入れられず歯がゆい思いをした。

 「待っていても何も始まらない」という経験をそれまでの人生を通じて学びとっていた僕は、「ならば勝手に始めるしかない!」と、AAEE,アジア教育交流研究機構という点のような小さな組織(非営利系一般社団法人)で志を共にする極少数の人々と地道に道を探った。しかし、僕には大学の専任教員という本務がある。本務を疎かにせずに両立するために、夜間、休日などの空き時間をほぼすべてこの活動に費やしてきた。実は東京に引っ越してきてから現在に至るまで、休暇らしい休暇はすべて合計してもわずか10日以内であったような気がする。振り返って考えると相当にクレージーな人生であった。

2008年~2010

 不慣れな東京での暮らしに戸惑いながらも、2名~3名での勉強会を重ね、日本、東南アジア、南アジアの教育動向について議論した。この当時はあらゆることが漠然としていて、訳が分からず辛い日々。それでも「動き廻っていれば何か見つかる」とモットーに、どこにでも出かけて様々な分野の方々の話を聞いた。少しでもネットワークが見つかれば、そこに出かけて小規模勉強会を開催した。

 

2011年~2013

タイ・ネパールを拠点に東南アジア、南アジア各国を周り調査。空き時間はほぼすべて現地の学生と過ごして学んだ。読み書きと睡眠時間以外、一人でいた記憶は全くない。さらにその学生たちを通じて“友達”の輪が広がっていった。彼らの連絡手段であるSNSを使いこなし、知り合った学生とは時間の許す限り個人的なやり取りをして交流を深めた。結果、数年かけて僕はあの地域に強大な若者ネットワークを構築した。「ローマは一日にしてならず」僕が自分の足でアジア中を歩き回って築いてきた人脈は、帰国後、僕をあらゆる場面で援護してくれた。

 

2013年~2014

 帰国後、多くの国の学生や大学教員が、本務校である東京経済大学との交流を熱望した。しかし、僕は無名の一大学教員。自己判断でできるのは、担当するゼミ学生に交流機会を与えることくらいだった。しかし、その「海外ゼミ研修」は、現地の日本ブームも相まって僕自身があっと驚くような‟化け物“のような凄いプロジェクトと化した。現地の新聞やテレビに連日取材され、我々が登場する舞台にはドライアイスや花火まで噴き出してきた。2014年のプログラムはベトナム外務省のホームページにまで紹介されたほどだ。しかし、帰国後、「これは大学の宣伝になる」と確信し、掲載された新聞を広報・国際交流セクションに持参したが、予想外の‟無反応”。これで僕の意思は固まった。「学外に出よう!」

 

2015

 そんなタイミングで発生した2015年のネパール大地震。運のいいことに、最強に「使える」人材が身近に存在した。僕自身の長男である。ネパール地震が発生したのは彼が上智大学総合グローバル学部に入学して僅か3週間後。稀有なネパール語話者、日本人・ドイツ人でもある彼は、多くの同級生を連れて応援に駆け付けた。ネパール地震復興キャンペーンは、彼らの助けなしには実現できなかった。実はAAEEに今でも上智大生が多いのは、彼が上智大学在学中にひたすら声をかけ続けてくれたおかげでもある。僕は無遠慮に彼の交友関係を浸食し続けた笑。

 この過程で僕はある大発見をした。大学教員 vs AAEE、二項対立で考えていたのだが実は両者は相互支援関係にあったのだ!僕は、空き時間を見つけては、異文化者間の交流を促進する手法を求めて学び続けていた。読みこなした文献も相当量になっていた。しかし、僕はそれを自分の趣味としか捉えておらず、このために大学教員としての本業を疎かにしてはいけない!と自分に喝を入れ続けてきた。ある年、それまでの活動を整理することだけを目当てに論文を書いて投稿した。人に読んでほしくないので、誰にも言わなかったのだが、親切な同僚が「素晴らしい研究をしていますね。びっくりしました!」と言ってくれた。思いがけないフィードバックであったが、その瞬間、目の前がぱっと大きく開けた気がした。

 以来、AAEEの活動をすることに何の引け目も感じなくなった。AAEEの活動にも本務校の教育活動にも真剣に取り組み、その成果を世界中の教育実践家や研究者と共有するようになった。やりたいことに好きなだけ取り組めてそれを「仕事だ!」と堂々と言える。これほどの幸せは環境はない。

 

2020年~

 本務校に恩返し中(詳細略)

 

まとめ

 僕の活動に欠かせないのは学生。特にアジア各国の学生と協働するようになってから、完全に夜型人間と化してしまった。例えばネパールの学生と話す場合、彼らの都合のいい時間は夜9時頃、しかし日本では深夜帯である。結果私が眠りに着く時間は平均して深夜2時くらいになってしまった。翌朝起きる時間は滅茶苦茶、毎朝同時間出勤の義務がない特殊な職場ではあるが、睡眠時間はバラバラな生活がもう8年以上続いている。しかし、やりたいことをやっているので苦にならない。

 学生が主体となって作り出す国際交流空間。そこから得られる多文化共生の学び。SDGs ゴール17「グローバルパートナーシップ」到達期限である2030年まで後10年。僕たちは、あなたたちは、何をなし遂げることができるのか。楽しみでならない。

そんな夢を持てる今の自分に到達するまでには随分と時間がかかったが、頑張ってきて本当によかった。

 

おわりに

これで「私の履歴書」シリーズ見事に終了。春に開始し大学の夏季休業中に完了しようと心に決めて取り掛かったが、ギリギリ目標を達成した。ただし、私一人の力で実現できた訳ではない。東京経済大学関昭典ゼミ所属生、内田充俊氏のたゆまぬ叱咤激励と協力がなければここまで辿り着けなかった。心から感謝したい。

 今後は、その時々で思いついたことを話題に不定期に投稿していきます。

なお、AAEEでの活動詳細は➡https://note.com/multiculturalism/n/n36bec34d0aa0

関昭典の研究室 私の履歴書 #23 ネパール・ヤギ小屋プロジェクト(ネパール大地震復興支援)

  201555日。必死の努力のかいあって、ゴールデンウィーク最終日にJICA地球ひろば国際会議場で開催されたチャリティイベントを、何とか無事に終えることができた。全国の名だたるテレビ局や新聞社が集結する一大イベントであった。その様子は当日夜のテレビニュースや翌朝の朝刊で大々的に報じられた。ニュースのみならず、ネパール地震関連の緊急番組でも特集された。

しかし大きな期待にはそれに比例して責任も大きくなる。チャリティイベントで支援金を引き受けたことで、集まった金額以上に、責任の重さが僕の双肩にのし掛かってきた。例え1円でも人からお金を受け取ったら、それを適切に使って報告する義務が発生する。その責任を自分たちが負うことが本当にできるのか、それが正しいことなのか・・・

 そもそも振り返ると僕自身、小学生の時から募金活動には懐疑的な視点を持っていた。例えばベルマーク募金や赤い羽根募金など、先生の求めに応じて協力していたが、果たしてどのように使われているか判然とせず、不審な思いを募られていた自分がいた。

 さらに、元来楽観主義者ではない僕は、考えこみ始めると悲観的になり過ぎてドツボにハマってしまうことがある。意図せずにメディアで急に脚光を浴びてしまったことによる一部の方々の謎深き“批判”も心に刺さり、行動を起こしてしまったことに後悔する時期もあった。しかし、一度始めたら責任は全うしなければならない。責任者として、支援者を裏切らず資金の不透明な流れは一切作らないように責任感を募らせていた。

 学生たちは本気になっていた。それまで互いに交流のなかったAAEEと東経大関ゼミの学生が、ネパール地震復興支援活動「メロ・サティ・プロジェクト」のメンバーとして協働し始めたのは興味深かった。さらに被災国であるネパールやアジア各国の学生たちも加わっての議論が始まった。Brewer (1997)は「共通内アイデンティティモデル」を提唱し、互いに文化の異なる集団を「ウチ」集団とするために、「ソト」文化を包括するような上位カテゴリーを形成する手法を提案した。ネパール地震復興支援「メロサティ・プロジェクト」は正に「ソト」集団同士を結びつける「上位カテゴリー」であった。ゼミ生がデザインしたお手製のリストバンドをベトナムの学生がホーチミンで手配し、東京経済大学構内や上智大学構内その他都内各所、アジア各国の大学で募金販売した。

 募金活動と並行して「使い方」を何度も話し合った。短い期間で学生たちは何度も対策会議を行って話し合った。会議に当たっては、僕が寄付してくださった方々の思い分析して以下の3つを伝達した。

1. 本当に困っている人に届けること

2. 日本やアジア各国の学生と被災地ネパールの学生が共に考えること

3. 教育支援であること

 地震直後、ネパールの知人たちから、国際支援物資が空港外の屋外に山積みになっている、道路が寸断されているので被災地に支援が届かない、支援金搾取などかなり正確な情報を得ていた。そこで、メディアや周囲の団体の慌ただしい動きに惑わされずに落ち着いてしっかりと準備することを皆で確認した。

 支援地は被害が最も深刻なゴルカ地域の村に確定。支援方法は地震で住居、仕事を失った家庭への「ヤギ小屋プロジェクト」。ネパールではやぎ肉やヤギ乳が重宝される。やぎ小屋から出た利益の半分をオーナーが得て、残り半分を村の教育費に充てるというもの。その教育費の友好利用を長期的に検討していこうという結論に至った。その村では学校も損壊し支援を希望していたが、緊急竹製学校の設置を僕がネパールのNPO団体と交渉した。またそのNPOを通じてネパール政府に新築の要請をした。AAEEは教育団体である。そのノウハウを使うべきは教育内容の充実であり建物建設にはないのだ。説明がくどくなってしまったが、要するにAAEEと現地NPOが共同で、やぎ小屋と緊急竹製学校を支援することになった。被災地の人々には①やぎ小屋建設➡②学校建設の順番を崩さないように繰り返し使えた。教育の充実のためにはやぎ小屋経営から生み出される教育費が不可欠と強調した。

 地震から4か月経過した8月、AAEE日本とネパールの学生20名が被災地を訪れて言葉を失った。竹製の学校は完成していたがやぎ小屋には手つかずだったのである。何日もかけて被災地に辿り着いてこの有様。さらに、悪びれずに完成した学校の開校式に招待する村の幹部たちには愕然とした。現地のAAEEの学生アシスタントたちは頭を抱えるばかりであった。

 参加メンバーですぐに「緊急会議」を開催。選択肢は「支援打ち切り」「支援継続」の2択。1時間半議論した結果「支援打ち切り」を決定。数時間後には村を後にした。

 「支援打ち切り」=支援者への責任を果たしていないことを意味した。深刻な事態である。しかし、十分に信頼できない人々活動することを支援者の皆さんは望まないと思っての厳しい判断であった。

 帰国後、より注意深く支援地を検討し、ヌワコット郡の被害が大きかった村を支援することとした。日本―ネパールの新たな「学生支援検討グループ」を設置し準備した。そして、翌20162月。日本、ネパールの17名学生が現地を訪れ、建設完了したやぎ小屋と、そこから利益が生み出される仕組みを確認することができた。そして、帰国後の5月、AAEEが開催したイベントの中で、「ネパール地震緊急支援募金の活用報告」をした。ちなみにこのイベントは外務省やJICAに後援していただいた。

地震発生から丸一年の試行錯誤。イベントを終える頃には、もはや心身共にへとへとだった。その後数週間は大学教員としての本職以外、ソト世界との交流を完全に遮断してしまうほど疲弊していた。

2020年9月8日火曜日

関昭典の研究室 私の履歴書 #22 子育ての振り返り

 

前回からの流れ(ネパール大地震対応)を一旦切って、今回は子育ての振り返り。

 僕には2人の息子がいる。僕は二人の子育てが面白くてならなかったし、かなりはまっていた。「僕の考える子育て」というタイトルを立てても一本のブログが立てられそうだ。しかし、一方で僕は好き勝手な行動を繰り返していたわけで、振り返ってみると彼らは親の身勝手な行動にもめげずに、逆にそれをバネにして逞しく育った感じがする。獅子は子を教育のために千尋の谷に突き落とすというが、僕の身勝手な行動に振り回されることが奇しくも「千尋の谷」に相当していたのかもしれない。

長男は、既に度々触れてきたように超独特の感性を備え学生時代を謳歌して社会に巣立っていった。小さな頃はおとなしめの性格だったのに高2でネパールから帰国してからは「勝手に講演会」「世界にトビ立てなんとか」とかいろんな活動に首を突っ込むようになりもはや僕の手には負えなくなってきた。ネパール前後で彼の性格は内向→外向に大きく変化したが、その変貌ぶりはまるでネパールにいる間に外見がそっくりなドッペルゲンガーに入れ替わられたくらいであった。彼の子育て中の出来事はもはやギャグ満載すぎてそれだけで一冊の本になりそうである。結局、やたらと「目立つ」作品が完成した。

一方、二男は派手な長男の陰に隠れて中々目立ちにくいが、実はポテンシャルは長男を遥かに超えるとの父親評。彼の生い立ちを辿ることは私の人生を振り返るに相応しい。

新潟市で生まれた彼は海岸近くの自然豊かな地で幼少期を過ごす。幼少期は大変活発で、鳴き声も大きく手がかかる子どもであった(長男とは対照的)。生後かなり早い段階から、テレビ番組で取り上げられるほどの最高の環境の保育園に毎日通った。そんな彼に転機が訪れたのは保育園年長組の秋口。父親の指令で「いきなり」東京に引っ越しを命じられたのだ。幼児の彼は親の言うがまま。保育園の先生方は彼に同情したが、当時の僕からすれば家族を東京に異動させることが最優先事項であった。

東京に引っ越し後は、某インターナショナルスクールに入学し数か月間過ごす。しかし、長男が学校に馴染めなかったことにより、彼は再度都内で引っ越し、新たな学校に入学した。その学校でもよい先生や級友に囲まれ、毎朝誰よりも早く学校に到着したいと言ってきかなかった。しかし、父親の仕事の関係で小3を終えた段階でタイに引っ越しをする。東日本大震災直後の騒動で、級友に別れも告げることができずに飛び立った。

タイではバンコクの日本人学校に通った。その学校を見た父親は、ここにずっといてはタイの文化を学ぶことができないと、帰宅すると常にタイの学生がいる環境に置かれた。そこでも彼は前向きに元気に暮らした。タイ語もうまくなり、四年生で一番タイ語が上手いとまで言われるようになった。しかし、夏過ぎから大洪水に見舞われ学校は長期間休校になる。避難のためにいくつかの国を転々とした挙句にネパールに辿りつき、親の言われるままに、現地校(私立)に2カ月体験入学させられる。そこでも彼は前向きに元気に過ごし、いい友達にも囲まれる。しかし2カ月後にはバンコクに帰国を命じられネパールの友達とお別れ。

ここまで書いただけで彼には大変な思いをさせてしまったと反省するがまだまだ続く。

 バンコク日本人学校に復帰し数か月後に、親に言われるままに再びネパール行きを余儀なくされる。そして、貧困児童を救うための全寮制チャリティー学校に放り込まれる。川で洗濯、ろうそくの灯りで勉強。そこでも彼は活力は衰えず、すぐに言葉も覚えてリーダー格として活躍するようになる。さらに、朝学校が始まる前に僕の暮らす場所に来て2時間日本の教材で学びその後に学校に戻っていくハードな暮らし。加えるならば、当時のあの学校をわかりやすく表現すれば「なんちゃって学校」。学校がないよりあった方がいいだろう、というノリで運営されていて先生は8割が高校生。彼の先生方はよく、内緒で彼にテストの答えを教えてあげてくれていた。体罰やけんかも日常的、挙句の果てには彼の英語の先生が家出をし、僕も含めて皆総出で探し回るという珍事件まで発生した。

 そこで一年間暮らし、日本に帰国、元の私立学校に戻ろうとしたら感染症が発覚し帰国後間もなく杏林大学病院に入院。入院生活は3か月間にも及んだ。ICU(集中治療室)も経験し死亡確率〇〇%と言われて心底あせったが無事回復。その後無事学校生活に戻る。すると小学4年次に親に薦められてはじめたブログを小まめ更新する几帳面さを備える彼は、退院後の夏休み、そのブログを発展させたものを次から次へと作文コンテストに応募し受賞しまくる。高円宮妃殿下とも2年連続で会話を交わした。

 その年の冬、彼は某都立中高一貫校を受験するも不合格。通っていた私立学校は、小中高一貫校であったが、他の学校を受験した段階で上級学校には進めない仕組みとなっており卒業式と共に退学、中学は自宅近くの公立中学に進学した。この中学時代は父親目線では、彼の激動の人生の中で唯一‟人並み“な日常に見えたが、彼は読売新聞のジュニア記者に応募、合格し頻繁に一時間以上かけて都心の読売新聞本社に通った。そして高校受験。猛烈に勉強をし、超進学校である国立高校や立川高校に合格できるレベルに達する。多摩地域最難関公立である国立高校は、雰囲気が合わないと対象から外して立川高校に合格。

 高校入学後は一転高校生活を謳歌、一年次はほとんど勉強せず成績もそれなりだった。しかし、課外活動ではやたらと活躍し、ウォータボーイズ、演劇、英語スピーチ、読売新聞、至る所に彼はいた。有名な政治家やノーベル賞学者とのツーショットをいきなりラインに送ってきて「こいつ何者?」と思わされたことも少なくない。高3合唱コンクールでは指揮者。彼の指揮者としての動きは明らかに他のクラスの指揮者とは違った。あたかも世界的指揮者、小澤征爾と競っているかのようにその場のハーモニーに入り込んでいた笑。高3全英連全国スピーチコンテストでは、予選通過したものの本選の直前になって、「(自分で書いた原稿にもかかわらず)この原稿は僕の本当に言いたいこととは違う」と突然言い出し、本番では、(まさかの!)予選通過した原稿と全く違うことを堂々と話して見事に失格(先生方はあきれていた。暴挙にでながらも、直後に先生と所に向かい謝罪したのは可愛らしい)。

 一方で、高校一年生の頃から大学は海外でと言い切り、父親からは奨学金を取ってこいと命じられる。しかし大学卒業まで面倒を見てもらえる奨学金試験に一次選考で敗北して断念。高校年後半で再度海外への進学を希望するが、「金がかかるから辞めてほしい」と親に言われ断念。一転「ならば僕は東大に行って日本一になる」と高らかに宣言した。家族一同拍手喝采(笑)したが、東大に合格できそうな気配は全く見えず、高校3年途中に早々と敗北宣言。その後必死の努力を重ねるも、大学受験全敗して現在浪人中である。

 以上、彼の人生を僕の一方的な視点で羅列したが、彼はよくも潰れずにここまでやってきたと頭が下がるほどだ。国際結婚の間に生まれた子どもとしての苦労も合わせると尊敬に値する。ここまで育ってくれただけで父親として十分に満足なので、もはや彼の進路や生き方に口出しする理由などどこにも見当たらない。

2020年8月28日金曜日

関昭典の研究室 私の履歴書 #21 ネパール大地震発生

 2013年に帰国し、息子の病気も完治し、東京経済大学での教育研究とAAEE,アジア教育交流研究機構代表理事の活動の両立も軌道に乗り始めていた。それまでにもう人一倍多くの貴重な経験をさせていただいたので、今後その経験を学生教育や研究活動にどう還元していくべきか、必死にさぐる充実した日々を過ごしていた。 

(帰国後二年間の活動の推移については以下のブログに譲ることとする。  

 2015年、その後の僕の人生再び翻弄する悲惨な大事件が発生した。 「事件は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きてるんだ!」という某警察映画のセリフを拝借するならば、地震が起こったのは会議室ではなく、ゼミの最中だった。  
 忘れもしない2015年4月27日、ゼミではその年の夏にネパール研修に行くことについて話し合っていた。ゼミ生たちが真剣な雰囲気で意見を交わし合う中、1人の女子生徒がスマートフォンをじっと見つめていた。「おい、今は授業中だよ」と諭す僕に彼女は真剣な瞳で、答えた。「授業中に携帯を見てごめんなさい。でも先生、ネパールが大変です!!」今まさに議論の俎上に上がっているネパールで大地震がおきたんです。両手を振り回しながら熱心に訴えたのは、台湾出身の学生だった。  
 教室はザワザワとどよめいた。実はネパールでは地震は滅多に起きない。この地震が起こるまでは100年ほど地震が起こらなかった国なのだ。「100年ほど前」と言ってもいまいち実感が湧かない方のために、日本で100年前はというと大正時代の選挙権が「直接国税3円以上納める25歳以上男子」と規定されていたほど昔のことだ。それほど前から地震と無縁な生活を送ってきたネパールの人にとって、地震の恐怖は日本人の比ではなかった。  
 のちに気象庁によるとネパール大地震は首都カトマンズの北西約80キロを震源に発生した地震で、マグニチュード7・9。周辺国も合わせ8千人以上が死亡、40万棟以上の家屋が被害を受けたと判明した。  
 知人・友人の多いネパールが大地震に直面しているのに、のんきに「今年の夏のネパールの研修は・・・」などと語っている場合ではない。ゼミの授業は急きょ中断、手分けしてインターネットでネパールの情報収集が始まった。調べれば調べるほど、これは本当に大変な事態らしいという情報が集まってきた。ネパール空港から近い場所にバックタップルという都市がある。僕も何度も滞在し、知り合いが数多くいる。そこの家や寺院が崩壊していく様子がネット上やテレビで映し出された。
 ネパールの家屋の多くは木造建築、特に家屋が密集しているバックタップルは、日本で例えると江戸時代の「長屋」に近いだろうか。地震ではひとたまりもなかったのだ。「どうか無事でいてくれ」震える指で何人もの友人に安否確認のメッセージを飛ばした。数人からはすぐに返信がきたが、しかし待てども待てどもリプライがこない人がいた。町並みが地平線に変わるかのような大地震だったのだ、通信が悪いのだろう。祈るような思いで待つ時間はじりじりと経過した。彼女はいつもすぐに連絡を返してくれたのだが、このいつになっても返信はこなかった。後に行方不明との知らせを聞いて愕然とした。  
 「何かしなくてはならない!」画面をフリックするたびに更新されるネパールの悲惨なニュースにもどかしく思った。学生たちは額を突き合わせるようにして真剣に意見を出し合った。もはや普段のゼミなど比べものにならないほどの必死さ。しかし「これだ!」と思えるような意見は出ないまま時間だけがじりじり経過した。「応援メッセージなら届けられるのではないか」ポツリと呟いた僕の声に、一気に意見がまとまった。  
 当時の関ゼミ生は前年度・前々年度にベトナム研修を行っていたので、ベトナムではたくさんの学生との密接な繋がりがあった。さらに、僕は外国に暮らしていた時に東南アジア、南アジアで地道にAAEEネットワークを築いてきた。彼らに一斉に連絡をとり、「”Pray For Nepal(ネパールのために祈ります)”とパネルを持って、写真を撮って送ってください。今日中にお願いします。」と訴えた。  
 今、この時に苦しんでいる彼ら、彼女らに声を届けたいという思いだけだった。他にできることはない。そう思っていた。 
 300人! 
 それがわずか数時間でネパールへの応援メッセージを送ってくれた人数だった。当時のゼミ長と深夜までやり取りをし、すべてのメッセージを一枚の写真に収めるアプリを探したが見つからなかった。そこで最大限の人数を収めた写真を応援メッセージと共に震災当日にAAEEのフェイスブック英語ページで公開。ネパール地震に、このスピードでフェースブックで反応した「世界最速」の団体となった。  
 世界1位。この称号は大きな価値を持つが、望んで獲得できるものではない。多くの要因や運に恵まれないと、この称号を関することはできないからだ。そしてどんな分野であれ、「世界1位」のタイトルは色々な意味で重みを持つ。例えば「日本で一番高い山は?」と尋ねられれば小学生でも富士山と答えられる。しかし日本で2番目に高い山を北岳と答えられる人はクイズ選手権の優勝者くらいだろう。実は富士山と北岳はたったの500m程度しか高さの点では差がない。だが、注目されるのは圧倒的に1位の富士山だけである。  
 この時の関ゼミとAAEEも瞬間最大風速的に「ネパール地震への反応スピード世界1位」を獲得したのだ。(もちろん狙った訳ではないし、狙ってできるものではない。関ゼミもAAEEも「その夏ネパール研修に行こうとしていたこと」「アジア諸国との厚いネットワークを構築できていたこと」「学生たちが寝食忘れるほど没頭したこと」などいくつもの歯車が奇跡的に噛み合った結果である。だが、この「ネパール地震への反応世界最速事件」によって、ここから数ヶ月間にわたって関ゼミはテレビの取材らやメディアへの露出やらに追われることになる。  
 地震翌日の28日午後にはNHKの「ニュースウォッチ9」の取材を受け、ネパールの状況を聞かれるがままに答え、当日のトップニュースで詳しく取り上げられた。まさか、自分がテレビニュースでネパールのことで取り上げられるなど思いもしなかった。さらに前夜の”Pray For Nepal(ネパールのために祈ります)”投稿は、いいねとシェアが止まることなしに世界中で押され続けて、通知が鳴り止まなかった。まるで一日だけドナルド・トランプのSNSアカウントになったかのような拡散力だった。世界各国を拡散する過程で、途中でイスラム教の人とキリスト教の人がコメント欄で喧嘩までし始めた。  
 いつまでたっても鳴り止まない通知にスマホが熱くなり始める頃、僕の頭も高速で回転して発熱し始めていた。その時頭にあったのは2つの悩みだった。1つ目は「その夏(2015年)のゼミ研修をどうするか」ということ、2つ目はネパール関連の知人たちからの助言だった。  2つ目の助言とは、「メッセージを送って応援するのもいいけれど、せっかく貴方はあの方面に強いネットワークを持っているのだから、それを活用した活動をすべきだ。誰でもできることではないから」というものだった。この趣旨の強い要望を数人の方々からいただいた。NHKニュースで取り上げられた翌日だったということもあったのだろう。  
 しかし、国際支援は僕の範疇ではないし、僕はネパールの専門家とは決して言えない。何よりも年度が始まったばかりの多忙な時期だった。「どうしよう、どうしよう・・・。」数時間身動きもせずに考えた末、「もうわからない、行けるところまで行ってしまえ!」と前を向き始めた。すべきことの道筋は見えていた。この状態の僕が時に尋常でない力を発揮することは過去にも経験済みだ。
 「一刻も早くチャリティイベントを開催し、ネパールの現状を人々に知らせる。」  
 帰国した年から、AAEEで毎年学生たちとイベントを開催し、外務省やJICAから後援をいただいてきた。そのネットワークを使うしかない(他に方法を知らなかった)。通常、外務省の後援をいただくためには1か月はかかる。しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。必死で企画書を作成し外務省に「ダメ元で」ファックスした後で直談判。「明日からゴールデン・ウィークに入ってしまう。この時期にすぐに後援を決定することなど不可能だ」と言われながらも、粘りに粘った結果、何と連休前、わずか半日で後援名義使用を許可していただいた。担当官から、「外務省の歴史を見ても極めて異例の判断です。我が国がネパールを重視しているその思いをネパールの方々に届けてください。」という応援メールまでいただき感極まった。 続いてメディアリリース。あらゆるテレビ局新聞社にファックスを流し続けた。
 これら一連の活動に学生も協力してくれたが、彼らはやり方を知らない。結果生まれて初めて”三日三晩寝ずに”作業し続けた。その間朝のワイドショーや日曜朝のお馴染みの民放番組から出演依頼があったがすべてお断りした。イベントの準備で精一杯だった。  
 5月5日の実施に向けて、ゼミ生の学生たちやAAEEの学生たちが大活躍してくれた。東京経済大学や息子の通う上智大学で連日ミーティング。息子の多くの友達が連休返上で協力してくれた(ネパール大地震は、関ゼミの学生が他大学の学生と一緒に活動するきっかけともなった)。 そしていよいよ当日を迎えた。会場となったJICA地球ひろばは多くのマスコミ関係者と全国からお集まりくださった支援者の方々で埋め尽くされた。

2020年8月22日土曜日

関昭典の研究室#20(国外居住 ② ネパール)

  タイの歴史に刻む大洪水が収まってネパールからバンコクへ帰国したものの、洪水の爪痕が色濃く残り教育機関も大混乱の真っ最中。とても教育調査のお願いなどをできる雰囲気ではなかった。逆の立場になってみたらもし自分の家が水没しかけて混乱しているところに、ノコノコと外国人が「教育の調査が・・・」などと押し掛けてきたら迷惑千万どころの心象ではない。「何を呑気な!」と、人によってはビンタを食らわす衝動にすら駆られるかもしれない。

 だが僕は教育調査を目的に日本を飛び立った、研究の進捗を生まずに帰国するわけには行かない。まさか研究成果の代わりにお土産のお菓子をたっぷりスーツケースに詰め込んで日本に帰っても歓迎されるはずがないことは火を見るより明らかだった。頭を抱え悩んだ末に決意したのがネパールへの拠点移動である。「拠点移動」わずか4文字だが、経験者には周知のとおり引越しは国内でも一苦労だ。外国からさらに外国への家族を伴う引っ越しは想像以上の大きな作業だった。しかし、このままバンコクに居続けた場合のビジョンが、まるで山頂で濃霧に遭遇したかの如く見えなくなってしまっていたのだ。

東京の本務校には正直に事情を話し、許可はいただいたが家族でのネパール引っ越しはさほど単純ではなかった。ドイツ人妻は驚異的全世界対応型グローバル人材(7か国語話者)。食べるだけで世界中の人と言葉が通じる秘密道具として、ドラえもんの「翻訳こんにゃく」があるが、妻は「翻訳こんにゃく」を食べずして地球上のほとんどの国で言葉が通じるのだ。言葉の問題は考慮しなくても良いと思い、どこでも大丈夫だと思っていたが、「カトマンズ(首都)だけはやめてほしい」と言われてしまった。理由を聞くと深刻な大気汚染。彼女の理屈はよく理解できたがカトマンズ大学客員教授のポジションが得る目途が立っていた僕はかなり戸惑った。さらにネパールでは高等教育はカトマンズに集中している。さらに頭を悩ませたのが小4の二男の学校。

考えに考えたあげく出した結論は、カトマンズからバスで8時間程度の場所に位置し、ヒマラヤの玄関口とも呼ばれる“ポカラ”という小さな町(といってもネパール第二の都市)に住む方法だ。ここならば空気も悪くないし知り合いにも恵まれている。妻は納得した。しかし、二男にはやや酷な経験をさせざるを得なかった。僕自身が当時関わっていた貧困児童救済のための学校に“留学生”として受け入れてもらったのだ。狭い一部屋に8人がひしめく全寮制。担任の先生は17歳。教師の平均年齢18歳。洗濯は川で、水は井戸水。これほどの劣悪な環境で小学時代を過ごした日本人(&ドイツ人)は彼の他にはいないと断言できる。ただし、僕はそこまで無責任ではない。彼の学校のすぐ隣の高層階に暮らし、毎日学校を観察した。それどころかアドバイザーとしてほぼ毎日学校に通い、高校生教師たちに“教え方の指導”までした。ちなみに、そこの生徒たちは農村部の極貧家庭の子どもがほとんどであったが、頭はキレる子たちだったので、教え方を工夫すれば力はついた。息子には、ほぼ毎朝2時間、僕自身が日本の教科書で‟ホームスクーリング“して補った。ちなみに二男のネパールでの暮らしの集大成は:

https://www.fujitv.co.jp/charity/event/2013_1206zenbun.html

当時のネパールは政治的にかなり不安定で、新憲法もなかなか制定することができずストライキが頻発していた。1日に18時間もの停電にはさすがに度肝を抜かれてしまった。18時間といえば1日の4分の3にも相当する。もはや電気製品はほぼ意味をなさない世界であった。そんな中ポカラのネパール観光大学に客員教授として籍を置かせていただきながら、教育の中心地であるカトマンズにもよく足を運んだが、物事が順調に進むことはほとんどなかったと言ってよい。教育省や高等教育機関では、深刻な“汚職”を眼前にして何度も絶句した。僕自身、非常に大事な場面で「包み」を渡さなかったばかりに大変大きな犠牲を払った(詳細は退職後に話す笑)。

 この窮地を救ってくれたのはネパールの学生たちであった。特に、僕の活動を知って手伝いたいと申し出てくれたMahimaという女子学生は、その後家族ぐるみで僕の活動を支え、持ち得るすべてのネットワークを駆使して最大限の努力をしてくれた。彼女を通じて知り合う人たちは善人ばかり。協力者が一気に増えていった。ポカラだけでなくカトマンズの善人たちとも急速に繋がっていった。

現在でも僕は多くの時間を学生と過ごし、「学生パワーで世の中に変革を!」という活動をしているが、その原点がMahima。そして、彼女を中心とした数名の学生と9か月間もかけて作り上げたのが、20132月に開催した「ネパール ― 日本学生交流プログラム2013」現在の国際学生交流プログラムの原型だ。僕の日本での前任校(新潟県立大学)の学生たちからの依頼を受けて実現したものだ。熱中したらトコトン突き詰めるところのある僕はまるで重箱の隅をつつくように、側から見たらあまりに細かいところまで突き詰めて準備したので、彼らは正直“ウザい”と思っていたかもしれない。でもMahimaは辛抱強く彼らのモチベーションを維持してくれた。結果このプログラムは大成功。僕の心に新たな世界が広がった。

 ちなみに、僕が代表を務めるAAEE, アジア教育交流研究機構のフェイスブックのページを立ち上げてくれたのも彼らだ。10人ぐらいの学生で一生懸命にAAEEの活動を宣伝くれた。

帰国数か月前のある日、一人の学生が「プロフェッサーが帰国する前にお礼として何かプレゼントしたい・・・しかし僕たちにはお金がない」と嘆いた。僕は冗談で「AAEEのフェイスブックで1,000人を達成したら僕は天にも登る心地だ」と答えた。その冗談を真に受けたネパールメンバーは本気で集客を始めた。

 そして僕がネパールから日本に帰国する数日前。パーティーが開かれ、そこで彼らの友人が押して見事1,000人を達成。クラッカーで祝った。超感動した。今や20000人を超すフォロアー皆に、あの時の感動伝えることが出来たらいいのにとよく思う。(1000人を達成した瞬間の映像は:

https://www.facebook.com/akinori.seki.54/posts/484887954906399   

フォロアー20000人に達したAAEEのページは:

➡ https://www.facebook.com/AsiaAssociationOfEducationExchange/)

 

 最後に余談となるが2年間の海外在住中、ある出版社と契約してある雑誌で「アジアの国の学校」という刊頭特集を執筆させていただいていた。調査のために短期滞在した8カ国で高校や大学などの教育機関を観察させていただき、その様子を12回に亘り執筆して記事にしていただいた。そのおかげで東南アジア、南アジアで多くの善良な方々と知り合うことができ、今でも交流を続けている。

 

 苦難の二年間であったが、同時に多くの「心豊かな」親切な方々に支えられて満足のいく国外研究生活を終えることができた。何よりもこの二年間で得た最強のネットワークがその後の僕の活動を飛躍させることとなった。

関昭典の研究室#19(国外居住①タイ)

 2011年~2012年度、二年間外国に居住した。東京経済大学に籍を置きながら「国外研究」という制度を利用した。居住地はタイのバンコク(だけのはずだった・・・)。ここでは細かい研究の話は抜きにして、これまでに語ってきたことの流れで記す。

 本題に入る前にどうしても触れておかねばならないことがある。2011311日、東日本大震災。あの地震の瞬間は大学の7階の会議室で教授会の最中だった。あまりにも揺れが激しくて「これ、建物崩れるのでは」と同僚が思わずつぶやいたほどだ。まるで巨人の手で建物を掴まれてゆさゆさと揺さぶられているかのような激しい揺れだったのだ。その夜は帰宅難民となってしまい、大先輩同僚のお宅にお世話になった。家族に連絡が着いたのはよく朝のこと。昼すぎに電車が動き、帰宅すると・・・ドイツ人の妻が大騒ぎしていた。「早く逃げないと。被ばくする!」福島第一原発が電源喪失していた件は知っていたが、テレビニュースを見る限り何とか制御されているようだった。僕が「落ち着いて。大丈夫」と答えると、彼女はドイツに住む原発専門家の友人との通話をスピーカーオンにして、僕がより理解できるように英語で話し始めた。「どう見てもメルトダウンしているとしか考えられない。」彼の見解は当時の官房長官枝野氏の会見とは全く異なるものだった(結局ドイツ情報が正しかった)。そして間もなくドイツ外務省から妻宛てに避難勧告メールが届いた。そう言われても、既に45日のバンコク行きのフライトを予約してあったし、引っ越しの準備なども何もしていない。困り果ててしまった。相反する意見の違いの間に挟まれることをことわざで「板挟みになる」というが、妻と大学という二枚の板に挟まれた。決断する前は、割れつつあるクレバスの裂け目に両足をそれぞれ乗せて体が引き裂かれるような葛藤に苛まれた。しかし時間は待ってくれない。まるで足元の氷の割れ目が広がっていくように、決断の時は迫ってくる。

結局、大学に特別に許可を得て、大慌てで準備をして家族でタイに旅立った。

地震発生から出国までの5日間はもう滅茶苦茶。周囲の人々が妻のメルトダウン・パニックを「何ておおげさな」と冷ややかに見ていた。海外への引っ越しには様々な手続きを伴うが、彼女の立場に立って急遽出発する事情を話す僕への視線も概して冷ややかだった。日本に暮らす外国人の気持ちが少しわかった。

 

タイでは、バンコクのチュラロンコン大学教育学部の客員教授 (Guest Professor)としてお世話になった。チュラロンコン大学はタイ最古の大学であり最高学府として名高い。別名 Pillar of Kingdom(国王の柱)とも言われ、卒業式は国王自らから学生一人一人に卒業証明証を手渡しされるほど期待を受ける、まさにエリートたちの学び舎だ。彼らとの交流は思い出深い(英語だけで事足りた)。

学部長室の隣に研究室を準備していただき、秘書の方々からもタイの事情を様々教えていただいた。教授陣はまさに「教授」らしい振る舞いをされていて近づきがたかったが、秘書さんや学生さんたちは、最初の緊張がとけてくると親しく接してくれて嬉しかった。まるで氷の壁が溶けるように、赴任当初に感じていた目に見えない壁が薄くなっていくのを感じた。「ここに2年いれば、結構まとまった教育調査ができる。」と確信めいた手応えがあった。

 僕はバンコクにネットワークもないままに赴任したので、2年間を半年ずつ4分割し、①ネットワーキング ②予備調査 ③本調査 ④まとめと計画した。

ネットワーキングは予想以上に手間取った。チュラロンコン大学客員教授の肩書きは、信頼を得るにはとても有利だったがそれだけでは足りなかった。タイは日本以上に「人の紹介」が重視されるネットワーク社会。新しく人と会うときには、紹介やツテの有無が重視され、そのツテを僕は備えていなかった。

 さらに僕は最初、タイ文化に無知であった。それまでにネパールやインドで調査を行った際には、事前に電話をして直接訪問すれば大概何とかなった。しかし、そのやり方が通用しなかった。「なぜだろう」と思い悩んでいる内に早くも数か月が過ぎていた。正直イライラしていた(カルチャーショック状態)。ある時親切な同僚が見かねてアポの取り方の見本を示してくれた。そのやり方は僕が思うよりずっとフォーマルだった。タイ式のアポの取り方を知らずに訪問を繰り返した僕の行動は、タイの人からはまるでビザを持たずに入国検査を突破しようとする旅行客並みに無謀な挑戦にみえていたのかもしれない。

さらに、「トップ大学教育学部の教授に調査されることへの警戒心が強い」とも教えてくれた。言われてみればその通りだ。そこでチュラ大の学生の出身校を学生と一緒に訪ね、学生が作ってくれた文書を提示すると難なくOKが出た。それ以来僕はいつも学生を連れて廻るようになった。彼らはタイのことについて惜しみなく情報提供してくれたので、もはやどちらが「先生」かわからない状態であった。

 彼らのおかげでようやく調査のネットワークができて、「さあ、下準備は終わった。本格的に調査をはじめよう!」と思った頃に悲劇が起こった。

 タイ史上に残る大洪水がバンコクに襲い掛かったのだ。約230万人以上の生活に影響を与え、4,000億円弱の経済的ダメージを与えたと言われる凄まじい洪水。アフリカの小国1カ国の資産価値が約4,000億円であることを鑑みると、被害の甚大さは分かりやすい。

 このせいで、タイの教育機関は3~4か月完全休校となり、教育調査どころではなくなってしまった。そもそも暮らした地区のすぐ近くまで洪水が押し寄せ生活自体が危うくなってきた。日本のテレビニュースでも甚大な被害が連日トップニュースで報道された。息子たちの通う学校も休校。

 東京経済大学の関係者からも「近隣国への避難」を薦められ、向かったのが、知り合いの多いネパールであった。あくまでも洪水が落ち着くまでの一時避難の予定だったが、洪水が長引いて結局2か月ほど滞在した。当時長男は中3で二男は小4。遊び惚けさせるわけにはいかず、知り合いの学校に体験入学させていただいた。僕は友人を通じていろんな方を紹介していただきひたすらネパール事情に耳を傾けた。日本から学生を引率してくるときには聞けない貴重な情報を豊富に得ることができネパールの面白さにさらに魅了されてしまった。

 バンコクの状況は年末には落ち着き、一時避難は終了。家族で帰国・・・のはずが。

 ここでさらなる大事件が発生した。一家の一大事。

 中三の長男がバンコクへの「帰国」を拒否したのだ!

 「僕はネパールがいい。ここに残る!」

 これには我が家族のみならずネパールの方々やバンコクの学校の先生を巻き込んだ騒動に発展した。ただ、よく考えてみると彼の気持ちも理解できた。そこで僕は彼の味方となりバンコクの担任の先生やネパールの学校の先生と必死の交渉を試みた。しかし結論として、「このままネパールに残ると在籍するバンコクの学校での出席日数が足らず義務教育を修了できないまま終わる。」と告げられた。長男には「中卒の資格が取れなくなるみたいだよ。形式的にでもいいから帰国しよう。卒業資格を得たらまた戻ってくればいい」と説得すると最後は素直に応じた。そして文字通り形式的に帰国し卒業資格を得た途端に一人ネパールに戻って暮らし始めた。彼の脳内で何かが破裂してしまったことは明らかであった。思えば夏休みにネパールに旅をさせた頃から予兆はあったのであるが。

彼の夏休みネパール旅➡http://yoshikinepal.blogspot.com/2011/11/blog-post_2159.html

 妻は、あまりにも早く訪れた長男との別れに、見送りの空港で泣き崩れた。ドイツ人として日本で産み育てた我が子を、タイの空港でネパールに見送る。これほど奇妙な別れを素直に受け入れろと言う方が無理であろう。しかし当時の写真を見返すと、空港で彼と肩を組む僕はなぜか満面の笑顔であった。

 この時には、その数か月後に、まさか僕までもが妻や二男を連れてネパールに暮らすことになるなどとは夢にも思わなかった。

(続く) 

2020年8月15日土曜日

関昭典の研究室#18 (異文化間学生交流プログラム)

関昭典の研究室#18(異文化交流プログラム)

 

 以前(45年前)、JICA地球ひろばの公式ブログに「人生における心の支え」と題して寄稿し、以下のように書いた。

 

人は困難に遭遇し身動きが取れなくなったとき、過去に積み重ねた感動を心の拠り所に生き抜いていけるのだと私は考えている。私は教育者として、出会った若者たちに人生を生き抜く支えになる感動を与えたいと常に考えている。ではこの私に何ができるのか。その答えがAAEE,アジア教育交流研究機構にあり、これこそが私のできる社会貢献、国際協力なのである。

(https://partner.jica.go.jp/ColumnListView?cat=ColumnList2017&param=news_483)

 

 ここに「感動」という文字が繰り返し使われている。

 読者の皆様には知っている方もいるしれないが、僕はある時期から言語教育から転換して「学生主体の異文化間交流活動」に力を注ぐようになる。

 なぜ僕は今このような活動をしているか。

 一言で言うと「学習者に感動を与えたい」からだ。

 

 今回の内容は企業秘密をバラすことになってしまうかもしれない。なぜなら、これから記す内容は、僕が代表を務めるアジア教育交流研究機構(略称AAEE、非営利型一般社団法人)で構築したメソッド(AAEEメソッド)に基づいているからだ。この活動を一つの「商品」に喩えたとしたら、今回のメインテーマである「感動」は商品価値を生み出す心臓に当たるようなものだからだ。

 だが、もはやこのメソッドを使って他者と競う気もないし、むしろAAEEメソッドを使ってもらうことで人生が変わる人が出ればいいかなという境地に至っている昨今である。

AAEEの活動内容については➡https://note.com/multiculturalism/n/n36bec34d0aa0

 

 勤務校での経験を例に取って記す。

 東京経済大学に赴任して2年目からリベラルアーツ教育を担う「21世紀教養プログラム」を担当し、ネパールなどに学生を連れて行いくも、学生と僕で見ているものが違ったことについては前回の記事で触れた。僕は学生に「貧困」などを知ってもらいたいという意図だったが、学生は食事や水に熱中するなど僕の意図からは外れて多様だった。まるで馬の乗り手の意図している方向と、馬の駆ける方角が異なるようなほどの「意図はずれ」だった。しかしまるで突然馬が乗り手の期待を超えて全速力で目的地に疾走を始めるが如く、帰国後の学生たちはなぜかほぼ全員が「言語学習」に傾倒し始めた。そして、そのモチベーションに当たる「にんじん」は何かというと、学習開始の動機が現地の人々との交流を通じた「感動」にあることが推測できた。

 

 そのことをしっかりと確かめた上で、「感動を引き起こす」仕組みを考えれば、“交流を通じた学びの構築”理論として成立させることができるのではないかと漠然とながら考え始めた。少なくとも僕が引率した学生の「感動➡その後の言動の変化」は、ほぼ100%の確率の想定する通りに推移していた。

 

 ところで、そもそも「感動」とは何か?

 実際に取り組んだ過程を詳細に辿ると助長になってしまうので、ここでは結論から書く。

辞書などで概念的な理解をする事はあまり役に立たなかった。脳みそに汗をかくほど自分の頭で考えて思いついた内容が役に立った。僕の性格的におそらくそうなのだろう。

 

 僕にとって感動とは「人のそれまでの経験値に新しい要素がくっつくこと」だった。新しいものがくっついたその瞬間に、その人は心が大きく揺れ動かされる。それが僕の考える感動である。

 くっつくという言葉が弱ければ小惑星同士の衝突に例えても良いかもしれない。恐竜の生息した太古の地球に隕石が衝突して(くっついて)、地球環境がガラリと変わって新たな生命が生まれたという。まるでそのような隕石の衝突に相当するかのような、「新たな時代の開始点」になり得る変化のきっかけ。それが「感動」の正体だ。

 いったん話は逸れるが学習の基本に「notice(気付き)」というものがある。何か新しい概念を言葉で伝えられても、学習者は本当の意味で理解できていないことがある。知識として知っていたことがある時「はっ」と腑に落ちる瞬間がある。その「notice(気付き)」が学習者にとっての成長の一歩である。「感動」とは「notice(気付き)」がより強力な形で現れたものだと考えている。

 「notice(気付き)」は一つ気がついたら終わりという事はない。「チリも積もれば山となる」「雨だれ石を穿つ」という諺もあるように、10100つと山のように積もった小さな気づきの積み重ねが学習者を成長させる。

 一方感動とはもっとダイナミックなものだ。「感動」をきっかけに学習者の世界の見方が大きく変わる。

「交流を通じた」感動体験➡動機づけアップという仕組みができればいい。

 

 この仕組みを構築するためにまず手を付けたのは、「異文化コミュニケーション」について真剣に検討ですることであった。この分野に関しては興味本位でいろいろと調べてはいたが、腰を落ち着けて考えることまではしていなかった。そこで今から12年ほど前からじっくりと考え始めた。異文化間交流活動という独特な場面の目に見えない心の動きを探る作業。難しいが探るだけの価値はあると思った。

 僕が目を付けたのは「深層文化(Deep Culture)」という考え方(Shaules, 2007)。異文化環境に身を置いた人間が数年(数十年)に亘って辿る心の変容過程を詳細に説明した理論だ。1950年代に提唱された有名なカルチャーショックの「Uカーブ」曲線を進化させたものである。

 

 ここで「Uカーブ曲線」(Lysgaard, 1955)をとりあげよう。相手文化に適応するには数年間をかけて「ハネムーン期→カルチャーショック期→適応期」の三段階を経るという仮説だ。

 この理論をネパールプログラムに当てはめたら、何かしっくりくる説明ができた。そして、カルチャーショック➡受け入れる、という心の動きの中に「感動」を絡めることはできないものか、超真剣に考え始めた。

 それ以来、異文化交流活動の度に、計画段階からプロジェクトの全体像をイメージしてノートに書くようになった。目の前に全体像を視覚化するため、デザイナー用の、1ページがA3の大きさの大きなノートに見開きをひろびろ使って書き込んだ。

 プログラム中も、早朝や深夜、密かにスーツケースから取り出した「巨大ノート」から誰にも見られないよう取り出し、思いついたことをすべて必死に書き込むときの集中力は、好きなことに没頭する正に「フロー」状態であった。書く内容は時系列に沿った滞在期間中のイベント、そこで何が起こったのか、参加者それぞれの性格、発言、表情すべて。更には、過去に参加した学生の状態とも照らし合わせる。

 一晩で何億ドルも儲ける百戦錬磨のギャンブラーはわずかな筋肉のこわばりや表情の変化から、対戦相手の心理を(相手以上に)掌握するという。プログラム期間中の僕もまるで数億ドルのチップをかけたギャンブラーの如く、(笑顔で学生と雑談しながら)学生の僅かな感情の変化に学生以上に敏感に感じ取れるように集中力の刃を研ぎ澄ましている。

 

 緻密な分析から一つ分かった事は「感動した瞬間に、本人はそれを自覚していることばかりではない。」ということだ。

 ただ客観的な観察者である僕は、まるで世界トップレベルのポーカープレイヤーが相手の手札を透視するが如く、学生の感情の機微を「この学生はそろそろ感動する」と高い精度で予測することができるようになった。後で①直接聞いてみる、②事後報告書(帰国後に学生に書いてもらうレポート)を読むことによって、どのタイミングで学生が感動していたのかをさらに確認することができた。

 

 その頃までには、(少し神がかっていると思うかもしれないが)学生が感動する予兆を体感するようになった。具体的には・・・鳥肌がたち、“ブルブル”と震えがくるのである。この震えがくると、その後まもなく「感動」の瞬間が訪れた。

 ということで、鳥肌が立つための仕掛けを戦略的に検討し始めた。その戦略は1つ2つではいけない。僕はこの道の素人なのだから、10個以上の大量の仕掛けを投入して当たるのを待つ。高校教諭だった頃の「動機づけ」戦略と同じ考え方。すると、10個の仕掛けの内、1つだけではなく、23つと同時にハマったときに鳥肌が立つことが経験則となった。日本の夏の風物詩とも言える大花火大会では、クライマックスに何個もの花火を連鎖的に打ち上げることで来場者の心に激しい感動を与えるが、「連鎖させることで感動のボルテージをあげる」行為はそれとイメージは似ているかもしれない。単発で仕掛けという花火を「バン・・・」と爆発させるのではなく、学生の心を夜空に喩えるとしたら、夜空を埋め尽くすほどに「バン!バン!バン!」と連鎖させることが大切なのだ。これ以上ここでかくと、もはや読者が“不気味”だとドン引きしてしまうかもしれないので、一旦流れを切る。

 

 仕掛けの例を一つだけ。

 交流中の食事は、基本としてネパール人と日本人で隣り合って座るような座席配置にしておく。これは仕掛けの準備段階。その状態で何度か食事を繰り返すと学生がいろんな“症状”を示すようになる。その症状に合わせて、いくつもの仕掛けを調合した“クスリ”を投入し、また結果を観察。その繰り返しだ。集団力学(グループダイナミクス)を活用させてもらっていることも一言加えておく。集団力学とは「集団における、人の行動や考えは、その集団の影響を受け、集団に対しても影響を与える」という理論でレヴィンという学者が提唱した

 

 ここまで記したようなことはすべて、僕自身の心の奥から湧き出て来る興味に関すること。さらに目の前にいる自分の知っている学生たちが変容していくのは嬉しい。だから、これに関する活動に従事している限りにおいてはどれだけ作業量が増えても全く疲れを感じない。寝る間も惜しいくらいだ。オリンピックに出るマラソンランナーはゴール直前になってもドーパミンがドバドバ出て「(つらいはずなのに)もっと走りたい!」と驚嘆すべきやる気を発揮するが、交流プログラムで(辛いはずなのに)全く疲労を感じない僕の脳味噌も、まるでフルマラソンを走っているオリンピック選手のような状態なのかもしれない。

 

 「私の履歴書#3(インドネシアでの原体験)

(https://akinoriseki.blogspot.com/2020/04/blog-post_17.html)にて僕が高校生のときに、自分自身がインドネシアで異文化交流をして感動をした経験を書いた。あの時の気持ちが本物だからこそ、「感動」の仕組みを暴いてみんなと共有したいという現在のモチベーションにつながっているのだろう。


2020年8月10日月曜日

関昭典の研究室 私の履歴書#17(世紀の大発見)

 東京経済大学に来てからの僕の1年間は腰を落ち着けるまもなくあっという間に過ぎ去っていった。例えば、家族を新潟から東京に呼び寄せるための引越し、新しい大学での人間関係、東京へ適応など。次から次へと新しいイベントが舞い込み、まるで暴風雨に直撃されたような慌ただしさに文字どおり生きているだけで精一杯な1年間だった。

 当時30代だったが、もし10代・20代の僕だったらキャパシティの堤防は決壊していただろう。

 

 環境の変化にも戸惑った1年間だった。

 直前までの勤務大学は新潟県民が大半を占める女子大学の英文科。一方、東京経済大学は男子学生が7割以上を占め、外国語学習に興味を持って入学した学生ではない。両者の雰囲気は明らかに違った。また、それまでに上手くいき自信を持って学生に課した学習課題に全く手ごたえを感じなかったのは誤算であった。。

 

 東京経済大学という今年(2020)120周年の伝統を背負っているような、歴史ある大学で働くことにも気後れしていた。創設者の大倉喜八郎は日本経済史の立役者。「進一層」の精神など重いものを背負っている大学。相も変わらず運任せの、衝動的な僕は、そのようなことも露知らずに新潟から出てきたのである。「企業分析ゼロ」東京の大学というだけで応募した。

 同僚にも圧倒された。

 例えば就任の挨拶をおこなった同期は、戦前から日本に存在しているエリート大学である旧帝大で裁判員制度導入の立役者や、東京高等裁判所の元裁判官など。驚きながら研究室に向かったら、隣の研究室は芥川賞作家。驚きに追い討ちをかけられた。「なんだここは!」と東京のスケールの大きさに圧倒された。

 

 元々僕は自分に自信がない人間だ。同僚たちの経歴にも打ちひしがれてすっかり参ってしまった。「私の履歴書#1」でも書いたが、優秀な兄への劣等感を感じて育ったし、悲観的・内向的な性格だった。心理学的に分析するなら自己効力感がとても低い性格。物事を悲観的に捉えがちだし、そうなるに考えるに足る苦い思い出が多い。元々の性格が内向的だから、自分の内側に籠もってしまった。学生の前では内向的になれないのでそれ以外の時間はひたすら内に籠った。例えば、大人の親睦会などはほぼ欠席。

 同僚がいい人たちなのは分かっているのに、自分の歓迎会でさえも内に篭り早めに帰ってしまった。おそらく、難解な話題を笑顔で話し合う教養人を前に心をシャットダウンしてしまっていたのだろう。必要な仕事はこなすが、内面を見せず非社交的な僕、同じ職場内でも、僕の人となりを知る同僚はごく一握りであった。

 勤務当初から現代法学部所属で10年以上過ごしたが、同僚は当たり前のように弁護士資格を持っている人たちが何人もいた。

 新潟にいた頃、知り合いの優秀な人が弁護士資格を何年も目指しても合格の切符をつかめずに諦めて家業を継ぐような人を何人も知っていた。そんな難関試験に軽々受かる同僚たちに囲まれていたのだ。

 

 僕は2年目から「21世紀教養プログラム」というリベラルアーツコースを担当者することとなった。現在所属する「全学共通教育センター」の一部教員によって運営されていた。キーワードは「貧困」「共生」「多様性」「他者」「差別」など。大変著名で優秀な先生方ばかりであったが、門外漢である私が何とかついていけたのは、以前から関心があったテーマとかぶっていた要素が大きいからだろう。例えば僕は国際結婚していたので「外国人」の存在や「差別」は身近なこととしてすっと理解できた。生徒、学生、教師として一貫して公立学校で過ごしたことにより、“相対的貧困”問題も身近に感じていた。

 

 一方で、“本来の”任務であるべき言語教育については、“最悪だった”というのが正直なところ。気丈に振る舞ってはいたものの、うまくいかないことばかりでお手上げ状態だった。

 

 「生徒たちを外国に連れて行ってください」。21世紀プログラムにて、そのような業務を担当するように言われたのはその頃だった。そこからはさすが東経大。「ひろく深く」をキーワードとした自由な校風。教員に大きな自由裁量が与えられているのだ。

 僕が選んだのはネパール(ネパールには独自のネットワークがあった)。「なぜネパール?」と心配してくれる人たちもいたが、21世紀教養プログラムの同僚たちは面白そうと賛成してくれた。そしてこのネパール研修が、思いがけぬ形で私の教育観に巨大な影響を与えることとなる。

 それまでには外国への研修を数多く引率していたが、それは英語学習が目的であった。しかし、この研修では「言語学習」という枷から初めて開放され、学生たちを自由な観点で観察することができた。とても新鮮な気分であった。

 まず見えたのは「同じ景色も学生によって見え方が異なるということである。」例えば貧困をテーマにネパールの山岳農村地帯に滞在しても、個々の学生の関心事は、水、自然、食料、色合い、民族など様々であった。我々の世界観や認識が話す言語に強く影響されるという「サピア・ウォーフの仮説」には興味を持っていたが、同じ大学の同じコース生(母語も同じ)でもここまで視点が異なると驚いた。そして何度かネパール研修を引率していく中で、ある時、「人間の興味関心は人それぞれだ。みんなちがう。ちがっていい。」とストンと腑に落ちた。

 考えてみれば、例えば新潟の高校の教員をしていた時、生徒たちは当初英語に全く興味を示さなかったが、きっとそれぞれ英語以外の別のものに興味を持っていたのだろう。山岳部の顧問だった時、月に一度の山登りでも花や岩や、一人一人の興味関心はそれぞれに異なっていた。

 ネパール研修では、“交流を通じた学び”を重視した。せっかく外の世界に飛び出したのだから、そこに暮らす人々から情報を得るのが確実、私の経験則から得た知恵であった。現地の人々の中には英語を話せる人も話せない人もいる。しかし、細かいことは気にせずに現地コミュニティに彼らを「突っ込んだ」。すると、外国語学習などには興味を示さない彼らであっても、多くの場合大変積極的に交流した。そして、非日常の生活空間での価値観の異なる人々との交流を通じて心動かされたことはほぼ違いなかった。そのことに僕も手ごたえを感じていた。

意図せぬことが起こった。帰国後に彼らの多くがなぜか英語学習に本気になり始めたのだ。事後報告書には「現地の人々と上手く交流ができなくて悔しかった」「言葉が通じればもっとわかり合うことができたのに」と並んだ。英語を学ぶことを目的にしない研修であるにも関わらず、その後英語学習に自発的に取り組む彼らを見て不思議に思い、これまでに読んで来た動機づけ関連文献を何となく読み返していた。そしてある時「はっと」した。人生最大の発見をしたのである。と言っても動機づけの基本理論の解釈違いに気付いただけなのだが。

 「自己決定理論」というものがある。この理論によれば、動機付けには下記の3つの要素が大切である。

1.     効力感(できる!という自信)

2.     自立感(自分でコントロールできている感覚)

3.     関係性

 

 既に述べた通り、そもそも私が動機づけの研究を始めた目的は高校教師として自分の授業力を改善させるためであった。このコンテキストで読む文献においては、「関係」とは教室の中での人間関係であった。しかし、そうではなく、学習者と外国語話者との間の「関係」と捉えるとネパール研修を通じた学生の変容を上手く説明することができた。

 言語を使って、その言語を使っている人のことをもっと知りたいと思えば、学びのモチベーションが高まる。外国語を使って外国語話者との交流を通して、異文化の人と交流をしたいと思えば外国語学習のモチベーションも激増することがわかったのだ。

 これが分かってから僕の教育方針はパラダイムシフトと言って良いくらい大きく変わった。一気に変わった。まるでコロナでオンライン化したくらいの大きな変化だ。

 

 それまで経験則に基づいた「趣味」としか捉えていなかった「異文化交流」が僕の脳内で「言語教育」と見事に融合し、独特の新たな学問領域、というか教育実践領域を見出したのだ。教育実践者として、また研究者の端くれとしてはこれほど「ハッピー」な出来事はない。以来、僕は一転、いきいきと活動するようになる。

 

 スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式スピーチで以下のように語っている。

 

もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。

しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。

 

 このジョブズの言葉が僕の今までの軌跡をまさに言い表していた。きっと僕に限らず多くに人の人生の「ふっと地平が開けるような瞬間」は同様の感覚になるのだろう。歩んでいる時は分からないのだ。ある時に全部今までのことが繋がったとわかる瞬間が来るのだ。

 僕について言えば、育った環境からして内向的であるが故に「このままじゃいけない」と外に向かって新しいことに挑戦を続けてきた。まるで夜空に散らばった星座を繋いで美しい星座をつくるかのように、いままで格闘してきた人生の行動が全て線で結ばれた感覚は爽快だった。既に40歳を過ぎてのことだった。

 「今までの人生が一筆書きで繋がった」後に何が変わったか。良い意味で、もう人生これでいいやと思った。この気持ちを20歳の目の前にいる学生たちはわかるはずがない。自分にできることは、学生たちが後に「点と点をつなぎあわせる」作業をするときに「点」の一つに数えてもらえるような影響を与えてあげることかな、と考えるようになった。その学生の数は多ければ多いほどいいが、別に1人でも2人でもいい。サッカーと一緒。わずか1点でも勝てる。結果として何点取れるのかわかるのはずっと先のことだろう。教育投資は地道な作業だが、とてもやりがいがある。

 

 

 

関昭典の研究室#16(東京へ転職)

 県立新潟女子短期大学での仕事は、よき学生たちに囲まれて楽しかった。日本海から徒歩5分、最高の立地に広い中古物件も購入し、僕の人生はもう一生新潟で暮らすだろうなと目処が立った。

 まるで自宅前の凪の時間の日本海のように、僕の人生は安定し始めていた。毎年の授業内容も確立してきたし、研究活動にも手ごたえを感じていた。大学内での居場所も確保しつつあった。周囲の人々から見たらその安住地を抜け出して何処かに移動する理由は何も見つけられなかっただろう。

 

 しかしその頃、まるで台風が襲来する前兆のように僕の心はざわつき始めていた。「何かマンネリ化してきたな」と感じていたのだ。

 成果が見えてくると作業化してくる。生徒が変わるだけで毎年同じようなことをすれば、例年通りの成果が出ることが見えてきてしまうからだ。最初は大きな感動を伴っていた成果も、繰り返している内に作業化し始めていた。「何か新たな視点が必要だ」と若干の行き詰まり感をぬぐい得なかった。

 さらに在職年数が進むに連れて、任せられる作業が等比級数的に増加していたことも理由の一端にあるのかもしれない。

 それまでの僕の人生は「新しい世界をみてみたい」というモチベーションに突き動かされてきた。自分自身の進路選択によって、まるでたまごの殻を破るように少しずつ自分の周りの世界を拡大してきた。その拡大劇が、安定を得たことで「ここで終わりなのか」と漠然とした寂しさを感じていた。

 

 春に咲くたんぽぽの綿毛が横切るように、「東京経済大学の教員募集」がふわっと僕の視界に入ったのはそんな時だった。インターネットだったか人づてだか今となってはもう思い出せない。大変失礼な物言いになるが「魔が差した」としか言いようがない。

 ふと「応募してみよう」と何となく思い立ったのだ。普段だったら目の前を通り過ぎるものを見送っていただろう。それまで僕は大学教員の職についてから一度も他の大学に応募したことがなかったし考えたこともなかった。

 もちろん東京の大学の教員になるのはとてつもなく難しい。とてつもない実力と運が要求される。しかし募集要項をみて僕の脳味噌に電流が流れた。募集項目に踊る応募条件と記載されていたリンクの先にあった情報は、「呼ばれている」そう勘違いしたくなるほど僕の今までやってきた活動とぴったりと合致していたのだ。

 高校・浪人時代、「東京に出たい」という恋い焦がれる思いで勉強した情熱が蘇ってきた。東京の大学に合格しつつも母の涙で状況を断念した後も、東京への憧れは僕の胸中で燠火のように燻っていたようだ。その思いに一気に火がついた(詳細は、「関昭典教授 私の履歴書#5 浪人生」https://akinoriseki.blogspot.com/2020/04/blog-post_28.htmlを参照)

 

 しかし僕には家族がいた。もう1人で好き勝手に冒険をするべきではない。

 長男は小学4年生、次男は小学校に入学する頃だった。長男が小学校は試験で国立大学付属の小学校に努力して入学して充実していることをよく知っていた。「子供たちにも中学校まで一貫の新潟の学校を辞めさせて、東京にいくぞとは言い出せない!」もう1人の僕はそう叫び続けていたが、なぜか振り切って東京経済大学の募集にエントリーしてしまった。一回だけだと言い聞かせた。

 

 今だから告白するが(といいつつ以前の履歴書でも少し触れたが)新潟生まれ新潟育ちの田舎者の僕は東京のことをほとんど知らなかった。文字通りほとんど。

 MARCHという大学群の名称も知らなかったし、山手線以外の電車のラインは知らなかった。そんなことも知らないままの、「東京に出たい」という情熱に突っ走った応募だった。

 

 そんな軽いノリで始めたが、いざ書く段になると真剣だった(結構な量の書類を作成した覚えがある)。提出するものを適当に書き散らすことは失礼にあたる。応募して一息ついた頃に一次選考通過の連絡を受け取った。

 一次選考後に待ち受けるのは、東京経済大学に直接行っての面接だ。東京まで呼ばれるということはチャンスがあるのではないか、と俄然やる気になった。

 

 「やるからには真剣。中途半端は今までの自分にも相手にも失礼」が僕のモットーだ。本気で取り組んだ。

 英語での発表は丸暗記。アプリに音声を入れたものを、約2週間ウォーキングをしながらひたすら聞いて完璧に覚えた。今から14年も前の話だ、英語の読み上げアプリは当時まだ珍しかった。これで僕自身が英語の暗記をやり切った経験があるから、英語プレゼンテーションコンテストなど、学生が英語の暗記に「無理だー」と泣き言を上げる時も、本当にやる気ならできないわけがない冷静に見ている。

 面接なら質問が出るだろうと予測して、想定されうるQ&Aを作成してそれも丸暗記した。今振り返ると当時の情熱には脱帽する。

 面接当日、かなり早めに大学の最寄駅についた。喫茶店に入り、目を閉じてひたすら時間まで音楽を聞き続けて集中力を極限まで高めた。まるで試合直前のオリンピック選手さながらだ。あの時何度もリピートした「栄光の架け橋」は今でも口ずさめる。

 

 ついに面接本番。緊張のあまり内容が一箇所飛んでしまってその一箇所だけ原稿をみた。だが「人事を尽くして天命を待つ」という慣用句があれほど当てはまる瞬間はない、そう言えるほどベストを尽くした。やり切って新潟に帰った。

 ちなみに家族には面接が終わったこの時もまだ言い出せず、「大事な学会の発表」と偽っていた気がする。つまり、この時点でもまだ家族は東京に行く可能性などつゆ知らなかったのだ。

 事態が進展したのは10月ごろ。東京経済大学から「採用に向けて」と連絡がきたのだ。 家族はさっぱりと単身赴任だね、と告げた。この時点では僕と一緒に東京に来るつもりは1mmもなかった。

そして年の瀬に内定通知。当時勤務していた新潟の大学には次年度の教員を探す関係で、すぐに伝えなければならない。大学からもびっくりされてしまった。

 東京の国分寺駅前にアパートを借りて、新潟と東京の往復生活が始まった。

 

 しかし、東京に来て実際に仕事を始めてみて、国際結婚家庭なりの新潟での家庭生活と東京での仕事の両立は厳しいことがわかってきた。入ってみなければ分からない想定外業務がいくつも出ていたのだ。調査不足の行き当たりばったり決断が祟った。

実は一年で辞職するかどうか本気で悩んだ。おそらく家族以外誰も知らないことであるが、東京の大学に内定するかどうかの頃、家族の様子を見て一気に不安が高まったタイミングで、自宅近くの大学で教員公募を見つけた。迷った末にこの大学にも応募書類を提出していたのである。そしたら、東京赴任後に一次選考合格、最終選考通知が届いた。両親に話したら、特に母親は興奮し、面接に行くべきだと何度も連絡してきた。私自身も、面接に行って合格した方が家族のためだと思った。この時ほど迷ったのは人生初であった。単身赴任先のアパートで、迷いすぎて夜中に一人くじを作った。引いたくじは、母親の助言と同じであった。しかし、考え抜いた結果、先方に面接辞退のメールをお送りした。母親は大変落胆した。

 

 そんなこんなで東京に単身赴任を続けることにした。70歳とかまで新潟と東京の家を往復する単身赴任生活が続くのかとクラクラしていた。このままだとダメだ・・・。詳しいことは伏せるが、息子の学校のことも重なって僕は「東京に家族を呼び寄せる作戦」を決行。

 もちろん家族からするといい迷惑だ。何しろ相談すらされることなく、まるで夕飯のメニューを告げるかのように突然「東京の大学に受かったから来年から東京で勤務する」と振り回されている側である。

 拍車をかけるように、家族は新潟ラブだった。奥さんも子供たちも新潟が超大好きで、わざわざ離れるなんて大反対の合唱だった。

 大反対の声をかき消すべく、僕は東京の素晴らしさと、新潟の世間の狭さをひたすら伝え続けた。しかし、妻は僕のプロパガンダにも洗脳されることなく冷静(冷酷?)だった。国際結婚のネットワークを通じて「東京の学校に行ったらいじめられる」「東京の家は狭い」と東京ネガティブ情報カード次から次へと切ってきたのだ。

 

 それでも根気よく説得するうちに「インターナショナルスクールならいいわよ」「家は150平米以上なら」・・・。そのような強硬な条件をいくつも提案しつつ、妻が条件付きで歩み寄ってくれた。

 だがこの条件はかなり厳しい。インタナショナルスクールの授業料は目玉が飛び出すほど高額だし、150平米以上という広い家は東京で家賃を払うには難しいのだ。それでもせっかく妥協して新潟から出る決断をしてくれたのだ。まるでかぐや姫に命じられて蓬莱の玉の枝や火鼠の皮衣を探す男たちの気持ちになって必死になって探した。

 この条件をクリアしさえすれば家族と東京に住めるんだ。僕は真剣だった。

 

 横浜国立大学附属横浜小学校なら国立附属間転校ができるという話を持ちかけられて横浜(根岸)に住むことを決定しかけた。物件を探して家族で見に行った(家族は旅行気分)。しかし、いざ横浜で契約直前まで行った物件を行くと、人が長らく住んでいなくて、猫が大量発生していた。その猫屋敷の帰り道、電車で東経大に行こうと向かったらいつまで経っても大学のある国分寺につかない。遠すぎたのだ。電車の中で妻の口から「さすがにこの距離の通勤は厳しいのでは?」と言う言葉が出てきた。頷くしかなかった。結果、せっかく学校間でお膳立てしていただいた転校話を辞退して大変なご迷惑をおかけした。

 

 その後も調査を続ける中で、無理に無理を重ねれば支払い不可能ではないインターナショナルスクールを見つけ、その近くに物件も見つけることができた。家族を必死に説得し、ようやく東京に連れ出し作戦は終了した、かに思えた。しかし、息子が新しい学校に通って数か月後のある日、勤務中に彼から電話がかかってきて思いつめた声で告げられた。「さすがにこの学校はやばいよ。」事情を聞き調査すると彼の言う通りであった。奈落の底に突き落とされた気分だった。

 さらに調査を進めた結果、海外の帰国生を中心に受け入れる学校を発見し、二人の息子ともども編入させていただけることになった。今も暮らす自宅から車で10分の場所に位置する学校だ。これでようやく家族東京大移動が一区切りついた。

以上のように、子どもの頃から夢見た憧れの東京での暮らしのスタートはは、決して輝かしいものではなかった。身から出た錆。家族に相談もなく気分に任せて東京の大学に応募した付は、二度と繰り返したくないほどおぞましい経験として跳ね返ってきてしまったのである。

2020年8月9日日曜日

関昭典教授 私の履歴書#15「アナザーヒストリー」<異文化コミュニケーション>

これまで、僕の大学生活並びにその後の新潟での職業人生を数回に亘って振り返ってきたが、これは私の履歴書の一面に過ぎない。今回は、現在の私を形成することとなった重要な人生経験を取り上げる。キーワードは「国際交流」「異文化コミュニケーション」

新潟大学の学生時代、インドやネパール、モロッコ、ヨーロッパを旅した私は、さらなる「新たな刺激」を欲していたが、しかし一方で「モロッコ・カーペット事件」で追った110万円の借金を背負って手も足も出なかった。海外旅行はもう無理。バイトで貯金を貯め、一方で勉学の成果も残すという学生にとっては大変酷な状況に身を置くことになった。当時の僕は、冗談抜きで「人生崖っぷちだ!」と頭を抱え込んでいた。一方で、外国や「外の世界」への憧れの気持ちがやむことはなく、「何とかしなければ」という気持ちが次第に強くなってきた。

 

 一旦大学一年次に時を戻す。私が大学に入学後間もなくして、マレーシアからの留学生と友達になった。英語の授業でたまたま席が隣になったのだ。どちらから話しかけたのかは覚えていないが、私は彼と仲良くなった。学校内に外国人がいるのは田舎育ちの私にとっては大事件。彼の一言一言が新鮮であった。大学の学業にはまったく興味が湧かなかったが、彼から得られる情報は何にも代えがたかった。だから僕は彼にくっ付いて回った。彼の存在は、焦燥感一杯の私の学生生活(前半)の唯一の救いだったかもしれない。が一方で彼にとっては迷惑な存在だったかもしれない。というのも彼は当時マレーシア首相、マハティールのLook East(東を見よ)政策の一環で国費留学してきた超エリートだったからだ。私のような一般学生とは格が違うのだ(ということも気が付かなかった)。

 彼との親交を通じて、「物事の多面的解釈」の手法を学んだ。親しくなって来るにつれて話す内容も深くなっていくと同時に、これまでには経験することの出来なかった「価値観の相違」のようなものを感じるようになったのである。彼と一緒に肩を並べて歩きながら「同じ景色をみているのに、なぜ『見え方』が違うのだろう」と思ったことが何度もあった。(ちなみに彼とは今も親交がある。彼は日本人のように日本語を使いこなす。)

 

 モロッコから帰国した頃になると、工学部の彼は実験などで忙して交流の機会は減った。しかし、私は彼をきっかけとして、新潟大学内の留学生と交流を始めるようになった。ちょうどその頃、大学のすぐ近く「国際交流会館」が完成し、留学生の多くがそこに暮らすことになった。私の足は自然とそこに向いた。そこで多くの留学生と知り合ったのであるが、何よりも驚いたのは、彼らは皆祖国を代表するエリートばかりであったということだ。普通に会話をしているとただの「いい人」だが、友情を深めて生活背景に話が及ぶと、一人一人壮絶な経験を得て日本への留学切符を掴んだ”逸材“ばかりだった。彼らの口から出てくる彼らの祖国の話は僕の知らないことばかりで学びの宝庫であった。

 文化、宗教、貧困、差別。彼らとの交流のおかげで、これらの観点に全体的に興味を持つようになった。「アパルトヘイト」「南京大虐殺」「在日韓国・朝鮮人差別」「日系ブラジル人」「食の多様性」などなど、彼らがいなければ見向きもしなかったであろう話題に目を向けることができた。

 

 その延長線上に、今の私の妻(ドイツ人)がいる。私は留学生との交流の一環で参加したイベントで現妻と出会い、現在に至る(プライバシーに関わるので詳細は省くが、テレビ東京系列「私が日本に住む理由」に詳しく取り上げられている)。彼女との暮らしは、それだけで数冊の本になるくらい、『ひろく、深い』「異文化」コミュニケーションであった。結婚式の際、仲人をしてくださった米山師匠がスピーチで、「現代の国際結婚は、昔の広島と新潟の人の結婚と同じようなものだ」と述べ、結婚に反対する僕の両親の気持ちを和らげてくれたが、その後実際に私が経験した文化差は、私の想像を絶していた。時には「これが同じ地球上の人間か」と思うような果てしない文化差を感じることさえあった(相手も同じように思っていたことであろう)。

 暮らしを共にする中で次第に顕在化する大きな文化差。この差を埋めるためには当時の私の知識が経験は不十分であった。二人の息子に恵まれてさらに状況は複雑化した(笑)。二人の関係は二人だけの問題であるが、子育ては息子たち本人や彼らを取り巻く社会を含めて考えねばならず非常に難解なタスクであった。この難しい課題に取り組むためには新たな分野に立ち入ることとなった。それが「異文化コミュニケーション」や「多文化共生」である。この分野に関して素人だった僕は、多忙な中でも少しの隙間時間を使って関連文献に目を通したり、人々の体験談に耳を傾けたりした。

調査を進めるに連れて、当時の日本において(今もそうかもしれないが)国際結婚が如何に「リスキー」な選択であったかを思い知らされることとなる。国際結婚の先輩たちが語る現実は、”夢物語”とはかけ離れ”苦労と修行”ばかりが目に付いた。案の定、私たちもその例外から外れず多種多様な苦労を強いられた。”外国人が日本で生きていく苦労”、”外国籍配偶者を持つ日本人の苦労”、そして”深層文化の異なるもの同士が醸し出す(目に見えない)独特の雰囲気を日本社会と調和させる苦労”。これが日本社会にいるからこその苦労なのか、世界中どこでも同じなのか分からないが、どこに「地雷」が埋まっているかわからないような道を歩き続けているようなものだった(具体例はブログでは完全非公開)。一歩間違えば”The end”.

二人の子育て中、周囲の皆様には大変なご心配をおかけした。というのも、当時の私は「墜落寸前の飛行機」の墜落を阻止すべく必死に操縦桿を握っている状態だった。墜落を阻止するためにはいかなる”奇策”にも打って出た。しかし、その奇策をいちいち周囲に説明する余裕などない(というよりも説明するのが面倒臭くなってしまっていた)。ジェットコースターのようにアップダウンの激しい展開に心配した多くの方々に助言には、耳は傾けたもののこちらの事情を説明することは一切なかった言ってよい。結果として今、子どもたちも成長し家族全員がそれぞれの道をしっかりと歩んでいる。当時ご心配をおかけした皆様も「ホっと」胸をなでおろしていることだろう。

学生時代の経験や家庭事情を通じて“ソトの世界”への興味が益々深めた私は、生徒・学生の海外研修等の引率や国際理解イベントなどにも積極的に関与した。高校教諭二年目の夏季休暇中は、全国から選抜された高校生を引率してバンクーバーに一ヵ月滞在した。その後もイギリス、オーストラリアなどでの海外研修を進んで引率し、学生たちの行動観察に明け暮れた。僕が引率してやることは一つだけ。とにかくずっと生徒学生にくっ付いて回り、彼らの「気持ち」に入り込むこと。生徒、学生からすればいい迷惑なのかもしれないが、他文化に接触したときの人の心の変容過程を追うことは、もはや僕の趣味と化していた。

2020年8月7日金曜日

関昭典教授 私の履歴書#14(高校教諭時代補足 授業外での生徒との交流が授業を充実させる)

 前回と前々回で、高校教員時代と短大教員時代のことを振り返ってきた。ただし、特に高校教諭時代について文章校正上書き切れなかった部分があるので、補足記事を追加する。

 あの時代の活動実践を一言で記すならば「動機づけストラテジーを用いた指導実践」となるが、実践の鍵となったのは、実は英語指導とはほぼ関係のない授業外での生徒、学生との様々な課外活動であった。

 私は新潟大学の学部及び大学院、英語教育について多角的に学ばせていただいた。その前提条件として、「英語学習は重要である」という認識があった。当時は中曽根康弘首相の下で「教育の国際化」が推し進められとりわけ英語教育はその柱であった。ALT(英語ネィティブの指導助手)制度が導入されたのもこの頃である。

 しかし、高校教師となり私の前提条件は見事に覆された。目の前の生徒たちの多くは明らかに英語学習を欲してはいなかった。この現実を最初は受け入れることが出来なかったのだと思う。「英語はこれほど大事なのになぜ、彼らが真面目にやらないのか。」と嘆いていた。この時に僕に圧倒的に欠如したのは、「他者の視点」であった。自分が得たちっぽけな知識が、あたかも普遍的事実のように捉え、それに外れる人々を問題視していたことが今ではよくわかる。実は彼らの多くは「英語学習を欲していなかった」のだ。真面目に取り組むはずがない。

 期待価値理論というものがある。その学習に期待を持てるか、その学習に価値を見出しているかが、学習行動を左右するというものである。彼らの多くは英語学習に対してさほど期待もしていなかったし、価値などほぼ見出していなかったのだと思う。それ以上に彼らは“学習性無力感”(失敗経験を重ねる度に自分が無力である言う気持ちを学習し強化されてしまった状態)に満たされていたと考えている。実際彼らの中学時代の成績は低迷しており、高校1年生の英語教科書の難易度は中学校2年生の教科書のレベルだった。

 授業崩壊状態から脱したいと学び始めた“学習動機づけ”だった。そして人の心に関する分野である以上、関わる人の心に「思いを馳せる」ことが求められた。しかし、私は当時その分野の知識が圧倒的に不足していたので、“素人”なりに地道に生徒に接し、何とか彼らの気持ちを理解しようと努力するしか他になかった。

 一年くらいかけて生徒の話を聞き取った結果、私は英語を学ぼうとしない彼らの状態を、“無目標という懲役を与えられた囚人”に例えるようになった。その囚人は、荒野の中地平線まで続くまっすぐな一本道に立たされ、独りぼっち。来る日も来る日もひたすら歩かされる。与えられるのは簡素な食事と睡眠だけ。来る日も来る日も歩き続けるが、ゴールまいつまでたっても見えてこない。古代ギリシア神話の中の挿話であるエフェソスの神話では、罪の償いに大岩を山頂まで一生運び続ける苦行を課される巨人が登場するが、それと同じ気持ちかもしれない。恐らく、“発狂状態”に陥るのではないか。

 彼らの多くは、中学1年後半段階で既に英語の授業内容が訳がわからなくなっていた。とすると、それ以降の2年間は、さっぱりわからないのに50分間、週4時間も“授業”という名の“懲役刑”に付され、訳も分からぬまま“歩かされていた”のだ。

 ゴールも見えないし、成長も実感できないし、意味も感じられない作業。結果点数によって「できない人」と宣告される。その繰り返しはボディーブローのように少しずつ精神に苦痛を与えていく。

 こんな彼らの心を開くために私はありとあらゆる手段をとった。その多くが授業外でのアプローチである。

 

1.接触の機会を増やす

 ひたすら彼らの見えるところに居続けて、話しをした。昼休み、放課後など少しでも時間があれば生徒たちがたまる場所にいて話した。「立ち話の関」と呼ばれたことさえある。

今だからこそ打ち明けるが、当時この戦略を実行するのに邪魔となったのはバスケットボール部の副顧問であった。毎日練習、週末はすべてリーグ戦。全校生徒のわずか一部に過ぎない部員生徒たちとの交流に限られた時間のほとんどを吸い取られてしまう。バスケットボールは好きであったが、その時の自身の目標に向けては、申し訳ないが“時間の無駄”にしか思えなかった。そこで移籍希望を出して2年目からは山岳部顧問となった。楽ではなかったが、月に一回数日間山を回るだけで、日々の活動は軽減されたために、接触したい生徒たちと接触する時間を確保することができた。

 

2.山岳部顧問の副産物

山岳部の顧問には予想外のメリットも付属した。改めて言うまでもないことだが、山に登ることはかなりきつい。生徒にとっても僕にとってもだ。頂上まで無事に登ってテントを張る頃には、山岳部と僕の間に妙な一体感が成立していた。山登りの苦楽を分かち合いながら膨大な時間のコミュニケーションを通して、まるで山の濃霧が一気に晴れるように、僕は今まで掴みかねていた生徒の内面を理解するようになった。

 一言で言えば彼らは「いい奴ら」だった。ただ、勉強は嫌いなのはビシビシ伝わってきた。大自然の中で彼らとコミュニケーションを重ねるうちに、勉強が苦手な人の気持ちがわかるようになってきた。もう一つ分かったことは、学校教育の教科は、人間の能力のごく一部しか見ていないということだった。山で共同生活をするためには日常とは異なる様々なスキルを要するが、多くの場面において生徒たちは私より長けていた。例えば、火の起こし方、時間のないときに食事を素早く作る手法などなど。山での活動を通じて、生徒と互いに学び合う視点を見出してからというもの、学校内での生徒たちとのコミュニケーションもみるみる円滑になっていくのが手にとるように実感した。

 

3.める

 彼らがあまり褒められた経験が少ないことに着目した(褒めることは動機づけの基本)。保護者やこれまでの学校生活でも褒められた経験の少なかったのだ。教員なりたての頃の僕は、彼らのやる気のなさを嘆くことは多くても、褒めることを意識していなかった。そこで、戦略的に褒めることにした。僕は表情が怖いと言われていたので、教室に行く前に毎回鏡で笑顔のチェックをした。褒めるためのニコッと笑った顔を確認してから気負いを入れて教室を出る僕は、さながら出陣前に鎧の紐を締め直す武士のようだった。

 ただし、生徒が何もしていないのにやみくもに褒めたわけではない。生徒の努力を褒めることにした。一人一人を呼んでその生徒ができる課題を個別に出して、達成したら惜しみなく褒めた。褒めちぎった。

 毎回全力で褒めていたものの、多くの場合生徒はさほど強い反応を示さなかった。しかし、あるとき褒められた生徒が号泣した。10点満点の英単語で満点を取ったのだ。いきなり泣き出した彼女に困惑したが、「こんなに褒められたのは初めてのことだったからつい」と聞いて、強力な手応えを感じた。

 努力をさせて成果を褒める作業は大変地道なもので、褒めることができるのは多くても1日に3人程度。しかし「学習性無力感は短期間で抜け出せるものではない」と心理学の本で読んだので、根気よく褒め続けた。

 半年経つ頃から彼らは学習行動に変化が見られた。僕が「すごいよ!すごいよ!」攻撃に彼らが“洗脳”されだしたのである。

 それと並行して“英語の大切さ”を、彼らの日常生活や将来に照らして、まるでお経を唱えるように繰り返した。半年も経つ頃にはまるで霊が成仏するかのように、生徒たちも根をあげて「英語が大切だ」と納得し始めた。

 英語で話しているかっこいい姿を見せるために外国人の先生を担当でもないのに呼んできて、僕が英語で会話を行った。また、僕は国際結婚していたので国際結婚の幸せについて語った。さらには英語習得と「頭のよさ」は関係ないことを証明する逸話を話しまくった。英語自体を教えるよりも、このモチベーションを上げるためのトークの時間の方が長かったくらいかもしれない。

 

4.「あなたたちのためならなんでもやります」オーラ

 とにかく、生徒のためになることであれば何でも全力投球した。例えば体育祭。担任をするクラスの生徒たちは、英語の勉強をしっかりやらなくても体育祭で優勝することには熱意を燃やしていた。その目標に僕は加担し、優勝するための戦略を生徒たちと細かなところまで入念に話し合い、実行した。その結果、作戦が見事功を奏し2位以下の遥かに引き離しての歴史的大圧勝。このような英語教育とは無関係な場所での共同作業が英語学習に良い形で跳ね返ってきた。

 

5.動機づけの維持

 上記の過程を経て、英語学習に取り組み意欲を喚起することには成功したが、次の問題は「やる気を維持させること」であった。

 勉強を始めたものの、わからなければ、結局前の繰り返しで学習性無力が強化されてしまう。褒める戦略は「動機付けの喚起」に功を奏しても「動機付けの維持」にはそれだけでは不十分。やはり実力をつけてあげなければいけない。

 そこで、褒めながらもかなりの量の授業外課題を課した。手取り足取りの具体的指示が記された課題で、英語が苦手な生徒でも自宅にて一人で取り組めるものを意識した。作るのに相当な時間を費やしたが、“洗脳された”彼らは真剣に食らいついてやってきてくれた。それについて褒めまくった。また、教室内に意見箱を設け、そこに出された意見は生徒が驚くほど派手な形で実現した。僕の“なんでもやりますオーラ”の成果の本領発揮だった。宿題をやってくると必然的にテストの点数も上がる。そして褒められる。出した意見が採用される。生徒たちの学習時間が半端なく増大して良いループが始まった。

 

6.目に見える成果

 調子にのった僕は「これからの時代、英語の資格は大事だ」「全員受けろ」と叫び続けるようになった(今思い返すとぞっとするが)

 もちろん受験料もかかるし生徒の中には乗り気でない人たちもいる。そこで用いた動機づけストラテジーは「親を味方につけろ」。学級通信をいきなり起ち上げ、親に直接訴えかけた。学級通信を親に確実に呼んでもらうために、「親に学級通信を渡して印鑑をもらってきて」と強制した(今思い返すとぞっとするが)。そして英語の話題と資格試験の大切さを訴え続けた。

 英検を生徒たちが受ける流れを作ることに成功すると、次になすべきことは成功体験。つまり合格させること。これは僕にとって相当なプレッシャーだった。「絶対に受からせなければいけない」この強い気持ちから始業前時間の早朝補習が始まった。「僕は750分に待っているから来たい人は来てね、」誰も来ないのではないかと心配したが、生徒が集まらない日は一度もなかった。

 結果、英検を受けたこともない生徒たちから英検4級~英検2級まで多くの合格者が出た。「高校生が英検4級や3級に受かったから何?」と思う人もいるかもしれないが、「成功体験」の乏しい人にとってはどんな小さなことであれ、認められる経験は大きな自信につながるのだ。

 

 動機づけ成功例の一部を記したが、実際には数多くの挑戦をしてその多くが失敗に終わったというのが事実である。当時の僕は心理学関連の専門書を読み、「これは使えそう!」と思った理論をとにかく次から次へと試した。サッカーのシュートと同じで、挑戦してもうまくいくのは一部。いくつかはうまくいって、いくつかは全くの的外れで終わった。苦労の末の得点の積み重ねが彼らの学習行動の変容をさせていった。