「私の履歴書#2」(https://19b0304.blogspot.com/2020/03/blog-post.html)で、私の人生を貫徹する哲学について語った。その哲学とは「集団は常に流されるものだ。集団に期待するのではなく、せめて自分は集団に流されないように生きよう」(「私の履歴書#2」より引用)というものだった。この哲学は私が大学で授業を行う時も、通奏低音のように常に意識されている哲学だ。この記事では“大学4年間のうちに身につけて欲しい能力”について述べる。大学生のみならず、「大学ってどんなところなの?」「高校までの勉強と何が違うの?」と、疑問を持っている中高生にも役立てられるような内容となっている。
私は大学では「異文化コミュニケーション」の授業や、ネパールやベトナムなどアジア各国への夏季研修を実施するゼミ演習を教えている。「誰もが幸せを摑める多文化共生社会の実現」という大きな夢を掲げて活動を継続してきた。もちろん異文化と交流するためには共通言語となる英語の能力を磨き上げることが求められる。しかし、それだけでは理想的な異文化交流は成り立たない。自分の頭で考えられることがより必要となるのだ。それが先ほどの“私の哲学”と繋がってくる。
私が大学4年間で最も涵養したい能力を一言で言うなら、立ち止まって「本当?」と考える能力だ。たとえばニュースを見ているとき。キャスターが話したことを盲目的にウンウンと頷いていないだろうか。いったん立ち止まって自分の頭で考えてみて欲しい。これは人からアドバイスを受けるときにも当てはまる。「〇〇に言われたから」、そんな理由で物事に自分なりの軸を持たずに軌道修正するのはとても危険だ。他者の意見に流されてしまう人は多いように思われるが、その決断は後悔を伴うことも多い。
もちろん立ち止まって考えるのは難しい。目先のことに飛びつかない我慢強さが求められるからだ。思えば、私のこの哲学は豪雪地帯に生まれ育ったことと何か関係しているかもしれない。雪国の冬は長く、厳しい。1年の内四ヵ月間は雪かきに明け暮れた。屋根から雪を下ろせども、途切れることのなく雪は積もり続ける。来る日も来る日も辛抱強く雪かきをした。そんな雪かきの肉体労働的な地道さは、“立ち止まって考える”という忍耐を要求される思考と親和性の一致をみる。
気がつけば私が東京経済大でゼミを担当した2007年から早くも13年が経過した。グローバルや多文化共生という言葉はこの13年で耳にする機会が着実に増してきた。しかし、繰り返していうがここで肝心なのは、単に英語だけができる人材が求められているわけではないということだ。もちろん英語は大切だ。できるに越したことはない。しかし、ともすれば“立ち止まって考える”ことは英語以上にずっと大切だ。英語はたとえおぼつかなくとも、本当に伝えたいことさえあれば通訳を介すことで意思伝達はできるだろう。だが、“立ち止まって考える”という思考の姿勢は通訳と違って誰も肩代わりしてくれない。そして、これこそ私が“立ち止まって考える”姿勢を重視する最大の理由なのだ。
では、どうすれば“立ち止まって考える”ことができるか。次回の記事ではそれについてゼミ活動での具体例をあげながら語っていきたい。
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