2020年5月16日土曜日

関昭典教授 私の履歴書#8(地獄の専門科目時代)

   僕が無事2年生に進級できたのを知ったのは日本から約6,000kmも離れたインドだった。前回の記事(私の履歴書#7)ではインド・ネパール旅行の顛末を書いたが、その旅行の途上で友人に国際電話を受けてガッツポーズ。たった1分で100円もする国際電話の電話料金は痛かったが、進級の一報を受けるまでは「果たして無事進級できるだろうか」と不安で胃が痛かった。何しろ1年生の時の僕は週に平均2コマほどしか出席せず、この旅行のためのアルバイトに明け暮れていたのだ。進級できた時は「奇跡だ!」とインドの神ガネーシャに感謝。

 そんな“怠惰”の二字熟語が擬人化したような大学生活を送っていた1年次だったが、2年生になってから僕は人が変わったように勉強に没頭するようになる。いや、没頭せざるをえないほどの環境に追い込まれたと言ったほうが正確かも知れない。
「新潟大学教育学部中学校教員養成課程英語科のキツさは尋常じゃない。一言で言うなら“異常”だ」
英語科の1年生11人が先輩からの謎の警告を受けたのは、僕がインドから帰国した直後のことだった。謎めいたお達しに僕らは困惑。しかし、すぐにその謎は解けることになる。

 2年生になった僕らは教育学部棟に“収監”された。学部棟の7階からは日本海の海面が日差しに反射した煌めきがとても綺麗に見えていた。
 7階はフロアのほとんどを英語科が占拠。暗い廊下の端から端まで、教授の研究室、セミナー室、音声学習室・・・英語科専用の教室がびっしりと両端に2つずつ並んでいた。そんな1つのフロアにいるのは11人(×3学年)の学生と7人の教授だけ。英語科の教授の研究室はそのフロアに集中している。常に教授が文字通り手の届くところにいる状態。ほぼ教授と11の状態で教えを乞えるという意味で信じられないほど恵まれた環境だった。だが、「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」というニーチェの警句を引用するまでもなく、僕らが教授に付きっきりで教えてもらえる環境とは、逆に言えば教授からも学生の課題に取り組む姿勢がすぐに目に入る環境。一瞬も手を抜けない専門科目開始のゴングが鳴らされた。結局、卒業までの3年間でその環境のメリットとデメリットの両方を余すところなく味わうことになる。
 僕の24年生までの大学時代の専門科目の思い出は、あの薄暗い教育学部棟抜きには語れない。というのも、寝る以外の時間はずっとそこで英語辞典と睨めっこしなければ終わらないほどの大量の課題に見舞われたからだ。「日本の大学生は勉強しない」と皮肉げに語られることが多いが、その説に当て嵌めるならば新潟大学の教育学部棟7階は日本ではない治外法権の働く空間だったのかもしれない。思わずそう首をかしげたくなるほどの想像を絶する量の課題だった。

余談だが、あの頃経験したどうやっても終わると思えないほどの無茶振り。そんなものをこなした僕から見たら、現在の学生たちが「忙しくて課題が終わらない」と嘆くのを聞くたびに「暇じゃん」としか思えない時がある。もちろんその時の僕を基準にしてはいけないと思うので、僕の学部生時代の勉強量を学生に押し付けることはしないが。

ある必修の授業では初回の授業で100ページほどの英語の本を配られた。
ここまで読んで、このブログの大学生の読者は、「それを1年間で読むことになるのかな」と思ったかもしれない。しかし、実際はそれを“1週間で全訳”させられた。毎週渡される100ページ弱の新しい本。全ページを手書きで和訳していく作業は想像を遥かに絶するほどに過酷だった。1年が過ぎる頃には、本棚の一角は和訳させられた本で埋め尽くされることになった。しかもご丁寧に英語科学生11人みんな違う本を渡されていて、相互に協力して進めることも不可能。毎週その授業が近づくと受講者の目の下にクマができるようになった。
「よし、心機一転して勉強するぞ!」とモチベーションが高かった4月はなんとか気合で乗り切ったものの、5月に突入するともはや精魂は尽き果てつつあった。
そんな時ふと僕の頭にある疑念がよぎった。「待てよ、果たして教授は100ページ×11人分を確認できているのだろうか。」疑念の種は芽を伸ばし、ついに僕はある“実験”を敢行することになる。
まず、はじめに最後の数ページだけ和訳と全く関係ない文章を挟んでみた。次の週・・・特に注意もされずそのまま返ってきた。少なくとも最後まで読んでないと判明。
それに味をしめた僕は、次の週は輪ゴムを提出する課題の数カ所挟んでみた。もし先生が和訳を確認するためにページを開いたら輪ゴムが落ちる。輪ゴムがそのままならページを開いてないと判断する作戦だった。次の週・・・全ての輪ゴムはページに挟まったままだった。「開いてない!」。
ついには無茶振り。ページの3分の1近くに輪ゴムを挟んだ。なんと全ての挟んだ輪ゴムがそのまま!「1ページも開いていない」と完全に確信した。
それから僕は最初の数ページだけ真面目に翻訳し、残りの90ページ超は全て既に返却されてきた紙を挟んで提出するようになった。課題開始からおよそ1ヶ月しか経っていない5月半ばのことだった。しかしある日、事件が起こる。
12月ごろの授業で先生はふと思い出したように「じゃあ全員で翻訳を確認していくぞ」と授業内容を変更したのだ。当然だが、僕の手元にあるのは課題本の翻訳とは全く関係のない適当な文章の束。血の気がひいてぶっ倒れそうになった。一人一人当てられて和訳を音読していく地獄のような90分。恐ろしすぎて記憶が定かではない。

その教授の授業の課題はとんでもないものだったが、試験もそれに輪をかけたくらいとんでもないものだった。『英文法総覧』という600ページを超える有名な文法書がある。高校生には難しすぎるが、英語を専門に研究する学者からは絶大な評価を受けている本だった。その本から10箇所出題され、7つ以上正解できたら単位をもらえた。しかし、出題範囲は600ページ。文法事項にとどまらず、欄外の注釈にある雑学的な内容からも平気で出題された。例えば、(その試験対策のために大学時代に覚えたことのいくつかはこの歳になっても脳味噌に染み込んでいる)「中右実(なかうみのる)という有名な文法学者がいるが、彼の主著と出版年を述べよ」といった問題すらでた。欄外に小さく記載してある出版年まで答えられないと不正解扱いされるのは、もはやわけがわからなかったが卒業するため必死だった。ただ、一言添えるとすれば、600ページ"丸暗記”により英文法の知識が無理やり頭に入ったことは間違いない。

そんな我らの暴君(教授)はゼミについても奇妙なルールをお達しになった。「男は全員、私のゼミに入りなさい」。自由意志やアカデミック・ハラスメントという“文明的”なルールが形骸化した特殊な空間、それが僕の学んだ時代の教育学部棟だった。ちなみにあの世界では男性学生は”マイノリティ”、女性支配空間だった。
上記のように専門科目が始まってからの僕は、課題の山をちぎっては投げという気持ちで獅子奮迅の格闘をしていた。2年生のうちは膨大な課題を消化するのに、文字通り朝から晩まで1週間ずっと机に向かいっぱなしで「考える暇」がなかった。言われるがまま、彼の言語学のゼミに所属。しかし、3年生に上がる頃には少しは周りを見渡す余裕が生まれ、自分が何を学びたいのかというものが見えてきた。

そのきっかけは教育実習に行った時に実習先の学校で「君は米山朝二先生、高橋正夫先生のいるあの新潟大学“で学んでいるなんて本当に幸せ者だな」と心底羨ましそうに声をかけられたりすることだったかもしれない。実は年生の半ばに知ったのだが、新潟大学英語科には2人の“知の巨人”がいたのだ。2人は新潟大学卒の同級生。日本の学校英語教育にコミュニカティブ・ティーチング(コミュニケーション力を伸ばす英語教授手法)を本格的に導入した立役者という偉大すぎる実績の持ち主。その名を日本の英語教育界で知らぬ者はモグリか素人だけだった。 
3年生になってから巨人たちの「英語教育法」などの英語教育関係の授業を受けて眼から鱗の連続。日本の英語教育の現状分析から始まり、「どんな教育が理想なのか」果ては「それを実践するための指導法(実演)」まで理論と実践を全て目の前で表現してくれるような超ハイスペック講義。遅刻した学生、予習の足りない学生は厳しく叱責されるが僕には苦にならなかった。先生が真剣に授業を準備をし、本気で取り組んでいることが見て取れたからだ。その時までの様々な経験から、僕は人の目や動作から「本気度」を見極める技術を身に着けていた。高校時代や大学一年次、授業がつまらなくて学校教育を蔑んでいた僕の心が急に震え始めた。

「これが面白い」と自分が納得したらとことん突き詰めるのが僕の性格。2人の知の巨人の授業、特に米山先生の授業は一言一句聞き落とすまいと誠心誠意取り組んだ。勧められた本は借りるか買うかして全て読破、授業は人一倍真剣にきき、教育実習では教わった教育理論を実践した。
「僕の関心は英語教育法に移りました!」鬼と恐れられていた言語学の教授に頭を下げて、米山先生のゼミに移籍した。前例のない3年次末でのゼミ変更。僕より成績がいい同級生はいくらでもいたが、僕より米山教授の授業に“極端”に没頭した同期学生は他に知らない。

 大学4年生になる頃には、「大学院に行こう」と考えるようになっていた。大学院に進学するなら東京大学、東京学芸大学それから筑波大学。博士課程までのコースが整備されていて、意欲の高い同級生たちと切磋琢磨できる。米山先生含め新潟大学の教授からもそう勧められた。先生方が、大学院後の進路のことも考慮して進言してくださっていた。しかし、僕には研究者の道を目指す気持ちなど毛頭なく、ただただ、米山教授の指導理念に傾倒し「この先生からもっと学びたい」その一心だった(”このまま社会に出ても使い物にならない”という本音もあった)。なぜかこの時には長年の東京への憧れは鳴りを潜めた。
「新潟大学の大学院に進学すれば米山教授の教えを独り占めできる!」そんな思いが決め手となって新潟大学大学院を受験。筆記試験、面接ともに普段から多くの時間を共にさせていただいている教授が行うのだ。落ちる気はしなかった。結果、危なげなく合格。こうして僕は学部卒業後も引き続き大学院で英語教育の研究を深めることとなる。
新潟大学教育学研究科教科教育専攻英語教育専修。受験者2名、合格者2名。

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