2020年4月30日木曜日

私の履歴書(番外編1) 五度の交通事故


  私の履歴書(番外編1)「五度の交通事故」

 今、大学ではもっぱら遠隔(オンライン)授業です。僕にとって初体験ですが、性格的に中途半端なことが苦手な僕は、空き時間を見つけていろんなことを試しています。で、昨夜はスマホの音声認識機能のみで文章がどの程度書けるか挑戦してみました。ですので軽いテーマです。(やはり少し編集が必要でした。)

今日は交通事故について話してみたいと思います。皆さんの中で交通事故に遭ったことがある人はいますか。僕はなんとこれまでの人生の中で、五度も交通事故に遭っています。これほど運の悪い人間は他にはいないのではないかな、と思うほど多くの交通事故を経験してきました。

一度目は高校2年生の時。通学途中のことです。僕は傘さし運転をしていました。気がつくと目の前に車が飛び出してきて僕にぶつかりました。僕は投げ出されたものの、手足に切り傷を負う程度で済みました。車の運転手は出てきて僕に声をかけました。“大丈夫か”。僕はとっさに“大丈夫です”と答えました。すると運転手は急いで車に戻りスピードを出してその場を立ち去りました。僕はほっとしました。「え、なぜほっとするの?」皆さんは不思議に思うかもしれません。実は僕は学校に自転車通学を許可されていなかったのです。

僕の家は学校から少し離れたところにありました。しかし学校の規則では、2キロ以上離れた場所に住む人しか自転車通学許可していませんでした。僕の家は、学校から何と1.95キロ。 あと50メートルを何度恨んだ事か。僕は内緒で学校近くの友達の家まで自転車で行き自転車を置かせてもらい、そこから歩いて学校に通っていました。もし運転手の方が警察や自宅や学校に連絡をすれば、この事故は公になり僕が自転車で通学していたことがばれてしまいます。しかも傘さし運転です。運転手と僕の咄嗟の行動は「WIN-WIN」が成り立っていました笑。

手足の切り傷といっても、血が滴る位でしたから、警察に連絡すべきことだったと後になって思いました。警察に連絡すれば明らかな人身事故。運転手の方は愚かな僕に助けられたと言っていいでしょう。

二度目の交通事故は高校3年生の時。スクーターの運転中でした。普通に走っていたら、目の前に軽乗用車が突然右折してきて僕にぶつかりました。この事故は100%車の運転手の落ち度です。バイクから3メートルほど投げ出されましたが、ヘルメットに救われました。頭をコンクリートにぶつけたものの、ヘルメットのおかげで手足の打撲と切り傷だけで済みました。そのヘルメットはその時限りで“あの世”行きでした。この時は警察が来て、僕は救急車で病院に搬送されました。運転手は40代の女性。その夜我が家に夫婦で謝罪にいらっしゃいました。

ところで、この事故の時に僕は初めて交通事故に会うと保険金が出ることを知りました。それを知り僕は父に言いました。「僕が遭った事故だから保険金は僕のものだ!」「お前はバカか」と父は答えました。「誰が保険料を払ったと思っているんだ!」僕はとても悔しかったの覚えています笑。

三度目の交通事故は大学3年生の時。僕は先輩の運転する車でラーメンを食べに行きました(僕は免許も車も持っていなかった)。その日は雪が降っていました。帰り道。白く染まった雪道を先輩が運転し、僕は助手席でした。と、少し前に、雪と同色の白いスクーターが路上駐車しているのを発見しました。先輩に言いました。「スクーター気をつけてくださいね。」しかし、先輩はそのスクーターに気がつくのが少しだけ遅かった。そのスクーターを避けようとハンドルを右に切りました。そこで車がスリップ。車はコントロールを失いました。僕の目の前に電信柱が近づいてきました。そして、車は僕の真横から電信柱に突っ込みました。車は真っ二つに割れました。突っ込む直前、「人生終わり」と本気で思いました。死ぬ前には過去の記憶が蒼魔灯のように蘇ると聞いたことがあります。しかしそんなことはありませんでした。ただ突っ込んだだけでした。直前、「関、ごめん」と言った先輩の声が今でも鮮明に記憶に残っています。

気がつくと目の前は真っ黒の空から降ってくる雪でいっぱいになりました。さぁ何が起こったかわかりますか。僕の体は真っ二つに割れた車と電信柱に挟まれた形になったのです。後日、警察の方曰く「生きていることが奇跡だ」そうです。電信柱は僕のわずか数センチ後ろに突っ込んだのでした。先輩は“大丈夫か”と一言、意識を失いましたが、間もなく復活。僕はと言えば、腰から下が潰れた車体に圧迫され、とにかく痛くてたまりませんでした。「痛いよー、痛いよー」と叫びまわっていたのを覚えています。通行人が警察を呼んでくださりました。まもなく到着した警察官とレスキューの人々が僕を助け出してくれました。僕はそのまま救急車に乗って病院に運ばれました。「あれ先輩の姿がない。どこに行ったのだ。」救急隊員に尋ねました。「加害者は警察に行く」救急隊員は他人事のように“シラっと”答えました。ショックでした。

僕は下半身のひどい打撲で両足ギブスをはめることになりました(その後遺症が今でも残っています)。しばらくすると先輩が病院に到着しました。警察の事情聴取を終え、とりあえず僕のところに行くように言われたのだそうです。病院に頼んで入院は免れ(定期試験期間だったのです)、僕と先輩はタクシーで僕の自宅まで戻りました。
結構ひどい事故だったので、先輩はお母様とともに後日、遠路僕の実家に謝罪に行ったそうです。なんか申し訳なくなりました。後日真っ二つになった車を見せられ、ぞっとしました。

四度目はインドです。結婚して数年後、妻と2人でインド旅行しました。首都ニューデリー。バイクリクシャーに乗って観光中、信号待ちをしていました。するといきなり後ろからものすごい衝撃を受け、意識を失いました。ほどなくして意識を取り戻し後ろを振り返ると、そこには大きなバスらしきものがありました。なんと路線バスのブレーキが壊れ、普通スピード走行のまま僕たちの乗るバイクリクシャーに追突してまったのです。リキシャーは全壊。しかし僕も妻も生き残りました。どちらかと言うと僕の方が症状が重くそのまま救急車で病院に搬送されました。その後治療を受け、幸いにも軽傷と診断されました(意識失ったのに・・・)。警察に行き拘留中のバスの運転手と面会させられました。“こいつをどうしたいか”と警察官に聞かれました。10代の少年。怯えた顔で僕の方を見つめていました。貧しい家庭の子と聞きました。お父様の涙も見ました。このときのことを詳細に話すとキリがないので省略しますが、僕はその運転手を許しました。当時の僕にできる最大の「国際支援」でした。

五度目は3年前の3月、家族で久しぶりの一泊二日の温泉旅行に行った帰りでした。場所は東京都福生市の横田基地の真ん前の通り。信号待ちをしていると突然後ろから大きな衝撃を受けました。中型トラックがブレーキを踏まぬまま僕たちの車に衝突したのです。居眠り運転でした。僕たちの車は全壊。家族4人とも、ひどいむち打ちで病院に運ばれました(全員首にコルセットをつけました)。中でも症状が重かったのが長男と僕です。その中でも一番症状が重かったのは僕でした。その後遺症は今でも残っています。大学生の時に負った膝の後遺症。そして数年前に負った腰の後遺症。

僕はなんと運が悪いのだと思いつつ、一方で交通事故に五度も逢いながらいまだ生きてることに感謝しながら日々を過ごしております。

余談になりますが、カナダバンクーバーの無人電車の中で強盗に殴られまくり救急車で病院に搬送され、地元紙で報道されたこともあります。思い返せばすべて懐かしい。
 くだらない話にお付き合いいただきありがとうございました。

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