2020年9月23日水曜日

関昭典の研究室 私の人生に影響を与えた人物#1(植村直己)

 1.前書き

 

「なぜ貴方は毎年ネパールやベトナムなど、アジア中を駆け巡っているのですか?」

累計30回以上もアジア諸国へ学生たちを連れて行っているにも関わらず、その理由を言語化することは怠ってきた。忙しすぎたから・・・と言うと、まるでレポートの提出が遅れた学生の言い訳じみてしまうのであえて何も言うまい。

コロナウイルスによって十何年ぶりに現地での国際交流プログラムを開催できなくなったことをきっかけに、自分の半生を振り返る「私の履歴書」20202月〜9月にかけて連載した。

 

一方で、語りきれなかったことも数多くある。それは「私の履歴書」という観点から編集するにあたって、断腸の思いで削ぎ落とした要素たちだ。

「孟母三遷の教え」の慣用句では場所が人に与える影響の大切さについて説いているが、何も人間が影響を受けるのは場所だけではなく、人間からも大きな影響を受ける。

本連載は「私の人生に影響を与えた人」という観点から、しばらく書き綴って行く予定だ。

 

2.本文

 

 植村直己という登山家を知っているだろうか?

 植村の人隣りは以前から知っていたが、先日息子が読売新聞のコラムに記事を書くために家に転がしていた本を読んでふと思いついたことがあったのでこの機会に取り上げる。

 

まず植村のことを知らない読者のために彼の経歴を下記に引用する。

 

1941(昭和16)年、兵庫県生まれ。明治大学卒。日本人初のエベレスト登頂をふくめ、世界で初めて五大陸最高峰に登頂する。76年に2年がかりの北極圏12000キロの単独犬ぞり旅を達成。78年には犬ぞりでの北極点単独行とグリーンランド縦断に成功。その偉業に対し菊池寛賞、英国のバラー・イン・スポーツ賞が贈られた。南極大陸犬ぞり横断を夢にしたまま、842月、北米マッキンリーに冬期単独登頂後、消息を絶った。夢と勇気に満ちた生涯に国民栄誉賞受賞(引用:植村直己『青春を山に賭けて』文集文庫,BOOK著者紹介情報」より,強調は引用者)

 

 世界の錚々たる山々を制覇した植村の経歴だけでイメージすると、彼の話しているところを聞いたことがない人は、ともするとあたかもスーパーマンかのような体育会系のエネルギッシュな人物像を思い浮かべるかもしれない。

 だが、実際に彼がテレビなどで話しているところを目にしたことがある人が抱く印象は、プロフィールから抱く印象を大きく異なるはずだ。木訥とした、寡黙な男。世界的登山に成功した「覇者」のような貫禄をイメージしていた人は肩透かしに合うかもしれない。

 

 実は僕も最近、思いがけず学生を「肩透かし」な目に合わせてしまった。

 

 2020年の夏は、数多くの国際交流団体が活動中止になる中で僕の関わる団体はなぜか活動を増やしていた。例年行ってきたネパールやベトナムの海外交流プログラムに加えて、新たにバングラディシュ・プログラムも開幕。さらには新勉強会企画の発案。コロナ禍で逆に活発化する我々は周囲からは異様に見えていたことだろう。「肩透かし」を食らわせてしまったのは昼夜を問わずに続く準備会議やプログラム開催中であった。

 何しろ史上初のオンライン国際交流は想定外の事態の連続。会議は「ああでもない」「こうでもない」と錯綜。僕はネガティブ発言の連発にしびれを切らしたAAEEの学生から「しっかりしてください!」と怒られてしまった。(“学生を怒ったのではなく、学生に怒られる大学教員など前代未聞である・・・)

  僕の“華やかそうな”部分を見て共に活動することを希望してきた学生からすれば、「こんな頼りない人だったのか」と肩透かしを超えて幻滅に近い気持ちになったかもしれない。

 しかし一見矛盾するように感じられるかもしれないが、実は今までに手掛けてきた国際交流プログラムの成功は、この「自信のなさ」があるが故に生み出せたものなのだ。

 『青春を山に賭けて』のインタビュー箇所で植村さんが、「登山家・探検家として何が一番大切か」と問われて印象的な答えを返す。

 「臆病者であることです」(引用:前掲書)

 一瞬意外な答えだと思ったが、同時に深く納得した。世界的な探検家と自分のような一介の大学教員をなぞらえることは不遜にすぎて赤面するが、その無礼を承知でいうならば、どこか自分と植村さんが似ていると感じたのだ。

 

 僕自身のこれまでの経歴や現在の肩書だけ見ると、外交的な猛者だと勘違いされがちだ。

 しかし実際のところ僕は、他に類を見ないほどの空前絶後の超内向的人間なのだ。僕の胸中は常に不安が渦巻いている。他の人が「えっ、そんなこと気にしなくていいよ」と驚くほど些細な問題でも、僕にとってはまるで隕石が落ちて地球が滅亡するかの如く大問題として捉えて悩み込んでしまう。人が僕に向けて発するコトバの一つ一つに過敏に反応し落ち込む。クヨクヨと後悔する。

 考えすぎると、自分の心の中との戦いで忙しくなってしまって布団から体を起こすことすら億劫になってしまいそうになる。精神世界での戦いにエネルギーを取られてしまって、現実世界の体を動かすエネルギーが足りなくなってしまうのだ。数少ない僕の理解者が、僕が心身的にまずい状況になるのを見計らってお茶に誘ってくれるのが唯一の救い。

 そんな自分の性質を理解してからは、悩みすぎる前に行動に移すようになった。周りからは超行動的だと思われたりする。“衝動的スピード感”とさえ称されることもある。だが実際のところ、悩みすぎて歯磨きすら面倒くさくなる前に行動に移すという、自分の性格に合った戦略で行動をしているにすぎない。

2020年9月13日日曜日

関昭典の研究室 私の履歴書#最終章 (東京での活動総括)

  東京に異動してきた2007年から現在まで一貫しているのは日本と東南、南アジア地域の大学生との交流活動を基軸としてきたことだ。2011年~2013年にかけてはタイとネパールに居住しながら現地の暮らしを肌で感じてきた。

 活動の原動力となったのは、日本はこの地域の人々と共存する時代が近い将来やってくるという強い確信であった。しかし、当時の私の主張はなかなか受け入れられず歯がゆい思いをした。

 「待っていても何も始まらない」という経験をそれまでの人生を通じて学びとっていた僕は、「ならば勝手に始めるしかない!」と、AAEE,アジア教育交流研究機構という点のような小さな組織(非営利系一般社団法人)で志を共にする極少数の人々と地道に道を探った。しかし、僕には大学の専任教員という本務がある。本務を疎かにせずに両立するために、夜間、休日などの空き時間をほぼすべてこの活動に費やしてきた。実は東京に引っ越してきてから現在に至るまで、休暇らしい休暇はすべて合計してもわずか10日以内であったような気がする。振り返って考えると相当にクレージーな人生であった。

2008年~2010

 不慣れな東京での暮らしに戸惑いながらも、2名~3名での勉強会を重ね、日本、東南アジア、南アジアの教育動向について議論した。この当時はあらゆることが漠然としていて、訳が分からず辛い日々。それでも「動き廻っていれば何か見つかる」とモットーに、どこにでも出かけて様々な分野の方々の話を聞いた。少しでもネットワークが見つかれば、そこに出かけて小規模勉強会を開催した。

 

2011年~2013

タイ・ネパールを拠点に東南アジア、南アジア各国を周り調査。空き時間はほぼすべて現地の学生と過ごして学んだ。読み書きと睡眠時間以外、一人でいた記憶は全くない。さらにその学生たちを通じて“友達”の輪が広がっていった。彼らの連絡手段であるSNSを使いこなし、知り合った学生とは時間の許す限り個人的なやり取りをして交流を深めた。結果、数年かけて僕はあの地域に強大な若者ネットワークを構築した。「ローマは一日にしてならず」僕が自分の足でアジア中を歩き回って築いてきた人脈は、帰国後、僕をあらゆる場面で援護してくれた。

 

2013年~2014

 帰国後、多くの国の学生や大学教員が、本務校である東京経済大学との交流を熱望した。しかし、僕は無名の一大学教員。自己判断でできるのは、担当するゼミ学生に交流機会を与えることくらいだった。しかし、その「海外ゼミ研修」は、現地の日本ブームも相まって僕自身があっと驚くような‟化け物“のような凄いプロジェクトと化した。現地の新聞やテレビに連日取材され、我々が登場する舞台にはドライアイスや花火まで噴き出してきた。2014年のプログラムはベトナム外務省のホームページにまで紹介されたほどだ。しかし、帰国後、「これは大学の宣伝になる」と確信し、掲載された新聞を広報・国際交流セクションに持参したが、予想外の‟無反応”。これで僕の意思は固まった。「学外に出よう!」

 

2015

 そんなタイミングで発生した2015年のネパール大地震。運のいいことに、最強に「使える」人材が身近に存在した。僕自身の長男である。ネパール地震が発生したのは彼が上智大学総合グローバル学部に入学して僅か3週間後。稀有なネパール語話者、日本人・ドイツ人でもある彼は、多くの同級生を連れて応援に駆け付けた。ネパール地震復興キャンペーンは、彼らの助けなしには実現できなかった。実はAAEEに今でも上智大生が多いのは、彼が上智大学在学中にひたすら声をかけ続けてくれたおかげでもある。僕は無遠慮に彼の交友関係を浸食し続けた笑。

 この過程で僕はある大発見をした。大学教員 vs AAEE、二項対立で考えていたのだが実は両者は相互支援関係にあったのだ!僕は、空き時間を見つけては、異文化者間の交流を促進する手法を求めて学び続けていた。読みこなした文献も相当量になっていた。しかし、僕はそれを自分の趣味としか捉えておらず、このために大学教員としての本業を疎かにしてはいけない!と自分に喝を入れ続けてきた。ある年、それまでの活動を整理することだけを目当てに論文を書いて投稿した。人に読んでほしくないので、誰にも言わなかったのだが、親切な同僚が「素晴らしい研究をしていますね。びっくりしました!」と言ってくれた。思いがけないフィードバックであったが、その瞬間、目の前がぱっと大きく開けた気がした。

 以来、AAEEの活動をすることに何の引け目も感じなくなった。AAEEの活動にも本務校の教育活動にも真剣に取り組み、その成果を世界中の教育実践家や研究者と共有するようになった。やりたいことに好きなだけ取り組めてそれを「仕事だ!」と堂々と言える。これほどの幸せは環境はない。

 

2020年~

 本務校に恩返し中(詳細略)

 

まとめ

 僕の活動に欠かせないのは学生。特にアジア各国の学生と協働するようになってから、完全に夜型人間と化してしまった。例えばネパールの学生と話す場合、彼らの都合のいい時間は夜9時頃、しかし日本では深夜帯である。結果私が眠りに着く時間は平均して深夜2時くらいになってしまった。翌朝起きる時間は滅茶苦茶、毎朝同時間出勤の義務がない特殊な職場ではあるが、睡眠時間はバラバラな生活がもう8年以上続いている。しかし、やりたいことをやっているので苦にならない。

 学生が主体となって作り出す国際交流空間。そこから得られる多文化共生の学び。SDGs ゴール17「グローバルパートナーシップ」到達期限である2030年まで後10年。僕たちは、あなたたちは、何をなし遂げることができるのか。楽しみでならない。

そんな夢を持てる今の自分に到達するまでには随分と時間がかかったが、頑張ってきて本当によかった。

 

おわりに

これで「私の履歴書」シリーズ見事に終了。春に開始し大学の夏季休業中に完了しようと心に決めて取り掛かったが、ギリギリ目標を達成した。ただし、私一人の力で実現できた訳ではない。東京経済大学関昭典ゼミ所属生、内田充俊氏のたゆまぬ叱咤激励と協力がなければここまで辿り着けなかった。心から感謝したい。

 今後は、その時々で思いついたことを話題に不定期に投稿していきます。

なお、AAEEでの活動詳細は➡https://note.com/multiculturalism/n/n36bec34d0aa0

関昭典の研究室 私の履歴書 #23 ネパール・ヤギ小屋プロジェクト(ネパール大地震復興支援)

  201555日。必死の努力のかいあって、ゴールデンウィーク最終日にJICA地球ひろば国際会議場で開催されたチャリティイベントを、何とか無事に終えることができた。全国の名だたるテレビ局や新聞社が集結する一大イベントであった。その様子は当日夜のテレビニュースや翌朝の朝刊で大々的に報じられた。ニュースのみならず、ネパール地震関連の緊急番組でも特集された。

しかし大きな期待にはそれに比例して責任も大きくなる。チャリティイベントで支援金を引き受けたことで、集まった金額以上に、責任の重さが僕の双肩にのし掛かってきた。例え1円でも人からお金を受け取ったら、それを適切に使って報告する義務が発生する。その責任を自分たちが負うことが本当にできるのか、それが正しいことなのか・・・

 そもそも振り返ると僕自身、小学生の時から募金活動には懐疑的な視点を持っていた。例えばベルマーク募金や赤い羽根募金など、先生の求めに応じて協力していたが、果たしてどのように使われているか判然とせず、不審な思いを募られていた自分がいた。

 さらに、元来楽観主義者ではない僕は、考えこみ始めると悲観的になり過ぎてドツボにハマってしまうことがある。意図せずにメディアで急に脚光を浴びてしまったことによる一部の方々の謎深き“批判”も心に刺さり、行動を起こしてしまったことに後悔する時期もあった。しかし、一度始めたら責任は全うしなければならない。責任者として、支援者を裏切らず資金の不透明な流れは一切作らないように責任感を募らせていた。

 学生たちは本気になっていた。それまで互いに交流のなかったAAEEと東経大関ゼミの学生が、ネパール地震復興支援活動「メロ・サティ・プロジェクト」のメンバーとして協働し始めたのは興味深かった。さらに被災国であるネパールやアジア各国の学生たちも加わっての議論が始まった。Brewer (1997)は「共通内アイデンティティモデル」を提唱し、互いに文化の異なる集団を「ウチ」集団とするために、「ソト」文化を包括するような上位カテゴリーを形成する手法を提案した。ネパール地震復興支援「メロサティ・プロジェクト」は正に「ソト」集団同士を結びつける「上位カテゴリー」であった。ゼミ生がデザインしたお手製のリストバンドをベトナムの学生がホーチミンで手配し、東京経済大学構内や上智大学構内その他都内各所、アジア各国の大学で募金販売した。

 募金活動と並行して「使い方」を何度も話し合った。短い期間で学生たちは何度も対策会議を行って話し合った。会議に当たっては、僕が寄付してくださった方々の思い分析して以下の3つを伝達した。

1. 本当に困っている人に届けること

2. 日本やアジア各国の学生と被災地ネパールの学生が共に考えること

3. 教育支援であること

 地震直後、ネパールの知人たちから、国際支援物資が空港外の屋外に山積みになっている、道路が寸断されているので被災地に支援が届かない、支援金搾取などかなり正確な情報を得ていた。そこで、メディアや周囲の団体の慌ただしい動きに惑わされずに落ち着いてしっかりと準備することを皆で確認した。

 支援地は被害が最も深刻なゴルカ地域の村に確定。支援方法は地震で住居、仕事を失った家庭への「ヤギ小屋プロジェクト」。ネパールではやぎ肉やヤギ乳が重宝される。やぎ小屋から出た利益の半分をオーナーが得て、残り半分を村の教育費に充てるというもの。その教育費の友好利用を長期的に検討していこうという結論に至った。その村では学校も損壊し支援を希望していたが、緊急竹製学校の設置を僕がネパールのNPO団体と交渉した。またそのNPOを通じてネパール政府に新築の要請をした。AAEEは教育団体である。そのノウハウを使うべきは教育内容の充実であり建物建設にはないのだ。説明がくどくなってしまったが、要するにAAEEと現地NPOが共同で、やぎ小屋と緊急竹製学校を支援することになった。被災地の人々には①やぎ小屋建設➡②学校建設の順番を崩さないように繰り返し使えた。教育の充実のためにはやぎ小屋経営から生み出される教育費が不可欠と強調した。

 地震から4か月経過した8月、AAEE日本とネパールの学生20名が被災地を訪れて言葉を失った。竹製の学校は完成していたがやぎ小屋には手つかずだったのである。何日もかけて被災地に辿り着いてこの有様。さらに、悪びれずに完成した学校の開校式に招待する村の幹部たちには愕然とした。現地のAAEEの学生アシスタントたちは頭を抱えるばかりであった。

 参加メンバーですぐに「緊急会議」を開催。選択肢は「支援打ち切り」「支援継続」の2択。1時間半議論した結果「支援打ち切り」を決定。数時間後には村を後にした。

 「支援打ち切り」=支援者への責任を果たしていないことを意味した。深刻な事態である。しかし、十分に信頼できない人々活動することを支援者の皆さんは望まないと思っての厳しい判断であった。

 帰国後、より注意深く支援地を検討し、ヌワコット郡の被害が大きかった村を支援することとした。日本―ネパールの新たな「学生支援検討グループ」を設置し準備した。そして、翌20162月。日本、ネパールの17名学生が現地を訪れ、建設完了したやぎ小屋と、そこから利益が生み出される仕組みを確認することができた。そして、帰国後の5月、AAEEが開催したイベントの中で、「ネパール地震緊急支援募金の活用報告」をした。ちなみにこのイベントは外務省やJICAに後援していただいた。

地震発生から丸一年の試行錯誤。イベントを終える頃には、もはや心身共にへとへとだった。その後数週間は大学教員としての本職以外、ソト世界との交流を完全に遮断してしまうほど疲弊していた。

2020年9月8日火曜日

関昭典の研究室 私の履歴書 #22 子育ての振り返り

 

前回からの流れ(ネパール大地震対応)を一旦切って、今回は子育ての振り返り。

 僕には2人の息子がいる。僕は二人の子育てが面白くてならなかったし、かなりはまっていた。「僕の考える子育て」というタイトルを立てても一本のブログが立てられそうだ。しかし、一方で僕は好き勝手な行動を繰り返していたわけで、振り返ってみると彼らは親の身勝手な行動にもめげずに、逆にそれをバネにして逞しく育った感じがする。獅子は子を教育のために千尋の谷に突き落とすというが、僕の身勝手な行動に振り回されることが奇しくも「千尋の谷」に相当していたのかもしれない。

長男は、既に度々触れてきたように超独特の感性を備え学生時代を謳歌して社会に巣立っていった。小さな頃はおとなしめの性格だったのに高2でネパールから帰国してからは「勝手に講演会」「世界にトビ立てなんとか」とかいろんな活動に首を突っ込むようになりもはや僕の手には負えなくなってきた。ネパール前後で彼の性格は内向→外向に大きく変化したが、その変貌ぶりはまるでネパールにいる間に外見がそっくりなドッペルゲンガーに入れ替わられたくらいであった。彼の子育て中の出来事はもはやギャグ満載すぎてそれだけで一冊の本になりそうである。結局、やたらと「目立つ」作品が完成した。

一方、二男は派手な長男の陰に隠れて中々目立ちにくいが、実はポテンシャルは長男を遥かに超えるとの父親評。彼の生い立ちを辿ることは私の人生を振り返るに相応しい。

新潟市で生まれた彼は海岸近くの自然豊かな地で幼少期を過ごす。幼少期は大変活発で、鳴き声も大きく手がかかる子どもであった(長男とは対照的)。生後かなり早い段階から、テレビ番組で取り上げられるほどの最高の環境の保育園に毎日通った。そんな彼に転機が訪れたのは保育園年長組の秋口。父親の指令で「いきなり」東京に引っ越しを命じられたのだ。幼児の彼は親の言うがまま。保育園の先生方は彼に同情したが、当時の僕からすれば家族を東京に異動させることが最優先事項であった。

東京に引っ越し後は、某インターナショナルスクールに入学し数か月間過ごす。しかし、長男が学校に馴染めなかったことにより、彼は再度都内で引っ越し、新たな学校に入学した。その学校でもよい先生や級友に囲まれ、毎朝誰よりも早く学校に到着したいと言ってきかなかった。しかし、父親の仕事の関係で小3を終えた段階でタイに引っ越しをする。東日本大震災直後の騒動で、級友に別れも告げることができずに飛び立った。

タイではバンコクの日本人学校に通った。その学校を見た父親は、ここにずっといてはタイの文化を学ぶことができないと、帰宅すると常にタイの学生がいる環境に置かれた。そこでも彼は前向きに元気に暮らした。タイ語もうまくなり、四年生で一番タイ語が上手いとまで言われるようになった。しかし、夏過ぎから大洪水に見舞われ学校は長期間休校になる。避難のためにいくつかの国を転々とした挙句にネパールに辿りつき、親の言われるままに、現地校(私立)に2カ月体験入学させられる。そこでも彼は前向きに元気に過ごし、いい友達にも囲まれる。しかし2カ月後にはバンコクに帰国を命じられネパールの友達とお別れ。

ここまで書いただけで彼には大変な思いをさせてしまったと反省するがまだまだ続く。

 バンコク日本人学校に復帰し数か月後に、親に言われるままに再びネパール行きを余儀なくされる。そして、貧困児童を救うための全寮制チャリティー学校に放り込まれる。川で洗濯、ろうそくの灯りで勉強。そこでも彼は活力は衰えず、すぐに言葉も覚えてリーダー格として活躍するようになる。さらに、朝学校が始まる前に僕の暮らす場所に来て2時間日本の教材で学びその後に学校に戻っていくハードな暮らし。加えるならば、当時のあの学校をわかりやすく表現すれば「なんちゃって学校」。学校がないよりあった方がいいだろう、というノリで運営されていて先生は8割が高校生。彼の先生方はよく、内緒で彼にテストの答えを教えてあげてくれていた。体罰やけんかも日常的、挙句の果てには彼の英語の先生が家出をし、僕も含めて皆総出で探し回るという珍事件まで発生した。

 そこで一年間暮らし、日本に帰国、元の私立学校に戻ろうとしたら感染症が発覚し帰国後間もなく杏林大学病院に入院。入院生活は3か月間にも及んだ。ICU(集中治療室)も経験し死亡確率〇〇%と言われて心底あせったが無事回復。その後無事学校生活に戻る。すると小学4年次に親に薦められてはじめたブログを小まめ更新する几帳面さを備える彼は、退院後の夏休み、そのブログを発展させたものを次から次へと作文コンテストに応募し受賞しまくる。高円宮妃殿下とも2年連続で会話を交わした。

 その年の冬、彼は某都立中高一貫校を受験するも不合格。通っていた私立学校は、小中高一貫校であったが、他の学校を受験した段階で上級学校には進めない仕組みとなっており卒業式と共に退学、中学は自宅近くの公立中学に進学した。この中学時代は父親目線では、彼の激動の人生の中で唯一‟人並み“な日常に見えたが、彼は読売新聞のジュニア記者に応募、合格し頻繁に一時間以上かけて都心の読売新聞本社に通った。そして高校受験。猛烈に勉強をし、超進学校である国立高校や立川高校に合格できるレベルに達する。多摩地域最難関公立である国立高校は、雰囲気が合わないと対象から外して立川高校に合格。

 高校入学後は一転高校生活を謳歌、一年次はほとんど勉強せず成績もそれなりだった。しかし、課外活動ではやたらと活躍し、ウォータボーイズ、演劇、英語スピーチ、読売新聞、至る所に彼はいた。有名な政治家やノーベル賞学者とのツーショットをいきなりラインに送ってきて「こいつ何者?」と思わされたことも少なくない。高3合唱コンクールでは指揮者。彼の指揮者としての動きは明らかに他のクラスの指揮者とは違った。あたかも世界的指揮者、小澤征爾と競っているかのようにその場のハーモニーに入り込んでいた笑。高3全英連全国スピーチコンテストでは、予選通過したものの本選の直前になって、「(自分で書いた原稿にもかかわらず)この原稿は僕の本当に言いたいこととは違う」と突然言い出し、本番では、(まさかの!)予選通過した原稿と全く違うことを堂々と話して見事に失格(先生方はあきれていた。暴挙にでながらも、直後に先生と所に向かい謝罪したのは可愛らしい)。

 一方で、高校一年生の頃から大学は海外でと言い切り、父親からは奨学金を取ってこいと命じられる。しかし大学卒業まで面倒を見てもらえる奨学金試験に一次選考で敗北して断念。高校年後半で再度海外への進学を希望するが、「金がかかるから辞めてほしい」と親に言われ断念。一転「ならば僕は東大に行って日本一になる」と高らかに宣言した。家族一同拍手喝采(笑)したが、東大に合格できそうな気配は全く見えず、高校3年途中に早々と敗北宣言。その後必死の努力を重ねるも、大学受験全敗して現在浪人中である。

 以上、彼の人生を僕の一方的な視点で羅列したが、彼はよくも潰れずにここまでやってきたと頭が下がるほどだ。国際結婚の間に生まれた子どもとしての苦労も合わせると尊敬に値する。ここまで育ってくれただけで父親として十分に満足なので、もはや彼の進路や生き方に口出しする理由などどこにも見当たらない。