2020年3月6日金曜日

大学在学中に身につけて欲しいこと

 「私の履歴書#2」(https://19b0304.blogspot.com/2020/03/blog-post.html)で、私の人生を貫徹する哲学について語った。その哲学とは「集団は常に流されるものだ。集団に期待するのではなく、せめて自分は集団に流されないように生きよう」(「私の履歴書#2」より引用)というものだった。この哲学は私が大学で授業を行う時も、通奏低音のように常に意識されている哲学だ。この記事では“大学4年間のうちに身につけて欲しい能力”について述べる。大学生のみならず、「大学ってどんなところなの?」「高校までの勉強と何が違うの?」と、疑問を持っている中高生にも役立てられるような内容となっている。

 私は大学では「異文化コミュニケーション」の授業や、ネパールやベトナムなどアジア各国への夏季研修を実施するゼミ演習を教えている。「誰もが幸せを摑める多文化共生社会の実現」という大きな夢を掲げて活動を継続してきた。もちろん異文化と交流するためには共通言語となる英語の能力を磨き上げることが求められる。しかし、それだけでは理想的な異文化交流は成り立たない。自分の頭で考えられることがより必要となるのだ。それが先ほどの“私の哲学”と繋がってくる。

 私が大学4年間で最も涵養したい能力を一言で言うなら、立ち止まって「本当?」と考える能力だ。たとえばニュースを見ているとき。キャスターが話したことを盲目的にウンウンと頷いていないだろうか。いったん立ち止まって自分の頭で考えてみて欲しい。これは人からアドバイスを受けるときにも当てはまる。「〇〇に言われたから」、そんな理由で物事に自分なりの軸を持たずに軌道修正するのはとても危険だ。他者の意見に流されてしまう人は多いように思われるが、その決断は後悔を伴うことも多い。

 もちろん立ち止まって考えるのは難しい。目先のことに飛びつかない我慢強さが求められるからだ。思えば、私のこの哲学は豪雪地帯に生まれ育ったことと何か関係しているかもしれない。雪国の冬は長く、厳しい。1年の内四ヵ月間は雪かきに明け暮れた。屋根から雪を下ろせども、途切れることのなく雪は積もり続ける。来る日も来る日も辛抱強く雪かきをした。そんな雪かきの肉体労働的な地道さは、“立ち止まって考える”という忍耐を要求される思考と親和性の一致をみる。

 気がつけば私が東京経済大でゼミを担当した2007年から早くも13年が経過した。グローバルや多文化共生という言葉はこの13年で耳にする機会が着実に増してきた。しかし、繰り返していうがここで肝心なのは、単に英語だけができる人材が求められているわけではないということだ。もちろん英語は大切だ。できるに越したことはない。しかし、ともすれば“立ち止まって考える”ことは英語以上にずっと大切だ。英語はたとえおぼつかなくとも、本当に伝えたいことさえあれば通訳を介すことで意思伝達はできるだろう。だが、“立ち止まって考える”という思考の姿勢は通訳と違って誰も肩代わりしてくれない。そして、これこそ私が“立ち止まって考える”姿勢を重視する最大の理由なのだ。

 では、どうすれば“立ち止まって考える”ことができるか。次回の記事ではそれについてゼミ活動での具体例をあげながら語っていきたい。

2020年3月2日月曜日

関昭典教授 私の履歴書#2 小中学時代

◯今の私を形成する小中時代の二つの出来事

 「今は情報がたくさんあるから、自分なりの哲学がないと流される」 高校の時にめくっていた頁で出会った一節だ。これは当時、二つの事件をイニシエーションとして潜り抜けた私にとって腑に落ちる言葉であった。
 では、なぜ私がこの一節に惹かれたのか、今回はその原因となった二つの事件についてのエピソードについて語りたい。

 現在の私を考えるのに欠かせない二つの出来事がある。
 一つ目は小学6年生の時に受けたいじめの経験だ。
 そして二つ目は中学3年生の時に学校を健全化させる過程で経験したことだ。
 今日はその二つについて書いてみたい。

 小学六年生の時に私は苛烈ないじめを受けていた。それはクラス全体から一言も口を聞かれず無視されるというものだった。そのクラスは今でいう「学級崩壊」状態であった。タチが悪いことに教師がいるときは彼らのイジメは鳴りを潜めた。幸いなことに当時所属していた学外の野球のリトルリーグに参加しているときは、同じクラスの同級生が口を聞いてくれた。唯一の救いだった。
 この時期の少年にはよくあることかもしれないが、あの頃はイジメを受けることがとてもきつかった。学校が世界の大部分を占めていたからかもしれない。両親には言えなかった。父親も母親も、私が学校で学校生活を謳歌していると思っていただろう。そんな両親の期待を裏切っていることが辛かったが、勉強は手につかず授業もほとんど聞いていなかった。「早くイジメが終わらないか」そればっかりを考えていた。卒業までの日数を胸中で何度数えたことだろう。

 小学校の卒業と同時に、まるで明けることない夜のように思えたイジメは終わった。しかし、人間関係はガラッと変わったわけではない。小さな田舎町の唯一の中学に進んだからだ。クラスメートの9割以上が小学校の時の顔見知りだった。この中学時代に私は、のちに様々な決断する際に指針となる一つの哲学をつかむことになる。

 その哲学は、私が生活委員長に指名されたことと関係している。私が進学した時、学校は荒廃の一途を辿っていた。暴力、派手なヘアースタイル、服装違反、恐喝、校内や器物の破損、シンナー吸引などなど。まさに無法地帯。下級生が上級生の教室の前を通ると殴られる、先生が目の前で生徒に殴られるということが本当に起こっていた。教師でさえもコントロール不能に陥っていた。分かりやすいイメージを掴んでもらうためにあえてデフォルメして表現するならば、まるで『北斗の拳』のような世紀末を彷彿とさせるような有様だった。

 中学二年の冬のある日、教師がいない自習時間に「不良」の1人が私が椅子から立った隙に椅子に数本の画びょうを置いた。知らずに座って痛がる私を見てそいつは爆笑した。数年間の怒りが爆発したのか、私は近くにあるもの椅子や机をそいつに投げつけた。そして本気で殴り掛かった。その後のことは記憶にないが、後日友人から、私のパンチはすべて空を切りそいつのパンチはすべて僕の頬に命中したと聞かされた。この行為がなぜかクラス内、教員内で称賛され、私は学校更生の切り札として生活委員長に就任することを説得された。いやであったが、「お前しかいない、頼む」と何度も言われ、最終的には「教師の全面支援」を条件に引き受けることにした。
 ちなみに、その時の学校の更生について当時の学年主任が書いた本が、『ドキュメント中学がよみがえった日』,田村,講談社である。田村先生は翌年、卓越した教育者に送られる読売教育賞を受賞した。私のこともかなり詳細に書かれている。

「やるからには全力を出し切ろう」そう決意して開始した。40人の生活委員、同学年の友人、担任の先生とタッグを組んだ。「まずは六中を悪い方向に引っ張ろうとしている不良グループを更生させることが重要だ」と目標を定めた。詳細な服装規定を作り、クラスの生活委員を通じた日々の服装検査を徹底した。週2回以上の違反があった生徒を全校朝会の際にステージに上げ謝罪させた。当然不良グループは反発し、特に怒りの矛先は委員長だった私に向いた。廊下ですれ違うたびに殴られる、教室まできて蹴られる、しまいには複数回リンチを受けた。先生方は私にボディーガード(強靭な同級生)を2名つけ、私だけより安全な職員玄関から登下校するようになった。
 正直なところ、死ぬほど怖かったし悔しかった。「もうやめてしまおうか」そんな思いが何度も脳裏をよぎった。

 そんな時に、学年の友人から「頑張れ」「負けるな」と励ましのメッセージを数多くもらった。学級通信や学年通信にも本人の名前入りで私への応援メッセージが繰り返された。しかしそのメッセージを眺めながら、ふっと感情が冷め。白けている自分がいた(決して態度にはださなかったが)。
 というのも、彼らの中には小学6年生の時私を無視し、イジメていた人たちが何人もいたから。おそらく、彼らはもうそのことを忘れていたのだろう。子どもとはそういうものだし、何事も加害者よりも被害者の方が記憶に残っているものだから。
 計らずもこの学校改革の渦中にいた私の経験談が、その年の「少年の主張」全国大会で文部大臣賞を受賞することとなった。

 この経験から私は、集団心理というものを学んだ。それは、「人はある集団の中にいると、簡単に流されてしまう」という事実だ。
 小学校の時はクラスの空気に流されてイジメを行った人たちが、中学では無邪気に「頑張って」と応援の声をかける。そんなある種の“無垢さ”に違和感を覚えたのだと思う。
 そこから掴んだ哲学は、「集団は常に流されるものだ。集団に期待するのではなく、せめて自分は集団に流されないように生きよう」というものだった。

 それからというもの、集団生活の中で何か決断する度にもう一人の自分が私の心に現れ「本当にそれで正しいの?」と囁くようになった。それは少なからず私が決断する時に集団の空気に流されない恩恵となった。付和雷同的にふわふわと集団の流れに身を任せてたどり着ける場所には限りがあるから。流されそうになった時に、一度立ち止まって自分の頭で判断する習慣。
 以上の、小・中学時代の二つの実体験を通してそんな立ち止まる視点を獲得できたことで、その後の人生の選択は少なからず変化したはずだし、「立ち止まる視点」こそが今ある自分の礎となっているのかもしれない。

2020年2月28日金曜日

関昭典教授 私の履歴書#1 小学時代 山の向こうに行きたい

(前置き)

◯「私の履歴書」とは何か

 今回から「私の履歴書」のコーナーを不定期で連載していきます。
 某日経新聞では、一人の著名人について一ヶ月(約30日)間かけて幼少期〜現在に至るまでの人生の軌跡をたどります。
 このブログでは、1ヶ月に約3投稿、一年間の約36投稿で関昭典教授の現在までの軌跡としてたどることを予定している連載です。

(本文)

 私が生まれたのは1968822日、新潟県の豪雪地帯、小さな田舎町だった。小学校の授業を受けているとき窓の外に臨める魚沼盆地を眺めて過ごした。そのとき胸中を渦巻いていた感情は「ここから出たい」「山の向こうへ行きたい」という漠然とした憧憬だった。

 この「この狭い世界(自分の住んでいる町)の外に出たいという」思いは、小学4年生の時にふとしたきっかけで実現する。定期購読していた小学生新聞で、「夏休み九州旅行」の参加者を募集していた。普段あまりわがままを言わない子供だったがこの時ばかりは「是非!」と親に頼み込んだ。親と離れてのツアーということで母親は心配から難色を示したが、父親は頷いた。「いいよ、その代わり一つだけ条件がある」と。その条件とは、旅行で行く地域を自分で事前に調べることだった。インターネットのなかった時代だ、小学校の図書室にこもりっきりになってノートに詳細に書き写した。やりたいことのためには行動力を発揮できる子供だった。

 家族について言及するなら、父は小学校の教員、母は家庭児童相談員だった。今思い返せば、とても教育熱心な両親で、幼少期からバイオリンを習わせてくれたり、夏休みの自由研究に本気で付き合ってくれたりした。ただ、無理やりやらされていたバイオリンには興味が持てず、小学校卒業と同時にすっぱりとやめてしまった。兄は成績が良く、現在は著名な脳科学者である。兄は勉強が抜群にできたこともあって、兄への憧れと劣等感は今に至るまで消えない。全体的に「苦手意識」と「自信のなさ」の抜けない人間となってしまった。

 やりたいことは夢中になって取り組む反面、興味が持てないことにはピクリとも食指が動かなかった。振り返ってみれば、少し変わっているところがある幼少期だったかもしれない。例えば、絵には特に興味が持てなかった。それは幼少期に友人がとても上手なムーミンをスケッチしていた時だったか、隣で非常に退屈さを感じ、クレヨンを自分の鼻に出し入れしていた。すると赤いクレオンが鼻から抜けなくなり周囲を大騒ぎさせた。中学校の成績では10段階評価で1を取っていたほどに絵を描くことが嫌いだった。写生大会の帰りに自分の描いた絵を川に捨てて、先生には「なくした」と嘘を言い張ったこともある。

 逆に興味が持てることに関してはよく取り組んだ気がする。小学3年生の時、夏休みの自由研究で「粉の溶ける早さ」というテーマで砂糖が水やコーラ、日本酒、ウイスキーといったありとあらゆる溶媒に溶ける溶解度を調べ、まとめた。これは小学校の代表になり、町のコンクールに進出しそこでも代表に選出された。
 調子に乗った私が翌夏の自由研究で選んだテーマは「ミミズが死ぬまでの早さ」今となってみればその残酷さに驚くが、当時大自然に囲まれた一少年には興味深いテーマであった。あらゆる溶媒にミミズを入れて、命尽きるまでの時間を計測した。再び小学校の代表となった。2年連続の選出だった。

 こうして振り返って見るとやりたいことには夢中になれるが、やりたくないことにはとことん不真面目な極端な少年だった。何でも突き詰めて努力し結果を残す兄とは正反対。この気質を決して好まなかったが、性格だから仕方がない。この気質も影響し、その後の人生で何度も大きな転機に巻き込まれることとなる。どうやって現在いる場所にたどりついたか、その半生を振り返ってみると、コインを投げ連続でオモテを出し続けるような偶然や出会い、そして奇跡に見舞われたとしか考えようがない。誰しもが経験するような苦境も経験した。次回以降、そんな思い出について綴っていきたい。

2020年2月26日水曜日

序:なぜこのブログを始めるのか?

「このブログは何を発信していくの?」
そんな疑問に一言で答えるならば、こうだ。
このブログは関昭典先生の活動記録である。

というのは、関先生のことを1mmでも知ったものは共通の疑問を抱く。
それは「関昭典先生とは何者っ?!」という疑問だ。

そもそも、なぜ関先生はそんな疑問を持たれるような人物なのか?
その初歩的な疑問に答えるには、先生の肩書を下記に列挙すれば歴然とする。

・東京経済大学教授
AAEE, Asia Association of Education & Exchange(一般社団法人アジア教育交流研究機構)代表理事、会長
・ベトナム友好組織連合アドバイザー
…etc 謎深い。
肩書をひたすら羅列しても助長になるだけだし、全て書き尽くすことはしないが、上記に挙げたものは等身大の関氏を表現するためのほんの一部に過ぎない。

先生のフェースブックには4000人以上のフォロアーがおり、その多くがアジアの人たち。主宰するAAEEの英語ページには実に20000人のフォロアーがいる。

ここまで読んで、こんなツッコミを入れたくなっただろう。
「この、常人の何人分もの密度の濃いグローバルな人生送っていそうな関昭典氏って何者?!」と。

そんな疑問の答えがこれから綴られていくのがこのブログである。

と、いうのも
関氏はこれだけ精力的に多方面で活動しているにもかかわらず、いや、活動し過ぎているからこそ、その活動量と比べると一般人への発信が極端に少なかった。SNSなどを見ても学生と一緒の写真や学生の自慢話ばかり。

例えばAAEEの活動だけに焦点を当ててみても、過去10年間で2週間にわたる国際交流イベントを累計27回も実施している。
腰を据えて活動記録をつけるには少々多忙すぎた。

私たちは、関先生の活動やこれまでの軌跡を知りたいと思った。そこで、先生に活動記録を書くようにお願いした。しかしお願いしていておきながら罪悪感もあった。なぜならば猛烈に動き回っているからである。休みなく動き回り、かつ夜遅くでも学生の相談に乗ってくれている。さらに、4月からは大学の役職に就き今よりもさらに多忙になるそうだ。
そこで我々は考えた。我々学生が先生のブログ執筆をサポートしよう!

このブログでは関先生自身の執筆に加えて、我々が先生にインタビューしたり日常の活動に密着しながら記録していく。

・活動記録
・今に至るまでの人生の軌跡
・関わっているプロジェクト
・教育哲学
・面白い体験談
など多角的な視点から語ることで、少しでも関先生にかかった謎めいたベールを取り払っていきたい。